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「実際に物質界へ行ったのはいいが、まず馴染むのに苦労した。言語は天使の能力で問題なかったが、文化や習慣や礼儀が国や地域によって違ったから、居住を変える度に戸惑いながら学んでいった」
「色んな国や地域に行ったんですね」
「できるだけ多くの人間と関わりたかったから、一ヶ所に数年から数十年定住しながら、あちこちを転々とした。一体、世界を何周したことか」
「きっと誰よりも周りましたよ」
「長期間一ヶ所に留まり続けるのも飽きてしまうから、時々旅にも出て、その旅先で次の定住先を決めたりした。そうだ。そう言えば旅の途中で、独特な食文化に驚いたことがあった」
「そんな独特な食べ物なんてあったんですか?」
「昆虫だよ。イモムシとかを食べる映像、悠仁もTVで一度は観たことあるだろ。あれを食べているのを初めて見た時は、信じられなかった」
「もしかして、食べたりは……」
軽蔑しそうな目で悠仁は聞いた。近頃、世間では昆虫食が流行り出しているとかいないとか言う話を聞いたことがあるが、その流行りには永遠に乗らなそうだ。
「一度だけ食べてみたが、人生経験に留めておいた」
「それはよかったです……旅に行ったなら、準備とか費用かかりますよね。てことは、昔から仕事はしてたんですか」
「勿論していたよ。人間と同じように衣食住の為に。例えば、農夫や、大工、料理人に、鋳造に、ホテルマン。ありとあらゆる職を経験した。戦争があった時には徴兵されて軍人になり、戦地に赴いたこともある」
「戦争、行ったんですね……」
話が暗い方へ向き、空気がやや重くなる。悠仁の中の溶け残った塊が、心なしか体積を増した。
「恐怖だった。迷いのない殺し合いは、酸鼻極まりなかった。大量殺人が許される状況が信じられず、ここが本当の地獄だと思った」
「前線だったんですか?」
「あぁ。剣や銃を持って、向かって来る敵を相手にしたことも何度もある。必死になって、やむを得ず傷付けた。もしかしたら、殺してしまった者もいたかもしれない」
「どうしてそんなことまで……拒否したり逃げたりできなかったんですか?」
「徴兵は絶対だ。避けることはできなかった……いや。しなかった。人間を理解する為に、それも必要だったんだ」
「そんな……俺なら無理です。堪えられないし、逃げ出します」
「それが普通だ。現代に生きる人間でも、その時代に生きた人間でも、誰も死にたくないし誰も殺したくはない筈だ」
その言葉は悠仁には槍でもあり、銃弾でもあった。塊は、いびつな形に変わっていく。
「そう、ですよね……本当はみんな、そう思ってるんだ……俺も、そう思ってるんです。それなのに……俺は、そうじゃない方を選んだ……酷い選択をした……」
「悠仁……」
「計画を阻止したから、復活した悪意がこのまま広がり続けるかもしれない。このままじゃ、みんなが言ってた通りになる。歴史が逆行することになる。そうなったら、もしもまた戦争が始まったら、俺の所為だ。俺は、取り返しの付かない選択をした……」
悠仁は顔を床に向ける。大きくなる塊の角が痛かった。
「だが私は、理不尽に命が作り変えられるよりはいいと思う」
「俺も、そうは思います。でも、最悪な状況になっても、俺は責任を負えない。きっと、生きていられなくなる。今だって、もの凄く辛い……」
塊は悠仁を攻撃する。“全て”への不信感が、悠仁の全てを奪い取ろうとする。
「ルシファー……俺は無理です。何処にもいたくない」
「……何処にも?」
「物質界にも…天界にも…何処にもいたくない……逃げたい。未来に繋がってる場所から逃げたい……!」
「悠仁……世界から、消えてしまいたいと言うのか」
心中も吐露しているのに塊は欠けることなく、更に形を変えていく。
「そうしたら、君の夢は?」
「夢なんてどうでもいい。全部捨てていい。苦しみから開放されたい。今すぐ楽になりたい……」
「大丈夫だよ、悠仁。死んでしまったら、君はきっと後悔する」
