第9話 暗く、湿った街 5
「おはよう。昨日はよく眠れ……なかったみたいだね? その様子だと。枕が合わなかったかい」
朝食の準備をしていたラフスは、階段を一人降りてきたメイクを見ると苦笑する。彼の顔には変わらず疲労の色が滲んでいた。
「おはようございます。いえ、とても寝心地の良いベッドなのだと思いますよ。現に連れは、まだぐっすり寝ていますから」
ラフスの言葉に困った笑顔を向けながら、メイクは首を振る。すると先ほどとは打って変わってニヤニヤした笑顔になったラフスが、今度はからかうような声音で問いかける。
「おやおや、それじゃあ昨晩は随分お楽しみだったのかい。若いってのは羨ましいねぇ?」
しかし、その問いにもメイクは首を振る。
「何度も言いますが、我々はそういう関係ではありませんよ。ところで先に朝食をいただいてもよろしいでしょうか」
「なんだい、詰まらないね。もう少しで完成するからこれでも飲んで待ってな」
呆れたかのような溜め息を吐かれたメイクが席に着くと、目の前に黒く濁った飲み物の入ったカップが置かれる。入れたてであることを示すように、湯気を立ち昇らせているそれを見て、メイクは眠そうにしばたたかせていた目を見開く。
「これは珍しい。コヒーですか」
「なんだ、知ってたのかい。大抵のお客さんは変な顔をするもんなんだけど、さすがは歴史の語り部様ってとこだね」
「私もそんなに飲んだことがあるわけではありませんが……いいのですか? この辺りでは結構な高級品では?」
「久々のお客さんだからね。ちょっと奮発してもバチは当たらないだろうさ」
「それでは、遠慮なく」
胸を張ってニカッと笑った女主人の言葉に、メイクは嬉しそうに目を細めるとカップを持ち上げ、香りを楽しんだあと一口喉に流し込む。苦みの中にある仄かな酸味が、寝不足気味の頭に染み込んでいくような感覚に、自然と顔が綻ぶ。その姿にラフスは頷くと、背を向け調理を続けた。
しばらくして、目を擦りながら起きてきたエレナと共に朝食を済ませた二人は、ラフスに書いてもらった中央までの地図と共にヤドリギ亭を出た。
「よくあんな苦いモノを飲めるわね」
食後に出てきたコヒーに渋い顔をしていたエレナがメイクに話しかける。
「同僚に初めて飲まされた時は、私もあまり好きではありませんでした。でも飲まされ続けるうちに段々と味がわかるようになったのですよ」
首を傾げるエレナに、ニコリと笑うとメイクは話を変える。
「ところで、体の調子はどうですか? 聖紋の調律が久しぶりでしたからね。違和感はありませんか?」
エレナは少しの間、跳んだり体を伸ばしたりしながら体を動かすと頷いた。
「問題ないわ。よく馴染んでる」
「そうですか、良かった。昨晩は調律を終えたらすぐに眠ってしまいましたからね」
メイクの言葉に、昨日のことを思い出したのかエレナは顔を赤らめた。年相応に膨らみつつも、未発達なその体に刻まれた聖紋は、全身に渡る。ゆえに調律のときには一糸纏わぬ姿をメイクに見せることになるのだが、これだけはいつまでも慣れないのだった。そんな恥ずかしさを隠すためか、エレナは話題を変える。
「メ、メイクはどうなの? 昨日は記録のためにあまり寝てないんでしょ?」
「問題ありませんよ、慣れてますから。それに、いざというときはエレナに働いてもらいますからね」
そう得意げに話したメイクに、気が抜けてしまったのかエレナは溜め息を吐いた。
***
ヤドリギ亭を出てからしばらく経ち、二人は来客用と思われる。革張りのソファに腰掛けていた。堅苦しい空間にエレナの声が響く。
「さすがは歴史の語り部様ね。普通ならこんな簡単に通してくれないでしょ」
中央に着いた二人が、門に立った警護に歴史の語り部だけに刻まれる特殊な証を見せると、それまで静かだった建物が途端に騒がしくなり始め、あれやこれやという間に応接間に通されたのだった。そこは街の規模相応の調度品で飾られ、豪華ではないが品のある空間に纏まっていた。
「私が凄いのではなく、この証が凄いのですよ」
