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第1話 ルティミアの趣味

 帝都で最も格式高い夜会は、いつだって退屈だった。


 天井を埋め尽くす無数のシャンデリア。その一つ一つで揺れる蝋燭の光が、磨き上げられた大理石の床に反射して、広間全体を昼間のように照らしている。行き交う令嬢たちのドレスには宝石が縫い込まれ、歩くたびにきらきらと瞬いた。

 むせ返るような香水の匂い。あちこちで弾ける笑い声。楽団が奏でる優雅な旋律。そのどれもが混ざり合って、広間には甘ったるい熱気が満ちていた。

 耳に入ってくるのは、どこかで聞いたような社交辞令ばかり。誰が誰を褒め、誰が誰を探っているのか。きらびやかな笑顔の下で、視線だけが忙しなく値踏みを続けている。


 ルティミアはシャンパングラスを片手に、広間の隅でひっそりと息をついた。


 父に言われた言葉が頭をよぎる。


「いい加減、婚約者候補の一人くらい見つけて来なさい」


 逆らうことは許さない。そういう響きだった。めんどくさい、などと口にできる空気ではなかった。


 婚約者探し。この言葉が、どうも肌に合わない。


 別に、結婚したくないわけではない。むしろしたいのだ。できることなら、心から愛する人と結ばれたい。それが理想だった。


 だがそここそが、一番の難所だった。


 どうやったら、人を好きになれるのだろう。胸が高鳴るとは、どういう感覚なのだろう。考え始めると、いつも同じ場所で立ち止まってしまう。


 しかもこうして、値踏みされるような場に引っ張り出される度に、じわじわと消耗していく気がした。家柄と顔だけを測るような視線。興味もないのに交わす社交辞令。貼りつけた笑顔で当たり障りのない言葉を並べていると、気づかぬうちに神経がすり減っていった。


 だからルティミアは、日々、恋に夢中になっている人々を観察していた。


 あの令嬢はなぜ、あの令息を目で追うのか。あの夫人はどうして、頬を染めているのか。観察すれば、いつか自分にもわかる気がして。

 そしてこの観察というのが、なかなかどうして、夢中になれるのだった。

 人の恋路ほど、面白いものはない。交わす視線の熱、ふと緩む口元、隠しきれずに零れる吐息。そういう小さな仕草の一つ一つに、その人の心が透けて見える。言葉よりずっと雄弁に。盤上の駒を読むように、誰が誰に心を傾けているのかを見極めていく。それがたまらなく、面白かった。


 とはいえ、それで婚約者が見つかるわけもない。


 父は言う。アルノ家の長女として、相応しい相手を見つけなさいと。


 わかっている。わかっているけれど。


「……また今夜も、無理かも」


 誰に言うでもなく呟いた。グラスの中の琥珀色の液体を揺らしながら、広間を見渡す。煌びやかな笑顔が溢れている。みんな楽しそうだ。どうして楽しめるのだろう、と純粋に思う。


 そんなことより、早くソリアを見つけなければ。あの子の顔を見るまでは、帰れそうにない気がした。

 ルティミアは意を決して、広間を歩き始めた。貴族令嬢がうろうろするのは行儀が良くないとわかっている。でも立ったまま待つのも性に合わない。動いた方が早い。

 ドレスの裾をさりげなく持ち上げ、人の波をするりとかわしながら進む。何人かの令息が目で追ってくるのが気配でわかったが、気にしなかった。視線より、ソリアの声を探す方が先だ。


「ソリア……どこにいるの」


 小さく呟いた、その時だった。


「ルティ!!」


 弾けるような声が、広間に響いた。


 ルティミアはぱっと振り返る。人の波をかき分けるようにして駆けてくる、見慣れた可愛らしい顔。


「……ソリア」


 やっと見つけた。思わず口元が緩んだ。


 ルティミアの幼なじみで親友のソフィリア・グランバートは息を弾ませながらルティミアの前に立つと、ぱちぱちと瞬きをした。

 相変わらず可愛い。太陽のような笑顔だ。そして、相変わらず立派なお胸。自分のそれと比べるとかなり控えめだな。なんとも言えない気持ちになる。羨ましい、というのが正直なところだ。


