第79話
初恋
貧民街の一斉検挙はある日突然行われた。
経歴不明の大人たちの多くがお縄についたらしい。
斯く言う俺も人には言えないことを今までしてきたので、国の軍隊に捕まる前に隣り街へと逃げ果せた。
しかし、とはいえ行く当てもなく、何より文なしだったため……俺は行き交う人込みの中、ばたりと一人で行き倒れた。
「ねえ、貴方、もしかして……イベリス? イベリス君じゃない?」
斃死なんて戦後となっては日常茶飯事なのだろう。
街人たちは俺のことなど見向きもせずに歩いていた。
そんな中で、耳に届いた女性の声音に、はっとした。
学生時代の初恋相手が、目先に立っていたのである。
「やっぱり! イベリス君じゃない! 倒れたりして、大丈夫……?」
「……」
「ほら、掴まって! わたしの家が、すぐ傍に――」
彼女の腕を振り解き、俺はそのまま後退る。
こんなところで知人に会うとは非常に偶然だったのだが、俺はお尋ね者の身だ。
罪悪感が芽生えていた。
「どうしたの……?」
「いや、俺……」
「……」
「体臭、きついし……」
「……」
「そんなことは関係ない!」と往来の中、一喝され、俺は肩を貸してもらって彼女の家へと移動した。
聞けば彼女は既婚者であり、お腹に子供もいるらしい。
結婚してから街に移って妊娠、専業主婦となり、夫婦二人で生活しながら日々を送っていたそうだ。
「それで、一方、イベリス君は? 随分、久し振りだけど」
「俺は……」
「学校、卒業後は? 今まで何をしてたの?」
「……」
これでも実家は一般的な家庭環境だったと思う。しかし俺は故郷を捨てて悪事に加担し、手を染めて、貧民街に流れ着くほど落ちぶれ、生気を失くしていた。
そういう意味で、こんな身形の自分が恥ずかしかったのだ。
況してや彼女は初恋相手……。
直視はできない気持ちでいた。
「うふふ。まあ、言いたくないなら言わなくたって大丈夫。あんなところで倒れたりして、そりゃあ、絶対訳ありよね」
「お湯が沸いたら身体を洗って。ご飯の支度をしておくから」――面倒見のいいその性格は、彼女は変わっていなかった。
すると、その場に一人の男が――怪訝な目付きで登場する。
彼女の結婚相手だろうと、俺はすぐに察していた。
「おい、誰だい……? その男は」
「学生時代の友人よ」
「……それで?」
「街で倒れていたから、こうして介抱していたの」
彼女と会話を交わしつつも、彼はこちらを睨んでいた。
「ちょっと向こうで話がある」と、彼はこの場を後にした。
「旦那さん、家にいたのか……」
「うん。ごめんね、あんなので……」
「いやいや、俺が悪いんだし……」
「あはは。しんみりしちゃったね」
言いつつ、彼女は俯きながら小さく息をついていた。
彼ら夫婦の二人の暮らしが、何となくだが、見て取れた。
「関係、上手くいってないのか……?」
「……まあ、見ての通りかな。だけどお腹に子供もいるし、この子のためにも耐えなきゃ、ね」
作り笑いを浮かべながら椅子を引いて、席を立つ。
「ちょっと訳を話してくる」と、彼女は部屋を出ていった。
間もなく、二人の大きな声が俺の耳まで響いてきた。
言わずもがな、客人のことで口論しているようだった。
「どうしてあんな薄汚いやつ、家の中に入れたんだよ」
「彼はわたしの旧友だもの。さっきも紹介したでしょう?」
「怪しいだろ。家に上げて……何をするかも分からない」
「知り合いだって言ってるじゃない。どうして信用ならないのよ」
……俺は音を立てないように、家の戸口へ歩いていく。
彼女に対して不義理だろうが、迷惑だけはかけたくない。
ここに来たのは間違いだった。俺が後悔している中、夫婦二人の怒鳴り声は更に続いて、聞こえてきた。
「もういい。屯所に通報する。お前は口を挟むな」
「え……?」
「女は黙って、何も言わず! 男の言葉に従ってろ!」
初恋相手の旦那だろうと嫉妬をしてなどいなかった。
寧ろ彼女が幸せならば祝福したいと思っていた。
しかし蓋を開けてみれば旦那は非情な男であり、彼女の夫に適していない性悪人間だったのだ。
こんなやつが初恋相手の結婚相手だったとは……怒りと悲しみ、二つの気持ちが胸裏で鬩ぎ合っていた。
「お、おい! 何をしている! 勝手に入ってくるな!」
「……っ!」
気付けば、俺は二人のもとへと押し入り、彼を睨んでいた。
侮蔑の視線を向けられながら、彼へと掴みかかっていた。
そこから先のことはというと、実はあんまり憶えていない。
俺たち二人は取っ組み合いの大騒動になってしまい、彼女は必死に食い止めようとその身を張ってくれていた。そんな中、憶えているのは頭を打ったことだけで、殴られたのか、転んだのか……俺はそのまま卒倒した。
「ぼ、僕は悪くないぞ! これは正当防衛だ!」
狼狽えている自分の亭主に構う様子は一切なく、彼女は俺の肩を揺らし、何度も名前を叫んでいた。
在りし頃の彼女の姿が脳裏に思い起こされる。
彼女は優しいままだったのだ。
俺は最期に、安心した。
イベリス




