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青春病。  作者: 翠吉
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33/50

名前ひとつ分の距離

話し合いを終えて体育館を出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。

「腹減ったぁ。」

守屋先輩が大きく伸びをする。

「さっき昼飯食ったばっかだろ。」

蓮先輩が呆れたように言う。

「何時間前の話してるんですか。」

「じゃあ、コンビニ寄る?」

水谷先輩の一言に、守屋先輩が勢いよく振り返った。

「行きます!」

「切り替え早すぎ。」

四人の笑い声が、暗くなった校舎の前に響く。

私は少し後ろを歩きながら、その背中を見つめていた。

水谷先輩が何かを言って。

守屋先輩が大げさに笑って。

蓮先輩が呆れながらも、その隣を歩いていて。

神谷先輩は相変わらず静かで。

それでも、ほんの少しだけ口元が緩んでいた。

いつもの光景だった。

毎日のように見てきた、何でもない帰り道。

なのに今日は、なぜか目を逸らしたくなかった。

インターハイ予選まで、あと十日。

それが終われば。

三年生と一緒にいられる時間も、少しずつ終わりへ近づいていく。

そんな当たり前のことを、今まで考えないようにしていた。

「橘。」

前を歩いていた神谷先輩が振り返る。

「遅い。」

「あ……すみません。」

私は小走りで追いついた。

「何してた?」

「何もしてないです。」

「じゃあ、ぼーっとするな。」

「はい。」

神谷先輩はそれ以上聞かず、再び前を向いた。

その隣を歩きながら、私はこっそり息を吐く。

言えるはずがなかった。

この時間が、ずっと続けばいいと思っていたなんて。

毎日体育館へ行けば、みんながいて。

ボールの音がして。

守屋先輩の声が聞こえて。

水谷先輩が笑って。

蓮先輩がスパイクを打って。

神谷先輩が、私の名前を呼ぶ。

そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。

コンビニへ入ると、守屋先輩は真っ先にホットスナックの棚へ向かった。

「蓮さん、肉まん食べます?」

「いらない。」

「じゃあ二個買お。」

「最初から聞くなよ。」

「水谷さんは?」

「いらない。」

「みんな付き合い悪いなぁ。」

水谷先輩が笑いながら飲み物を選ぶ。

私はみんなの後ろを歩きながら、棚に並んだ商品を眺めていた。

喉は渇いていたけれど、手に取ることはできなかった。

「橘。」

隣から声がして、顔を上げる。

神谷先輩が私を見ていた。

「何も買わねぇの。」

「あ……今日、財布教室に置いてきちゃって。」

昼休みに慌てて教室へ戻った時、机の中へ入れたままだった。

「そう。」

神谷先輩は短く答えると、飲み物の棚へ視線を戻した。

私は何もなかったように、みんなの方へ歩こうとする。

「橘。」

「はい?」

「なんか買うか?」

「え?」

思わず聞き返す。

神谷先輩は飲み物の棚を見たまま続けた。

「飲み物でも。」

「いや、大丈夫です!」

「遠慮すんな。」

「でも……。」

神谷先輩は棚から一本のジュースを取った。

「これでいい?」

差し出されたのは、前に私が飲んでいたものだった。

「……覚えてたんですか?」

神谷先輩は一瞬だけ私を見る。

「たまたま。」

それだけ言うと、私の返事を待たずにレジへ向かってしまった。

私はその背中を見つめたまま、しばらく動けなかった。

「橘?」

守屋先輩が肉まんを二つ抱えながら首を傾げる。

「どうした?」

「な、何でもないです!」

慌てて神谷先輩の後を追う。

レジを済ませた神谷先輩は、店の外で待っていた。

私が近づくと、何も言わずにジュースを差し出す。

「ありがとうございます。」

「ん。」

受け取ったボトルは、少しだけ冷たかった。

「明日返します。」

「いらねぇ。」

「でも。」

「じゃあ今度、なんか買って。」

神谷先輩はそれだけ言うと、先に歩き出した。

私は手の中のジュースを見つめる。

たった一本。

それだけなのに、胸の奥が苦しくなるほど温かかった。

「橘。」

突然、守屋先輩が隣から顔を覗き込んできた。

「わっ!」

驚いてジュースを落としそうになる。

「な、なんですか。」

守屋先輩は私の手元を見て、ニヤリと笑った。

「あれ、それ神谷さんに買ってもらったやつ?」

「……そうですけど。」

「へぇ。」

「なんですか、その顔。」