 そしてルティミアは昔からソフィリアのことを”ソリア”と変わった呼び方をしていた。いつからか本人も覚えていない。ソリアが呼びやすかったとかそんな理由だった気がする。


「もう、どこ行ってたの! 探したんだから!」


 ソフィリアが腰に手を当てて、はぁ、と軽く息をついた。蜂蜜色の巻き髪を揺らしながら、じとっとした目でルティを見上げる。

 可愛らしい顔立ちのわりに、その口ぶりはあっさりとして遠慮がない。またふらふらして、とでも言いたげな、慣れた様子だった。


「……いや、探してたのは私の方だよ」


 ルティミアはあっさりと言い返した。悪びれる様子もなく、至って真顔で。ソリアはそれをさらりと流した。いつものことだ。


「それより! いい人いた?」


「……いない」


「てか、もっと興味持ちなよ!」


「いや、あるよ」


「どこが!?」


「顔がいい人がいれば、話しかけようと思ってた」


 至って本気の発言だった。ソリアがこめかみを押さえたのが視界の端に映ったが、気にしないことにした。


「あんた、意外と顔重要よね」


「いや、結婚するならやっぱりブサイクよりよくない?」


 ソフィリアは一瞬固まって、それから小さく吹き出した。


「……まあ、否定はできないけど」


「でしょ」


 満面の笑みで言った。夜会の中で、ルティが初めて浮かべた笑顔だった。


「まあ、そうね」とソフィリアが頷いたあと、ふと思い出したように声を潜めた。


「あ、そういえば。今日もしかしたら、リード公爵来るかも」


「え? リード公爵?」


 ルティミアは眉を上げた。帝国でも指折りの大貴族、リード公爵家。顔は知らない。でも名前は嫌でも耳に入ってくる。


「まあ、見てみたいけど。私らみたいなのが相手されないでしょ。」


「いや、わかんないよ!!」


 ソフィリアが満面の笑みで言い返す。

 ルティミアはソフィリアをちらりと見た。

(……まあ、その胸があればいけなくもないか。)


 心の中でひっそりと思った。口には出さない。さすがに出さない。


「てか、ソリアこそ婚約者探してるの?」


「そうよ? そのための夜会でしょ?」


 ソフィリアがきょとんとした顔で返す。


「いや、あんたさ……」


 ルティミアは言いかけて、止まった。


 ラミアン・アシュタルトのことが頭をよぎったからだ。


ラミアン・アシュタルト。アルノ家直属の精鋭騎士団を束ねる男で、歳は三十一。栗色の癖毛に濃いブルーの瞳、爽やかな好青年だ。子爵家の次男ながら実力一つで団長まで上り詰めた努力家で、十六の頃からアルノ家に仕えている。誠実で紳士的、非の打ち所のないいい男。そして――ソフィリアが長年、想いを寄せている相手でもある。


正直なところ、ソフィリアが真剣に婚約者を探しているとは思えなかった。ラミアンとくっつきたい気持ちと、どうせ無理だという諦めの気持ち。その半分半分で、今夜もこうして夜会に来ているのだろう。


 ルティミアはそれ以上考えるのをやめた。


 広間に目を向ける。ラミアン・アシュタルトに並ぶイケメンはいるだろうか。あの騎士団長はかなりの顔をしている。基準として申し分ない。

(……今日もいない。)

 三秒で結論を出した。


 顔で言えば、この可愛い親友にラミアンはぴったりだが。ルティミアはちらりとソフィリアを見た。蜂蜜色の髪、大きなラベンダーの瞳。血色のいい頬と綺麗に上がる口角。誰が見ても美人だ。でも、それを口にする気にはなれなかった。わからないことを軽々しく言うのは、ルティミアの性に合わなかった。


「かっこいい人いた??」


 ソフィリアが可愛い顔で聞いてきた。


「……いない」


「えーっ! もっとちゃんと見てよ!」


「見た。三秒で判断した」


「はや!!」


 ソフィリアがぱちぱちと瞬きをする。

 二人は他愛もない話を続けていた。けれど、広間のそこかしこで、ちらちらと視線が集まっていることに、二人は気づいていない。

 夕日を切り取ったような鮮やかなオレンジの色のボブヘアが、シャンデリアの光を受けて揺れる。紺碧の瞳は深く、見る角度によって色が変わるグラデーションを宿していた。夜空のように。凛と背筋を伸ばしたその立ち姿と隙のない美しさは夜会の華やかさの中でもひときわ目を引く。


