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209話 ヴァルカンティア裏頂点夫婦の朝

窓の外から聞こえる兵の足音に、一人の老人は一瞬目を向ける。

その男は老齢だが、背筋が伸びて眼鏡をかける姿を見れば誰も「老いぼれ」など言えるはずもないほど威厳に満ちていた。


男は少しその音に耳を澄ませた後、すぐに興味を無くして手元の報告書を読み始める。

いつもの朝。


そして、この後にやってくることも、いつも決まっている騒々しさだ。

足音は最大限に殺す癖に、盛大な音を立てて扉を開ける彼の妻だとか。



「ハイネ!目覚めの一杯を入れてきたぞ、今日は南の国からの交易品だ。凄まじく苦いが、目はとてもよく覚める」

「アニータ、いつも言っているだろう?どうしてその足で足音は殺せるのに、扉だけは壊す勢いで開けるんだ」

「文句があるのか?いいじゃないか、この家を私が全力で扱っても壊れない仕様にしてくれたんだろう?」

「君はいつまでも元気だな。俺は体力の衰えを感じているというのに」

「五体満足が何言ってんだい。事務仕事ばかりだから私に負けるんだろう?さぁ、今日も手伝ってやるから早く終わらせようじゃないか」



からからと笑うハイネの妻は、女性にしては珍しくパンツスタイルだった。

男性のような体のつくりがわかるシルエットに、杖を手に持っている。

彼女の右足がないことがよくわかった。


孫娘であるディアーナ王女が、娘婿であるディルクレウスと婚約者のソルディア王子にディオメシアから追い出されて七年。


年月は人を変えるが、この夫妻の中で大きく変わったことはそこまでない。

せいぜい、女大将だったアニータが戦争中に右足を失ったことで、ハイネの補佐に回ったというくらい。


ディアーナ王女の祖父母であり、アンナ王妃の両親であるヴァルカンティア宰相夫妻は、今日も元気に軍事大国ヴァルカンティアを裏から操っていた。



「それにしても、ジークのやつ遅いね。任務でもないのに何日も戻ってこないなんて、サボってるなら戻り次第、私が直々に鍛えなおしてやろうじゃないか」

「やめてやれ。アテナもいないんだ、きっとディアーナのことだろう。あいつは、責任を感じすぎる……アンナの娘だからとジークをディアーナにあげたのは俺たちだろう」

「そうだけどね。心配なのが親ってもんだろう?」

「向こうはそうは思っていないかもしれんぞ。何せ、幼いころから厳しく仕込み過ぎた」

「だろうね。でも、アンナが勝手に連れてきた大切な血の繋がらない息子さ」



老夫婦の快活とした会話の最中も、窓の外では音が続いている。


ザッ、ザッ、ザッ

パァン!


規則正しいその足音、かすかに聞こえる兵の雄叫び、銃撃訓練で発される発砲音。

そのどれもが戦に直結し、平穏とは逆に位置する音。

それがこの国、ヴァルカンティアの日常。


別に不穏なわけではない。

この国の国民全員が危機感を持ち、自主的に身を守ろうと訓練に励む。

何ともストイックな国なのだ、ヴァルカンティア。



「どこにいるのかねぇ、ディアーナは。元気にしているといいけど」

「死んだとは考えないのか」

「思ってもないことを言う。あの子が、簡単に野垂れ死ぬとでも?」



アニータの挑戦的な目に、ハイネは根負けしたように目を緩める。

その顔は、孫娘を思う祖父の顔。

数度しか顔を合わせられていないが、二人にとってディアーナは一人娘の遺したたった一人の孫なのである。


何より、同盟国で祖父母とはいえ軍事大国ヴァルカンティアの宰相に自分の要求を通した幼き日。

母が亡くなったすぐ後だというのにそれを成し遂げたディアーナ王女を高く買っているのである。



「そうだな、それどころか父に愛想をつかしてクーデターすら企てているかもしれん」

「そうなればヴァルカンティアは板挟みじゃないか。どうするんだい?ディルクレウスのディオメシアにつくか、孫娘のクーデター側につくか」



ハイネはすぐには答えず、アニータの持ってきた目覚めの一杯に口をつけた。

香りはいいが、二度見するほどに黒い液体。

どんなものでも愛する妻の淹れたものなら飲むのが、少々不愛想なハイネの愛である。


ヴァルカンティアの状況はさして変わらない。

武力が盾となり、国民は平穏を享受している。

アニータのように怪我をするのは、国に仕える兵や将軍。

それ自体は悪ではないとハイネは考える。


だが、ディオメシアはそうはいかない。

勇猛果敢に敵に突っ込むディルクレウスの気概は買っているのだが、なぜか政治が微妙にうまくないのだ。

時にわざと火をつけるような政治を行うディルクレウスに肝を冷やすのは、昔から。

それに加えて七年間で属国にちょっかいを出されることが激増しているディオメシア。


今後の国の滅亡も繁栄も、紙一重。

見ているだけの第三者でいられるのは、もう終わる時期だということを宰相夫婦は予感していた。



「その時の状況次第だろう」

「それで戦争になるなら、そこが私の死に場所だろう。身内のためにババアの体使ってやるさ」

「それは困る。何のために負傷した君を前線から離脱させたと思っているんだ、仕事は山積みだ。人手があるに越したことはない」

「ハイネが『戦場で死ぬなら私の隣で死ね』って珍しくごねたから根負けしてやったんだよ。かっこつけるんじゃない」



にこにこと笑うアニータは、すべてお見通しである。

ジークやアテナたちですら腰が引けるヴァルカンティア宰相は、今日も妻には頭が上がらない。


武力のカギを握るとまで言われているヴァルカンティアは、この夫婦に平和を陰から支えられている。



「それにしても、行進がなってないね音でわかる。どれ、行ってちょっと揉んでやろうか」

「やめてやれ。君が行くと新兵が震えあがる」

「それがいいんじゃないか。老兵を侮る奴らは戦場に行く前に私が潰してやる」



国を操る冷血宰相と、引退してなお武力の鬼である宰相夫人。

ヴァルカンティアの運命は、この老夫婦の肩に乗っていた。

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