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あしたへ贈る歌  作者: こいも
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命の数

 二葉亭学園111周年を記念して1992年に建設された記念講堂は、2500人を収容できる大きな建物だ。

 コンサートホールも兼ねているため合唱コンクールなどで使われ、「ふたばホール」という愛称で呼ばれている。

 講話開始時間が近づくと、一般客がちらほらと会場に姿を現し始めた。

 たかが生活安全講話。されど生活安全講話。

 一般客なんてそうそう来ないだろうと思われていたが、タイムリーな話題に保護者たちも興味を引かれたのだろう。2500人のホールはほぼ満席だった。

 おかげで会場案内係りも休む暇なく走り回されて、講話が始まる頃には既にクタクタだった。

 そして講話中は二人体制で入口付近に待機。

 その指示を受けた時点で感じた嫌な予感は、見事的中した。

「どうして先生となんですか。」

 そうだね。不思議だね。委員長に聞いて!

 風紀委員が奇数だったためにあぶれた一花と組まされたのは委員長ではなく、雪春だった。

 彼には別の仕事があるらしい。

 悲しいかな、雪春は生徒と並んでいてもなんの違和感もなかった。

 おかげで仏頂面の一花と、40分間隣り合わせである。

「狙ってるんですか?」

 まさか。不可抗力です。

「やっぱりこの間の夜もつけてきたんですか?」

 それは…つけてました。

「校長室でも、植木鉢が落ちてきた時だって。」

 それも…あれ?

 たった数日間で、授業でもないのに5回も。

 たかが一介の音楽教師と生徒が出会うには多すぎる回数である。

(疑われるのも無理はない…)

 雪春は心の中でがっくりと頭を垂れた。

「一花!先生に対して何て態度だ!ユキは一花のためにやってるんだぞ!」

 幸太郎が一花の目の前に立って叱りつける。

 ありがとう、でも、もともとはあんたのせいだ。

(どうして見えるのが私だけなんですか!)

 改めて嘆きたくなった。



 講話は雪春の心には気にも止めず、順調に進んでいく。

『一人では行動しないこと、何かあったらすぐ近くの交番や店などに駆け込むこと…』

 講師がマイクを通して訴える。

(一人で行動しない…か)

 簡単に言ってくれる。普通の人にはできるその対処法も、なかなか取れない人だっているのに。

 しかしそれは講師に訴えても仕方がない。

 生徒全員に一緒に行動する友達がいるかどうかなんて、彼が知るわけがない。そんな悲しい調査なんて生徒もされたくないだろう。

 通り魔事件の話はそれでひとまず終えるらしい。講師は映し出していた画面を一度切り、プロジェクタに接続されたパソコンを操作した。

 時計を見ると、残り時間15分。次の話題で最後になるだろう。

 操作に少し手間取っているようで、巨大スクリーンが青い無機質なパソコン画面のままである。

 雪春はそれを見るともなしに眺めていた。

 

 突然、交通事故の現場写真が映った。


 急に衝撃的な場面が現れて、息を止める気配がした。会場内も少しざわめいている。

『交通事故発生率は1990年より増加傾向にあり、2004年には過去最高の…』

 次々と写真を変えて説明される。

 時間が経つと衝撃も薄れたようで、観客たちはすぐに静けさを取り戻した。

『2009年には、死者数は4000人台に減少しましたが…』

 しかし隣の二人分の心の内はそうではないことを、雪春だけはわかっていた。

 

「知らなかったんです。」

 一花が唐突に語りだす。

「お兄ちゃんが来てくれるって。」

 補語がなかったが、入学式の日のことを言っていることは明らかだった。

 舞台からの光が、淡々と話す一花の横顔を照らしている。

「仕事があるって。ごめんな一花って。」

 スクリーンにはグラフが映し出されていた。

 “今年度の地域別交通事故発生状況”

 文字が目の前をすべっていく。

 昔どこかの街中で、交通事故発生件数が表示されているのを見たことがあった。

 “本日の交通事故は6件、負傷者5名、死亡者1名”

「本当は、都合をつけるために、連日仕事をつめてたなんて、言わなかった。」

 無機質な電光掲示板の数字が、上滑りした。

 一人だけか、少ないな。

 一瞬そう思った自分に愕然とした。

「まさか」

 一花はスカートを握り締める。

「寝不足で、突っ込んでくる車にも、気づかなかったなんて。」


 原因は飲酒運転。

 数メートルも前からフラフラと横揺れしていたトラックに、幸太郎だけが気づけなかった。


 きっと驚かせたかったのだろう。妹の晴れ姿をこっそり写真に収めて。

 一花、すごくよかったよ!と声をかけて。

 びっくりして、でも嬉しそうに笑う笑顔をみるために。


 目の前の光景がぐにゃりと曲がって、雪春は思わずパイプ椅子の縁を掴んだ。

 

 4000人に減少?死者数1名?

 それがどうした。

 それは、その街で、どこかの誰かが命を落としたということだ。

 誰かが涙を流したということだ。

 

 今、私の隣にいる樋口幸太郎の命が、その数字の中にあるということだ。


『これからも、交通ルールをしっかり守り、交通事故のない社会をづくりを進めていきましょう』

 講師は静かな声で締めくくる。

 雪春は無性に巨大スクリーンを切り裂きたくなった。

 

 講話を終えて講師陣が下がると、一般客は立ち上がり始めた。

 誘導しなくてはならない。

 一階へ出られる左右の入口に人が流れ始める。階段下の扉が開くのを確認してから、声をかけ始めた。

 足腰の悪い人には手を貸し、人が集まりすぎれば、空いている入口を案内。

 お互いに、テキパキと仕事をこなす。

 お手洗いはどこかという一般客の質問に笑顔で答える一花の目には、涙は見えなかった。

 

 ―一花は自分をずっと責めているんだ―


 幸太郎の言葉が蘇る。

 だから夜な夜な歩き回っていた?自暴自棄になって?

 幸太郎の愛情を、あんなにも受け止めていた一花が?

 雪春にはわからない。

 それなのに、と、だからこそ、という相反する気持ちがあったが、二人にしかわからない感情を、雪春が決めつけるわけにはいかなかった。

(あれ…?)

 そう言えば幸太郎はどこに行ったのだろう。講話中は隣にいたのに。

 会場内を見回すと、後方の扉の横に混雑を避けるように立っていた。

 近くを人が通るとさりげなく道をあけている。

(必要ないのに)

 もう必要ないんだ。どうせ体は通り抜ける。誰も気づくことはない。

 浮かばずに律儀に立っている姿に、何だか切なくなった。

 その時。


「あ。」


 誰かの無意識的な声が、妙に響いた。

 周りは一点だけをみつめている。

 つられて目をやる。

 傾いでいく一花の体が目の端に映った。

 雪春は反射的に手を伸ばす。

 指先が制服に触れて、だが掴んだのは空気で。


「樋口さん!!!」

 

 階段上から降ってきた少女に、誰かが悲鳴をあげた。


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