 その隣に立つのは、蜂蜜色のフワフワで艶のある巻き髪にラベンダーの大きな瞳。弾けるような可愛らしさで、くるくると表情が変わる。

 片や凛とした美しさ、片や愛らしさ。並んで立つだけで絵になる二人に、令息たちの視線が集まっていた。声をかけたいと思いながら、なかなか踏み出せずにいる。

 当の二人は、まったく気づいていない。


 ルティミアは気づけば、じわじわと頭が痛くなっていた。甘ったるい香水の匂いが、広間に充満している。もう限界だった。


「ごめん、ちょっと外出てくる」


「え? もう?」


「香水が無理になってきた」


 ソフィリアが少し困った顔をしたが、すぐに「まあ、いっか」という顔になった。友達が多いソフィリアのことだ、ルティミアがいなくても困らないだろう。現に、さっきから何人かの令嬢がこちらをちらちらと見ている。ソフィリア目当てに違いない。


「すぐ戻る」


「ほんとに?」


「……たぶん」


 ルティミアはそれだけ言って、広間の端へと足を向けた。

 テラスへと続く扉を押し開けると、夜風がすっと頬を撫でた。

 思わず目を細める。やっと息ができる気がした。


 王宮は、相変わらず美しかった。

 夜の帳の中に、白亜の回廊が淡く浮かび上がっている。等間隔に並ぶ円柱は月光を受けて青白く照り、その影が磨かれた石畳に長く伸びていた。柱の合間には精緻な彫刻が施され、蔦を模した装飾が天井へと優雅に絡んでいく。

 眼下には、手入れの行き届いた庭園が広がっていた。生垣は寸分の狂いもなく刈り込まれ、季節の花々が整然と咲き誇っている。夜風が通るたび、甘い花の香りがふわりと運ばれてきた。

 庭の中央では、噴水が静かに水を噴き上げている。月明かりを受けた水しぶきが、まるで砕いた宝石のようにきらきらと散っては、水面に細かな波紋を広げていった。

 これが唯一、この夜会に来てもいいと思える理由だった。


 父に言われるがまま、定期的に開かれるこの王宮の夜会に顔を出す。婚約者探しは正直どうでもいい。でも、この王宮の夜景だけは、何度訪れても飽きることがなかった。


 ルティミアはテラスの手すりにそっと手をつき、静かに息をついた。

 ひんやりとした石の感触が、手のひらに心地よかった。

(……やっぱり、ここは好きだ。)


 庭園に目をやると、噴水のそばに人影が見えた。

(……ベルウィット伯爵令嬢と、ライナー伯爵令息だ。)


 二人は寄り添うように立って、楽しそうに話していた。距離が近い。あれはただの知人ではない。

(……あの二人、付き合っているのか。意外な組み合わせだった。)

 ルティはテラスの影からそっと眺めながら、口元をわずかに緩めた。こうして人知れず夜会の裏側を覗くのは、思いのほか面白い。


 お互い、どこを好きになるのだろう。

 まあ、本人たちが幸せならそれでいいか。そう結論づけて、ルティはテラスを離れた。

 人が少ない方へ、自然と足が向いた。王宮の回廊は入り組んでいて、夜会の喧騒から離れるほど静かになっていく。


 ルティには昔から、こういう癖がある。人が見ていないところをつい覗いてしまうのだ。別に悪意はない。ただ、素の人間というのが面白くて、やめられない。

 角を曲がった瞬間、固まった。

 柱の陰に、男女が二人。片方の令息には、確か婚約者がいたはずだ。


(……浮気現場だ。)

 帰ればいいのに、足が止まった。柱の陰からそっと目だけを向ける。二人はまだ気づいていない。

 令息は甘い顔をしている。普段の社交の場では見せない顔だ。令嬢の方は頬を赤らめて、上目遣いに令息を見ている。キスはもうしていた。


 これが、恋愛というものか。

 ルティミアは真剣な顔で観察を続けた。令嬢の顔が気になった。角度が悪くて見えない。もう少しだけ、と柱から身を乗り出した瞬間。


「あの令嬢は、バルト家のご令嬢でしょうか」


 低く、静かな声な心地のいいテノールが真横から降ってきた。

 ルティミアは全身が跳ね上がりそうになるのを、辛うじてこらえた。声だけは、かろうじて出なかった。

 心臓が痛い。


 恐る恐る、声のした方に目を向ける。

 光の角度によって青く煌めく黒髪が、夜の暗がりの中でも静かな存在感を放っていた。顔の細部まではわからなかったが、光と影の落ち方で、綺麗な人なのだとわかった。暗がりの中でもなんとなく、緑がかった瞳だとわかった。背が高い。立ち姿に隙がない。

