積み重ねてきた数多の「一本」
八対七。
神谷はゆっくりと息を吐いた。
点差は四点あっても、一点しかなくても変わらない。
見ているのはスコアじゃない。
相手の目。
助走。
踏み切り。
レシーバーの肩。
ブロッカーの重心。
全部が次の一本へ繋がる情報だった。
白鷹は強い。
高さだけじゃない。
全員が同じ景色を見ている。
だから判断が速い。
少しでも迷えば、その一瞬で流れを持っていかれる。
だから神谷も迷わない。
「ナイス。」
守屋へ短く声を掛ける。
守屋は軽く親指を立てた。
もう何も説明はいらない。
どの高さへ返せば神谷が一番使いやすいか。
どの位置なら攻撃の選択肢が増えるか。
守屋は理解している。
一年の頃は違った。
レシーブは上がる。
でも攻撃に繋がらない。
何度も言った。
「あと半歩。」
「あと少し前。」
「そこじゃない。」
何百本も繰り返した。
今では神谷が動き出したい場所へ、自然とボールが返ってくる。
「一本。」
守屋が笑う。
「ああ。」
それだけで十分だった。
白鷹のサーブ。
レシーブがわずかに乱れる。
神谷は迷わず落下点へ走る。
ライト。
蓮。
ドンッ!!
真正面には三枚。
それでも蓮は強引に振り抜く。
バシッ!!
ブロックの指先を弾き、ボールはコートの外へ飛んだ。
ピーーーッ!!
九対七。
神谷は静かに相手コートを見る。
やはり蓮には三枚付く。
それでいい。
蓮は止められないから使うんじゃない。
三枚引き寄せられるから使う。
相手が一歩寄れば、どこかが空く。
その一歩を作るために蓮はいる。
怪我をする前なら、無理に打ち抜こうとしていた。
今は違う。
ブロックを利用することも覚えた。
決め切れなくても焦らない。
一本で終わらなくても、次へ繋げる。
あの苦しかった時間は、蓮を確実に強くした。
白鷹の攻撃。
レフトから打ち込まれる。
水谷が一枚で飛ぶ。
完全には止められない。
ボールは大きく弾かれた。
「ある!」
守屋が滑り込む。
パシッ!!
低い返球。
神谷が間に合わせる。
「水谷。」
速いトス。
ドンッ!!
ブロックアウト。
十対七。
水谷はガッツポーズをしない。
静かに拳を握るだけだった。
苦しい時ほど、一番最初に声を出す。
流れが悪い時ほど、一番最初に笑う。
そんな背中を三年間見てきた。
だから誰も下を向かない。
「もう一本。」
「ああ。」
神谷は白鷹ベンチへ目を向ける。
まだタイムアウトはない。
向こうも分かっている。
この程度では流れは変わらない。
だから神谷も焦らない。
相手セッターを見る。
右足。
肩。
目線。
速攻を使う時だけ、ほんの少しだけ癖が出る。
「杉山。」
「はい。」
「真ん中。」
杉山は頷く。
それだけで伝わる。
サーブ。
レシーブ。
セッターがボールへ入る。
右足が開く。
肩が少しだけ前を向いた。
来る。
「真ん中!」
杉山が飛ぶ。
神谷も横へ並ぶ。
バシィッ!!
二枚のブロックが完全に重なった。
ボールは真下へ叩き落とされる。
ピーーーッ!!
十一対七。
会場が揺れるような歓声に包まれる。
守屋が拳を突き上げる。
蓮が静かに拳を合わせる。
水谷が全員を集める。
神谷は一度だけスコアボードを見上げた。
十一対七。
四点リード。
まだ序盤だ。
王者・白鷹相手に四点差など、一度のサーブで消える。
だから油断はない。
その時だった。
相手コートで月島が静かに手を叩く。
「いいブロックだ。」
その一言だけだった。
それだけで白鷹の空気が変わる。
誰一人焦っていない。
誰一人下を向いていない。
神谷は小さく笑った。
「そう来るよな。」
王者は簡単には折れない。
だからこそ、この試合は面白い。
十一対七。
蓮はゆっくりと息を吐いた。
膝の痛みはない。
踏み切りも問題ない。
それでも、あの日だけは忘れられない。
新人戦。
跳ぼうとした瞬間、右膝が抜けた感覚。
床へ倒れ込んだ自分。
体育館が静まり返ったあの音。
あの頃なら、この大歓声を聞くだけで胸が締め付けられていた。
だけど今は違う。
「蓮。」
神谷の声が聞こえる。
その一言だけで体が動く。
神谷が上げる。
そう信じられる。
それだけで十分だった。
白鷹のサーブ。
守屋が綺麗に返す。
神谷がネット際へ走る。
相手ブロッカーが一歩、蓮へ寄った。
上がる。
そう思った。
しかし。
「水谷。」
レフトへの速いトス。
ドンッ!!
水谷が打ち抜く。
十二対七。
蓮は思わず笑う。
(やっぱそうするか。)
神谷は相手の視線まで使う。
自分が助走へ入るだけで、一枚、二枚とブロックが寄る。
それを利用して味方を空ける。
自分は囮でもいい。
その一本で点が入るなら、それが一番強い。
「ナイス。」
水谷が軽く拳を合わせる。
「ああ。」
短く返す。
次の一本。
白鷹は高さで押してくる。
ドンッ!!