「じゃあどうしたらいいんだよ!もう生きたくない!こんな苦しいなら、メタトロンの計画続けた方がよかった!」
塊は、溶岩のようなドロッとしたものに変わった。
「だがそれでは、世界は不自然なものになってしまう」
「知るかよそんなの!俺が関係なくなる世界なんて、どうにでもなればいい!」
じっと座っていられなくなった悠仁は立ち上がった。
本当はそんなことは思っていない。心の中のドロドロの所為だ。でも吐き出さないと、おかしくなりそうだった。
「何で俺なんだよ!何で俺に託したんだよ!何で俺に近付いたんだよ!何で俺があんたの末裔なんだよ!」
「………ごめん」
面責されたルシファーは、目を伏せて謝った。
「ごめん。悠仁」
「あんたが罪なんて犯さなければ!俺は……!」
「本当にごめん。全部押し付けてしまって、本当にすまない……でも、これだけ聞いてほしい……私は計画を知った時、この未来は人間が決めなければならないと思ったんだ。物質界のことだからという理由もあるが、そうするべきだと思ったんだ。人間が変わり始めた今の世界をどう見て、どう感じているのかを知りたかった」
「それなら、俺じゃなくてもいいじゃないですか」
「そうだ。だが私は、どうしても悠仁に託したかったんだ。きっと君なら、“正しい選択”をしてくれると確信していたから」
「“正しい”選択って何ですか。一体何が“正しい”んですか。俺が選んだ世界は“正しい”んですか!?」
悠仁はすぐ側にあると思い、明確な答えと選択の肯定を求めた。しかしそこにあるのは、導く力を失った落ちる寸前のほのかな光だ。
「正直、それはわからない。だが、何を“正しい”と決めるのは、これからの世界を生きる人間だ。今の世界を認め、受け入れることが正しいのか。作られた平和を、作られたものと知らぬまま享受した方が正しかったのか。もしも、亀裂が生じた世界で生き続ける覚悟を持てたのなら、それは“正しさ”と同時に得た強さだと思う」
「……強さ?」
「さっき言っただろう。誰も死にたくないし、誰も殺したくはない筈だって。その思いが全ての人間に今も生きているなら、現状をものともしないだろう。幾度もの戦争を乗り越えた者たちの遺伝子を受け継いでいるんだ。受け入れ、立ち向かうことができたなら、いずれ亀裂を埋め、まっさらにしてしまうこともできる」
「……それは、どのくらい先の話なんですか」
「さて。いつになるんだろう。半年後かもしれないし、一年後かもしれない。拗れてしまったら、もっと時間がかかるかもしれない」
傷が浅くすむ期待を寄せたが、ただの希望的観測に終わることは否めない。救われたい悠仁は、本当に生きる気力をなくしそうになる。
「……やっぱり無理です。何処にもいられない」
「でも悠仁は、いなければならない」
「どうして?責任だからですか?」
「あの世界が、君がいるべき場所だからだ。あそこには、悠仁が大切にしてるものがたくさんある。友達や、受験を応援してくれた母親と妹。諦めるなと言ってくれた父親の記憶。憧れから追いかけた夢。そして新しい夢。色んな大切なものが残っている」
ルシファーの言葉が紡がれる度に、一つ一つが思い出される。そのどれもが、悠仁にとってかけがえのない宝物だった。
「それに。あの世界は、君が生まれた場所だ。君の魂の在り処だ」
「……」
「この先、自らの選択で大切なものが傷付き、壊されてしまう危機がやって来るかもしれない。その時、誰が守れる?……悠仁。君しかいないんだよ。君の大切なものは、君にしか守れないんだ」
「……俺は……」
「君を巻き込み、辛い目に遭わせてしまったのは、私の自己中心的な願いの所為だ。だからその絶望は、私への怨みに変えてくれ。どんなに巨大で重い枷でも、この身が尽き果てるまで付け続ける。だから悠仁、顔を上げて前を向いてくれ。生きることを、諦めないでくれ」
「………」
ずるい………。
あの言葉が、再び悠仁を支えようとしていた。
悠仁は床に目を向け、沈黙した。ドロドロしたものが、冷えて固まっていく。