 ルティミアは素直にそう思った。


 でも、誰だろう。


「……本当にバルト伯爵令嬢でしょうか。ここからではあまり顔が見えませんが」


 ルティミアは小声で、しかし至って真剣に返した。


「……盗み見をしていたのですか」


「観察です」


 即答した。男の口元が、ほんのわずかに動いた。


「やはり、女性はスキャンダルやゴシップが好きなんですね」


 爽やかな笑顔だった。爽やかな笑顔だったが、馬鹿にした響きが確かに聞こえた。


「いや、人聞き悪いですよ。私は恋愛の研究をしているだけです。スキャンダルやゴシップになんかしません」


「……研究」


「そうです。恋愛というものがどういうものか、実地で観察するのが一番効率がいいので」


 男は何も言わなかった。ただ、静かにルティミアを見ていた。


「観察は順調ですか?」


 また声がかかった。

ルティミアは内心で舌打ちをした。この男がしゃべり続ければ、向こうに気づかれる。


諦めるか。

この男がいる限り、観察どころではない。ルティミアは小さく息をつくと、男の方を向いた。


「そろそろ私、夜会に戻りますね。そういえば友人を待たせていたんでした」


 笑顔で言った。内心は早くこの場を離れたかったが、顔には出さない。


「そうですか。失礼しました」


「では、良い夜を」


 ルティミアはそう言って、先に踵を返した。

 男は静かにその背中を見送った。夕日色の綺麗な髪が、夜の回廊の暗がりへと消えていく。

 男はただ、それを見つめていた。


 広間に戻ると、ソフィリアはすぐに気づいて顔を輝かせた。


「ルティ、おかえり!」


「ただいま」


「……なんか、残念そうな顔してる」


「研究が途中で終わった」


 ソフィリアはルティミアの顔を見て、すぐに察した。


「……またのぞいてきたの」


 少し他呆れ声でソフィリアが聞く。


「研究」


 ルティミアは即答した。


「で、なに見たの?」


 さっきまでの呆れ顔はどこへやら、ソフィリアはルティミアに身を寄せてこっそりと聞いてきた。


「浮気現場」


「え!!だれ!?」


「声でかいよ!!」


 ルティミアは素早くソフィリアの口に手を当てた。周りをさっと確認する。幸い、近くにいた令息たちは気づいていなかった。

 ルティはそっとソフィリアから手を離した。


「途中で邪魔が入ったから、詳しくはわからない」


「邪魔って誰に?」


「知らない男」


「知らない男!?」


 今度は口を押さえながらも目だけで叫んでいた。


「わからない。暗かったし」


 ルティミアは肩をすくめた。


「でも……綺麗な人だったような」


 ぽつりと言った。暗くてはっきりとは見えなかったけれど、整った顔立ちなのは何となくわかった。顔は、かなりよかった気がするけど。


ルティミアの目が、すっと細くなった。


「……まあ、失礼な男だったけど」


 すぐに付け加えた。


 ふと、あの男の言葉が蘇ったからだ。


 覗き見だの、スキャンダル好きだの――。


 ……まあ、事実なのだが。


 それでも面と向かって言うのはどうかと思う。


「それより、リード公爵は来たの?」


「あ!そう!いたよ!噂どおり綺麗な人だった!すぐ囲まれてたんだけど、笑顔で令嬢たちをうまくあしらってて。あの人、誰にもなびかないんだよね。でも気づいたらいなくなってた」


 ソフィリアは残念そうにルティミアにそう言った。

 ルティミアは小さく息をついた。


「……残念だな。顔だけでも見てみたかった」


 ぽつりと言った。


 ソフィリアは心の中でひっそりと思った。

(……あの綺麗な男に釣り合うのは、このルティくらいじゃないかと。)


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