そう言ってメイクは懐から門兵に見せた証を取り出す。銀色の本を咥えた、火を模した鳥がその手の中にあった。その鳥にはまるで燃えているかのような波紋が広がっている。伝承に伝えられる不死の存在が示すものは、命ある限り探究を続けるという歴史の語り部の覚悟の証であった。また、実在しない存在が自らを指し示すものであるとすることで、現実から一歩引き、観測者としてあり続けることを誓うことを証明するものでもある。
「いえいえ、やはりその証を持てるという存在である貴方が凄いのですよ、歴史の語り部様」
そう言って入ってきたのは病的なまでに瘦せ細った男だった。服装からしてかなり位の高い人物であることが伺えるその男は、芝居がかったような動きで一礼する。
「初めまして、私はこの地の長をやっておりますドフと申します。して、このような地に歴史の語り部様がどのようなご用件でしょうか」
自己紹介と共に、単刀直入な物言いをしてきたドフと名乗る男は二人の前に座った。
「初めまして。この街で流行しているという花に興味がありまして、それについていくつか質問をしに来ました」
相手のすっぱりとした問いに、メイクも直接的に答える。その顔には笑顔が浮かんでいたが、相手の言葉を一言一句聞き漏らすまいとした、鋭い光がその眼には宿っていた。
「ああ、あの黄色い花ですか。私共はラフレスと呼んでおります。アレの香りは人を元気づける効果があるようでしてね、我々も重宝しておりますよ」
「そしてその効果が切れると、今までのが嘘だったかのように疲れてしまう……と?」
メイクの言葉にドフは肩を竦めた。
「そこまで知っておられるのでしたら、もはや聞くことはないのでは?」
「私が聞きたいのは、紫色の花の方ですよ」
ドフの得意気だった笑顔が、スッと消えた。変わらず笑顔を浮かべ続けるメイクとの間に不穏な空気が流れるが、観念したかのようにドフが声を発した。
「……あの花はフーウナという名前だそうです。ラフレスの花の効果を打ち消す効果があります」
「何故市民にフーウナを下ろさないのですか。ここに来るまで市街を見てきましたが、お世辞にも良いとは言えない有り様でした」
「フーウナは希少なのです。あれらの花々を取り扱っている商人は、フーウナをあまり持ってきてはくれないのですよ。ラフレスを一度でも使ったことのある者は、定期的にラフレスを摂取せねば禁断症状が現れます。それはフーウナを使ったところで変わりません」
「なるほど、ラフレスを使ってしまったあなた方がフーウナを使わねば、この街は死んでしまう。しかし、市民が使わねば、結局この街は死ぬ、ということですね。失礼ですが、貴方の姿はラフレスの……?」
「はい、禁断症状の一つで、食欲の減退と免疫力の低下によって病にかかっております」
そう言って俯いたドフに対し、メイクは頷くと、エレナを促し立ち上がった。
「お話していただき感謝します。では、我々はここで」
メイクの言葉にドフは鬼気迫る顔で立ち上がり、五体を床に投げ出す。その姿にメイクは困惑した。
「なんの真似です?」
「どうか……どうかこの街を救って下さいませぬか。歴史の語り部である貴方の知識でどうか、この街を」
その姿には、最初のふてぶてしさは無かった。おそらく彼なりの強がりであったのだろう。しかし、そんな街を憂う一人の男に、メイクは冷たく言い放つ。
「何を勘違いしているのかは知りませんが、私は先ほどまで黄色い花の名前すら知らなかったのですよ? それなのにこの街を救ってくれとは、頼るべき相手を間違ってはいませんか」
「出来る限りのお礼はいたします! お望みの額をお渡しします! 失礼でなければ欲しいモノを! ですから……」
「それこそ勘違いも甚だしい。我々は金も、名誉も、地位も望まず探究に生きる存在です。それにもし、我々がラフレスの花の効果を体から取り除く方法を知ったとしても、私の個人的な感情で勝手に教えることは許されません。我々が本部に戻り、伝えればいつかはこの街に伝わることもあるでしょう。それを待つことですね」
そう言って二人は扉を開け放ち、出て行った。一人床に伏している男だけが残った部屋には、大きな悲しみの中に、微かな怒りを含んだ空気が漂っていた。