強打。
守屋が反応する。
パシッ!!
低い。
神谷が滑り込む。
トスは少しだけネットから離れた。
(届く。)
蓮は迷わず助走へ入る。
ブロックは三枚。
真正面。
普通ならコースを変える。
フェイントもある。
でも。
(抜く。)
ドンッ!!
右腕を振り抜く。
ボールはブロックの指先を強引に弾き飛ばした。
外へ弾かれる。
ピーーーッ!!
十三対七。
歓声が響く。
白鷹のブロッカーが思わず顔を見合わせる。
蓮は何も言わない。
ただ神谷を見る。
神谷も何も言わない。
小さく頷くだけ。
それだけで伝わる。
次も来る。
そういう合図だった。
白鷹はすぐに一点を返す。
十三対八。
そして次のラリー。
サーブレシーブが少し乱れた。
神谷が体を伸ばして何とか触る。
高いボール。
「蓮!」
ネットから離れている。
助走も合わない。
それでも跳ぶ。
空中でブロックを見る。
三枚。
レフトは空いている。
(水谷。)
あえて強く打たない。
ブロックの手へ当てる。
ポンッ。
狙い通り真上へ浮いた。
「ナイス!」
神谷がすぐ下へ入る。
「水谷!」
今度こそレフト。
ドンッ!!
誰もいないコースへ突き刺さる。
十四対八。
蓮は着地すると、小さく息を吐いた。
以前の自分なら、あの一本も無理やり打ち抜いていた。
決めることしか考えていなかった。
でも今は違う。
一本で決まらないなら、二本目でいい。
自分が決めなくてもいい。
勝てばいい。
それを教えてくれたのは、神谷だった。
「ナイス。」
神谷が横を通る。
「次も使う。」
「ああ。」
その一言で十分だった。
十四対八。
水谷は深く息を吸った。
肺が熱い。
足も重い。
それでも不思議と苦しくはなかった。
この景色を何度も夢見てきた。
インターハイ。
全国ベスト八。
春高王者を相手に最終セット。
こんな舞台でバレーができることが、ただ嬉しかった。
一年の頃は追い掛けるだけだった。
二年では支えることを覚えた。
そして三年。
今は、このチームを勝たせることだけを考えている。
神谷がボールを持つ。
守屋が拾う。
蓮が跳ぶ。
みんなが自分の役割を全うしている。
だから自分も迷わない。
「瞬。」
神谷の声。
短い。
でも、それだけで分かる。
上がる。
助走へ入る。
相手ブロックは二枚。
蓮へ一枚寄った。
(空いた。)
ドンッ!!
ストレートへ叩き込む。
パシッ!!
拾かれた。
「返る!」
白鷹も簡単には終わらない。
速い展開。
レフト。
ライト。
時間差。
神谷がブロックへ飛ぶ。
ワンタッチ。
守屋が拾う。
岡田が繋ぐ。
もう一度神谷。
「瞬。」
二本続けて自分。
ブロックは三枚。
(十分だ。)
手首だけを返す。
ドンッ!!
ブロックアウト。
ピーーーッ!!
十五対八。
「ナイス!」
守屋が真っ先に駆け寄る。
「いいぞ!」
蓮も拳を合わせる。
水谷は小さく笑った。
みんな、本当に強くなった。
一年の頃。
神谷は誰より厳しかった。
「遅い。」
「低い。」
「甘い。」
何度言われたか分からない。
正直、腹が立ったこともある。
でも神谷は、自分にも同じだけ厳しかった。
誰より練習して。
誰より残って。
誰より早く体育館へ来る。
そんな姿を見ていたから、誰も文句は言えなかった。
「もう一本。」
神谷が言う。
「ああ。」
それだけ返す。
白鷹も意地を見せる。
鋭いサーブ。
岡田が崩される。
神谷が走る。
トスは少し乱れた。
(ここだ。)
水谷は助走を止めない。
完璧なトスじゃない。
だからこそ、自分が合わせる。
ドンッ!!
ブロックの腕を吹き飛ばす。
しかし。
パシィッ!!
白鷹のリベロ。
また拾いた。
(本当にしぶとい。)
攻撃が返ってくる。
高い打点。
杉山が飛ぶ。
ワンタッチ。
守屋。
神谷。
「蓮。」
ドンッ!!
今度は蓮が決める。
十六対八。
「ナイス。」
水谷は蓮と拳を合わせた。
エースがいる。
日本一のセッターがいる。
日本一のリベロになれる守屋がいる。
派手じゃない。
でも誰より繋ぐ岡田がいる。
杉山も小林も体を張り続ける。
(このチームで良かった。)
そう思った。
ふとベンチを見る。
結衣が両手を強く握り締めながら、誰より大きな声で応援していた。
入学したばかりで右も左も分からなかったあの子が、今では誰よりこのチームを見ている。
マネージャーも含めて、このチームだった。
水谷は静かに前を向く。
あと九点。
いや。
あと九本。
一本ずつ。
それだけでいい。
主将として、最後まで誰より前を向いて戦い続ける。