「いやぁ。」

守屋先輩はわざとらしく神谷先輩の背中を見る。

「俺が財布忘れた時は、絶対買ってくれないだろうなって。」

「お前は忘れても自分でどうにかしろ。」

少し前を歩いていた神谷先輩が、振り返りもせずに答えた。

「ほら!」

守屋先輩が私を指差す。

「橘だけ特別じゃん!」

「違います!」

「何が違うの?」

「それは……。」

言葉に詰まった私を見て、守屋先輩の笑みがさらに深くなる。

「顔赤いですよ?」

「赤くないです!」

「暗くても分かる。」

「守屋。」

神谷先輩の低い声が飛んでくる。

「明日、レシーブ追加。」

「えぇ!?なんでですか!」

「うるさいから。」

「橘をいじっただけじゃないですか!」

「だからだ。」


「理不尽っす!」

守屋先輩の声に、水谷先輩と蓮先輩が笑う。

私も堪えきれずに笑ってしまった。

「そういえば。」

守屋先輩が何かを思いついたように、私を見る。

「橘って、下の名前なんだっけ?」

「絶対知ってますよね?」

「いや、確認。念のため。」

「……結衣です。」

私が呆れながら答えると、守屋先輩は満足そうに頷いた。

「結衣ね。」

自分の名前を呼ばれ、少しだけ落ち着かなくなる。

「ていうか、橘って呼ぶの長くないですか?」

「一文字しか変わらないだろ。」

水谷先輩がすぐに突っ込む。

「文字数じゃなくて、気持ちの問題ですよ。」

「絶対今思いついただろ。」

蓮先輩が呆れたように笑う。

「じゃあ、これから結衣でよくないですか?」

「え!?」

思わず足を止める。

「なんでそうなるんですか!」

「呼びやすいから。」

「橘で困ってないですよね?」

「俺は賛成。」

蓮先輩があっさりと言った。

「蓮先輩まで!?」

「確かに結衣の方が呼びやすい。」

そう言って、蓮先輩が私を見る。

「なあ、結衣。」

「もう呼んでる!」

「そのうち慣れるだろ。」

「何に慣れさせようとしてるんですか!」

蓮先輩と守屋先輩が顔を見合わせて笑う。

「水谷さんも呼びましょうよ。」

「俺も?」

「もちろん全員です。」

水谷先輩は少し考えたあと、私へ視線を向けた。

「まあ、本人が嫌じゃないなら。」

「嫌とは言ってないですけど……。」

「じゃあ決まり。」

「決まってません!」

「ほら、神谷さんも。」

守屋先輩が、少し前を歩く神谷先輩へ声を掛ける。

「何が。」

「今日から橘のこと、結衣って呼ぶことになりました。」

「なってないです!」

私が慌てて否定すると、蓮先輩が楽しそうに続ける。

「凛太郎も一回呼んでみろよ。」

その一言で、全員の視線が神谷先輩へ集まった。

神谷先輩は面倒そうに守屋先輩と蓮先輩を見る。

「なんで。」

「全員で呼ぶんだって。」

「お前らが勝手に決めただけだろ。」

「でも、呼べないわけじゃないだろ?」

蓮先輩が笑いながら言う。

神谷先輩は小さく息を吐くと、私へ視線を移した。

「……結衣。」

不意に呼ばれた名前が、夜の道に落ちる。

胸の奥が、強く跳ねた。

「これでいいか。」

神谷先輩は何事もなかったように前を向く。

「はい、決定!」

守屋先輩が楽しそうに手を叩いた。

「今日から全員、結衣ってことで。」

「だから勝手に決めないでください!」

「でも、嫌じゃないだろ?」

蓮先輩までニヤニヤしながら聞いてくる。

「それは……。」

言葉に詰まった私を見て、二人の笑みがさらに深くなる。

「ほら。」

「嫌じゃない。」

「蓮先輩までやめてください!」

「守屋。」

神谷先輩の低い声が飛んだ。

「明日、レシーブ追加。」

「えぇ!?俺だけですか!」

「言い出したのはお前だろ。」

「蓮さんも乗ってたじゃないですか!」

「俺は三年だから。」

「ずるっ!」

水谷先輩が吹き出し、蓮先輩も声を上げて笑う。

「じゃあ、守屋先輩。」

私が声を掛けると、守屋先輩が振り返った。

「ん?」

「明日、ドリンク作るのも手伝ってください。」

「え、結衣まで!?」

「言い出したのは守屋先輩なので。」

「呼び方変えただけで罰重すぎない!?」

「頑張ってください。」

「しかも笑顔で言うことじゃないでしょ!」

「レシーブにドリンク作りって、俺だけ明日のメニュー多くないですか!?」

「自業自得だな。」

水谷先輩が笑う。

「水谷さんまで!」

守屋先輩の声に、みんなの笑い声が夜道へ響いた。

私も笑いながら、少し前を歩く神谷先輩の背中を見つめる。

結衣。

さっき呼ばれた自分の名前が、まだ胸の奥に残っていた。

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