208話 王宮狂人、悪王のディオメシア
ディオメシア 王宮にて
ガシャン
ビンの割れる音がした。
太陽がよく入る日だというのに、カーテンを閉めて蝋燭が灯された部屋の中。
家具や絨毯、机の上のソーサーからペンに至るまで高級品。
だというのに、ベッドは少々古い。
部屋の主の体格にあっていないシングルサイズのベッドは、部屋を歪に見せていた。
いや、歪なのはそれだけではない。
壁一面『あるもの』でいっぱいだった。
この部屋を作り上げた人物もまた、歪である。
「……疲れているな、俺は」
ここはディオメシアの核の一つとなった男の私室。
名をレオン。
かつては現ステラディア王ルシアンと肩を並べた、ソルディアの王子である。
ディアーナ王女の婚約者に選ばれたが、王女が消えてしまった悲劇の男。
王女がいないのならば祖国であるソルディアに帰ればいいのに、ディオメシアに留まり国家運営を手伝う義理堅い男。
今は王女の父であり国王ディルクレウスの右腕と言っていいほどに国政に影響を及ぼす人物。
しかし、実態は違う。
王妃候補だったエラに執着した結果、ディアーナ王女に拘束され。
ディオメシアの敵になるだろうとソルディアの統治を奪われ。
エラの情報を与えてやるとディルクレウスに餌をもらって、王女を追い詰めた一人。
そして今は、ディルクレウスの犬。
……本当に飼われているだけの犬なのかは、誰も知る由はない。
レオンは、割れた瓶を机に向かったまま床を無感動に眺めている。
割れたのは、インクの瓶。
じわじわと広がる黒は、絨毯を侵食していった。
「新しいインク瓶を出さねばな……ん、これは」
レオンは壁にふと目をやる。
カーテンを開ければすぐに見えるというのに、決してそれはしない。
そして『あるもの』にわずかに飛び散った黒いインクの点に気が付く。
その瞬間、疲れていた彼の目は見開かれ、手はインクの付いてしまった『あるもの』を握りしめていた。
「ぁぁぁ“!!インク、インクが!すまない、すまないエラ!すぐにやさしく染み抜きをする。大丈夫だ俺が必ず君を保つから…!!他のやつらになんか触らせやしない…!」
彼が握りしめているのは、壁にかかっていたドレス。
それは、エラが王宮に住んでいたころ着ていた物の一つ。
インクが跳ねたのは、その足元の裾部分にほんの2、3点。
もう着るものもいないドレスを前に、レオンは一人部屋で謝っていた。
彼の私室の壁には、何着かのドレス。
手紙、髪飾り、仮面、靴。
それらはすべて、エラが王宮にいたころのもの。
手紙も、レオンと文通をしたときのもの。
カーテンを開けないのは、太陽の光での劣化を防ぐため。
彼女のものを周りに置いているのは、今は亡き愛しい人とともにいるため。
ベッドが不釣り合いなのは、エラが使っていたものをレオンがもらい受けたから。
誰からもらった?……ディルクレウスからである。
「足りない、足りない…君が足りない。ちがう、違うんだエラに怒ってるんじゃない!いや、違う違う怒っているとも俺を置いて死んでしまった!!」
「おい、気味の悪いことをするな愚か者。女のドレスに縋りついたところで、戻るわけがあるまい」
突然の声に、レオンは部屋の扉の方を睨みつけた。
そこには国王、ディルクレウスが紙の束を持って立っている。
七年前から不気味なほど変わらない美しさと強さ、そしてそこにいるだけで誰もが首を垂れるような威圧。
原作者が設定したこの世界の、ディオメシアを終わらせる悪王でありラスボスである彼。
しかしレオンはそんなディルクレウスの圧に負けることなど微塵もない。
なんとそのまま睨みつけて舌打ちまでしたのである。
だがその態度でディルクレウスがレオンを処断することはない。
七年前からの協定なのだ。
ギブアンドテイク。
ディオメシア国営の手伝いをする代わりに、エラの王宮での情報や使っていたものをもらうレオン。
有能であり学のあるレオンを、エラの品だけで自由に使い倒すディルクレウス。
ディルクレウスの利益が大きいような気もする協定だが、レオンはエラの物さえもらえれば気にしない。
「なんですか?仕事ですか?今は染み抜きが最優先なので出ていってほしいのですが」
「仕事が先だ。軍備について、近頃勢力を増す『オールシー船団』から買い付けておけ」
「それくらい自分ですればいい。部下はオレ以外にもいるでしょう」
「我に従わないと?」
「エラが社交界デビューしたときの『空色のドレス』を譲ってくれるなら考えます」
「あれをお前に渡すわけがない。思い上がるな」
「じゃあご自分で買い付けをどうぞ。俺は俺にしかできないことはやっているでしょう、すでに手一杯だ」
今度はディルクレウスが眉を顰める番だった。
だがしかし、彼は手を出すことはしない。
ディルクレウスにとっても、レオンは重要な駒なのだ。
何も言わず、部屋を後にしたディルクレウス。
再び一人になった部屋の中、レオンはドレスを抱きしめて深呼吸した。
「エラ、エラ……君のものをすべて手に入れるまで、俺は諦めない」
レオンの中では、エラは恋人なのだ。
エラはひたすらにレオンを怖がっていたというのに。
そして今も、亡き彼女の面影を追って仕事をしている。
こうしている裏の顔は、ディルクレウス以外に知る者はいない。
憐れなるかな。
エラがディアーナ王女たちの手によって逃げおおせ、今も生きているということ。
オールシー船団に勤める「ライラ」という女の正体がエラであること。
それをレオンは知らずに七年を生きていた。
部屋を出たディルクレウスは、歩きながら資料に目を落とす。
これから起こるであろう戦に備えての頼みだったのだが、断られたにもかかわらずディルクレウスの表情は無である。
既に彼の意識はレオンにない。
自らを王宮に縛り付けた主を、脳裏に描いていた。
「ディセルの兄上、我をもう失望させてくれるな」
ディアーナ王女という存在がいない王宮は、国は、二人の男によって保たれていた。
国民はディルクレウスとレオンが裏で何を考えているのかも知らぬまま、今日がまた終わる。
諍いはあれど、まだ「いい日だった」と国民の誰かが笑って今日を終える。
この後に待つ未来を知らぬまま。




