0.初めてのおまじない 2
私とお母さんは、小さくなっていく杏里お姉ちゃんを見送り、店へと戻っていった。きっと大丈夫。私のおまじないがきっとお姉ちゃんを助けてくれるはず。
家に帰り、夕飯も食べ終え、なんとなく杏里お姉ちゃんの会話をすることなく、ベッドの中で一日を終えようとしている時、明日の来たる運命に眠れずにいた。明日が楽しみで眠れない。だけど何だろう。緊張もしているような気もする。そうやって期待と不安で、頭の中がしっちゃかめっちゃかになり、私はいつの間にか眠りについていた。
翌日。まだ空が青さを残している頃、私は、知らぬ間になくなった不安をよそに、ただただ杏里お姉ちゃんが笑顔で来てくれると、首を長くして待っていた。
「杏里お姉ちゃん、遅いなー」
パラソルで出来た影の下で、公園の出口の向こうから、栗色の髪が見えてこないかぼーっと眺めていても、お姉ちゃんがなかなか現れない。
「ゆりかー、暑いからキッチンカーの中で休んでいなさい。来たらママが教えるからー」
キッチンカーで何かしら作業をしてるお母さんが、私のことを傍目で気にかける。
「えー、もう少し待っとくー」
暇になった私は、手元にある誰かに渡すでもないおまじない達を書いたメモ帳を、無心にペラペラめくる。
昨日眠れてないせいか、なんだかうとうとしてきたような気がする。外暑いし、お母さんの言うとおり車の中にでも……
「あ! お姉ちゃんと同じ髪……い、ろ。のカツラつけたおばさんかい!」
ぼんやり公園の出口を見ていたら、お姉ちゃんと同じ髪色が見えたと喜びも束の間、明らかにカツラだって分かるような違和感しかないおばさんが、ご機嫌で歩いていた。ああいうおばさんもいるのね……。紛らわしい。なんだか力が抜けちゃった。戻ろっと。
唐突に脱力感に襲われ、肩に力が入っていたことを、私は初めて認識した。
「お母さーん、私、車の中で休んどくからー。杏里お姉ちゃんが来たら教えてよー。絶対に!」
「わかったから、早く車の中に入りなさーい」
私はメモ帳を手に取り、日陰から嫌々出た。両手を無気力にぶらさげ、だらしない姿勢で車の中に避難する。
車内は夏を感じさせない空間、いや、冷房のきいた屋内も、夏の醍醐味であると思える。暑さと、不確実な未来に対する緊張からの一時的な解放感に、身体は一気に省エネモードになり、助手席に全身が沈んでいく。はあ、体が溶けちゃいそう。ここからしばらくは動けないかも。
「お姉ちゃんが来るまで――ちょっとだけ、眠ってても……いいよ、ね?」
冷気が私を優しく包み込む。公園の蝉の声でさえ、はるか遠くに聞こえてしまう。こうなると後は、目を閉じるだけ。そして私は、ゆっくりと眠りについた。最悪なタイミングで、起きてしまうことも知らずに。
「ん、んー」
気持ちよく猫のようにめいいっぱい体を伸ばし、私は目を覚ました。周りを見渡すと、まだ空は青く、そこまで時間は過ぎてないように思える。口から出た唾を雑に拭い、だんだんと目が周囲の明るさに慣れていった。体はかなり冷えている。
キッチンカーのドアを開けようとした時、杏里お姉ちゃんの声を小耳に挟んだ。
「ゆりかちゃんには……会えない。うちはまだ何も変わっていないから。――だからさ、千里さん。ゆりかちゃんには、上手く言っておいてほしいなーって……」
「そんなことないわよ、きっとこれから変われるわ」
お母さんと杏里お姉ちゃんの会話を聞いて、心臓が強く跳ねる。会えないってどういうこと?
頭の中が疑問符で埋め尽くされ、何も考えることができなかった。今の私は、どうすることが正解なの?
「――ありがとうございます。でも、あの、伝えたかったことはこれだけなので! それじゃあ、うちは帰りますね。じゃあね、千里さん」
ゆっくり、車窓から顔を覗かせるとお姉ちゃんは、眉間に皺を寄せ、今にも涙が目から溢れそうになっていた。それに気付く余裕すらないお姉ちゃんを見て、胸が痛み、息がつまる。杏里お姉ちゃんが泣いてる。私がそうさせたのかな。昨夜の不安が急に姿を現し、徐々に私の目の焦点をずらしていく。
「そ、そんな…」
私がうろたえている間にお姉ちゃんは、お母さんに別れを告げ、だんだんと遠くなっていく砂利の音とともに、彼女の存在は消えていった。たくさん聞きたいことがあったけど、それでも私は、キッチンカーから怖くて出ることは出来なかった。
私は、今まで紙に書いたおまじないに目を向けた。無心で目を通し、気づいたらビリビリに破り裂いていた。
「私のおまじないなんて…」
そして冷房の効いたキッチンカーの中で、私は静かに泣いた。
しばらくして私は、外に出ることにした。きっとお母さんは心配してしまうかも。私はこんな時にでもお母さんへの気遣いを忘れない。だから、沈んだ心を無理やり起こすように、頬を持ち上げた。
「お、お母さーん、杏里お姉ちゃんは来てたー?」
目をこすりながらゆっくり外に出る。お母さんが見ているわけでもないのに、今起きました感を出して、外のテーブルで、優雅に紅茶を飲むお母さんに近づく。
「来たわよ。――けどすぐに帰っちゃったわ。起こせなくて、ごめんね」
「だ、大丈夫だよ、お母さん。……そ、それで、お姉ちゃんはど、どうだったのー?」
「――聞いていたのね」
「へ?」
予想外の返答に目が点になる。
「え? き、聞いてないよ! さっき起きたから何も聞こえなかったもん!」
「――ほんとうなの?」
「ほ、ほんとだよ!」
お母さんに心配をかけまいと、反射的に強がってしまい、後に引けなくなっちゃう私。そんな定番な振る舞いを見ても、お母さんはここまでがお決まりと言わんばかりに、私の言葉を、額面通り受け取ろうとはしなかった。
「聞こえていたんでしょ?」
私の目の裏側を覗き込むような視線が紫外線とともに私を射す。けれど私は、ブレーキが壊れたトロッコのように、強がることを止めることはできず、お得意の声量で押し切る作戦にでる。
「うう……そうだけど、私……別に気にしてないよ! 初めてだったし……仕方ないよね!」
まったくもう、と呆れた様子のお母さん。だけど、そこには厳しさなんてものは感じないほど、言葉に鋭さはなかった。
「気にする事…ないからね」
「はい…お母さん」
私の声量でゴリ押し作戦は、柳に風で、お母さんにうまく受け流されてしまった。分かってはいるんだけど、悲しいものは悲しい。自分にはお母さんのような、おまじないの才能がないんじゃないかと、それがどうしても頭の中を行ったり来たりしてしまう。
「さ、それじゃもう今日は、店じまいしましょ。ゆりか、手伝いお願いね」
きっとその時、お母さんは私が意味を理解してなかったことを、私の態度や表情なりを見て、察しただろう。けれどお母さんは、それ以上私を追及することはせず、自分が座っていた椅子から片づけ始めた。




