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腹ぺこエルフさん放浪記  作者: (=`ω´=)


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東京都江戸川区。ガトーショコラと挽きたていれたてのコーヒー。

「ここに来るのも、一年以上前ぶりになるのですかね」

 と、手荷物を抱えたタスッタさんは周囲を見渡して、そんな感慨にふける。

 問題は、あの人が在宅かどうかだ。

 事前に来訪をするという連絡をいれられればよかったのだが、タスッタさんは以前、一度だけ会ったあの人の連絡先すら知らなかった。

 ただ、以前に一度だけ、偶然のなりゆきで朝食に誘われ、そこでホットサンドイッチとコーヒーをご馳走になっただけの関係である。

 いつかなんらかのお礼をしに来ようと思いつつも、なにかと用事が入り、この日までずるずると伸びてしまったのであった。


「あ、あそこだ」

 タスッタさんは、あるお店のあとらしい場所を見つけて、そこを目指して歩いていく。

 シャッターは空いているが、看板は白のペンキで塗りつぶされており、すでに閉店したお店であることがわかった。

 中から灯りが漏れているから、目当ての人物はおそらく在宅しているはずだ。

 転居とかしていないといいですけど。

 そんなことを思いつつ、タスッタさんはガラス戸の中を覗き込む。

 目当ての人物はすぐに視界の中に入って来た。

 自販機補充用の飲料缶とかペットボトルの段ボールが半分くらい積まれている土間のような場所を、手にした箒で掃き掃除をしている。

 タスッタさんはガラス戸を軽くノックしてみるのだが、くだんの人物はこちらの存在に気づかない。

 ああ、そうでした。

 と、ここに来て、タスッタさんははじめて思い出す。

 この方は、確か、聴覚が不自由な方なのでした。

 ではどうするか、と戸惑いながら周囲を見渡して、タスッタさんはすぐにガラス戸の脇にある呼び鈴の存在に気がつく。

 手を伸ばしてそれを押してみると、壁面に取りつけられているLEDの小さな電灯が、一斉に点灯した。

 それに気づいた目当ての人物が顔をあげ、ガラス戸のむこうにいるタスッタさんの方に視線をむけ、そして怪訝な表情になる。

 ガトーショコラの箱を小脇に抱えたまま、タスッタさんはスマホを取り出し、メモ帳のアプリを立上げて急いで短い文章を入力した。


『以前に、一年ほど前に、こちらで朝食とおいしいコーヒーをご馳走になった者です。

 遅くなりましたが、今日はそのお礼をしたくて参りました』


 ガラス戸の近くにまで寄ってきたその人物に、そう書かれたスマホの画面を提示して読ませると、その人物は不意になにかを納得したような表情になってガラス戸を開け、手招きをしてタスッタさんを中に入れた。

 改めて考えてみれば、タスッタさんはこの老人の名前すら知らなかったのである。


 タスッタさんは以前と同じようにキッチンへと通された。

 その老人はタスッタさんに手真似でテーブルに着くように案内し、自分はまず薬缶に水をいれてガスレンジにかけ、棚から手動のミルを取り出してテーブルの上に置く。

 そして冷蔵庫の中からコーヒー豆を取り出して手動ミルに入れて、ゴリゴリと音を立ててコーヒー豆を挽きだした。

 その様子を確認してから、タスッタさんは持参した包みを自分で開梱して、中からガトーショコラを取り出す。

 老人が豆を挽く途中でコーヒー用のサーバーなどをセットしはじめたところで、やはり手真似で、

「なにか、これを切るものを貸してください」

 という意思をどうにか伝えた。

 老人は戸棚から小皿二枚を出してテーブルの上に並べ、その上に小さなフォークを置く。

 さらにタスッタさんの前に置いた皿の上には、果物用の小さなナイフを乗せた。


 老人は以前に来たときとすっかり同じような手順でゆっくりとコーヒーをいれ、二つのマグカップにそれを注いで、そのうちのひとつをタスッタさんの前に置いた。

 タスッタさんも、食べやすい厚さに切り分けたガトーショコラをすでに二つの皿の上に乗せている。

 対面に座った老人とタスッタさんとは、一瞬視線を合わせて黙礼したあと、まずコーヒーに口をつけた。


 そうそう、この香りと、熱さと、味。

 こういう感じでした。

 と、タスッタさんは心の中で熱心に頷く。

 以前にここでこのコーヒーを頂いてから一年あまり、タスッタさんも数えきれないほどのコーヒーを飲んできたが、これ以上においしいコーヒーに出遭えたことは数えるほどしかなかったのだ。


 それから、やはり二人してフォークを手に取り、切り分けたガトーショコラの一片をフォークで刺し、口の中に入れる。

 老人の顔が一瞬こわばり、それから徐々に目を見開いていく。

 タスッタさんも、同じくらいに驚愕していた。

 なんというかこのガトーショコラは、一口目からして、芳醇なカカオの香りが口の中に広がっていくのだ。

 これは。

 と、タスッタさんは衝撃を受けていた。

 一生懸命に調べて評判のいい、新宿御苑前のあるお店で買ってきたものなのですが。

 ここまで、おいしいとは。

 確かにチョコの味なのだが、普段口にするチョコよりはずっと濃い風味がいつまでも口の中に広がる。

 濃いのだが、それでいてクドさはまるで感じない。

 口の中から消えると、案外にさっぱりとした後味なのだ。

 おそらくは、甘すぎないんだろうな、と、タスッタさんは考える。

 カカオの風味を最大限に引き出して、しかし、あとまで引きずらないように、絶妙なところで甘さを抑えている。

 結局、

「おいしい」

 の一言に集約されるような、そんな味であり逸品であった。


 タスッタさんと老人は最初の一切れを味わってから、どちらともなく目を合わせて頷き、そしてまたマグカップを持ちあげて、一口飲む。

 最上のガトーショコラのあとに飲むコーヒーは、やはり最高にうまかった。

 もともと、チョコとコーヒーの相性はいい。

 その両方がかなり上等な物で、それを同時に頂くとなると、なんというか、

「至福!」

 っていう気分になる。

 そして本当においしいものを頂くときは、人間というものは言葉を失う。


 タスッタさんと老人とは、黙ったまま、ただしゆっくりと、ガトーショコラとコーヒーを喫して、しばらく幸福な時間を共有した。

 ちなみに、買って来たガトーショコラをすべて切り分けて出したわけではなく、箱の中にはまだ半分以上のガトーショコラが残っている。

 こちらについてはそのまま置いていくつもりであったので、この老人が時間をかけて味わってくれるはずだった。


 ああ、なんか、こういう時間、いいなあ。

 と、タスッタさんはそんなことを思う。



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