第44話
厭人
「いやー、ほんとに助かりました。お邪魔しますね」
「ご遠慮なく」
二週間ぶりくらいだろうか。お客人がやってきた。
一回りほど若い男性。わたしは暖炉に案内した。
「こんなところに住んでるなんて、貴女も変わった人ですね」
「それを言うなら、山に入った貴方だってそうでしょう?」
わたしは万年雪の雪嶺、その山奥に住んでいる。
こんなところに住居を構えておいて、変な話だが、環境的には人が住むには非常に厳しい場所だった。
「この山、入って帰ってきた人、一人もいないらしいんです。一体、どういう雪山なのか気になっちゃうじゃないですか」
「貴方もその口?」
「ええ、まあ……」
「うふふ。命知らずだこと」
聞けば、彼は物見遊山でこの雪山に入ったらしい。
山中散策している途中で強い吹雪に遭ってしまい、下山を視野に入れたところでこの山小屋を見つけたという。
「こんなところで、ずっと暮らして……? 随分、不自由しているでしょう」
「そうでもないわ。慣れちゃったし。薪を拾えば火は熾せる。雪解け水を生活水にすれば、何とかなるものよ」
「食べ物は?」
「これでもわたし、狩りくらいならできるから」
野草を使った手製の白湯を作り、お客に振る舞った。
彼は無邪気な顔を浮かべて「美味しいです」と笑っていた。
「この山、以前、指名手配者が逃げ込んだ場所らしいんです。その犯人は哀憫会の信者の一角だったとかで、何十人も人を殺して街を追われたそうですよ」
「怖い話。わたし、あんまりそういう話は好きじゃないわ」
「十年以上も前のことで、真偽は疑わしいですが……噂によれば殺人犯は人を食べてしまうとか。僕のような物好きたちが時折り入山する理由です」
暖炉に両手を翳したままで、お客は呑気に談じている。
……そろそろか。
狩猟用の弓を手にして、矢を番え、火炉に夢中の彼の背中に向かって、わたしは語りかけた。
「身体はどう? 温まった?」
「はい。とても――」
「じゃあ、いいわね」
矢を射ると、時を同じくお客がこちらを振り向いた。
既のところで鏃は逸して獲物の左腕に命中し、叫び声を上げると共に、彼はわたしを凝視した。
「ああ、残念。動いちゃ駄目よ。せっかく急所を狙ったのに」
お客は恐怖の顔を浮かべて部屋の隅へと後退り、対して、わたしは笑顔を浮かべて彼のことを追い詰めた。
「どうも変だと思っていた……っ! お前が雪山の人食い人……っ!」
「それね、貴方、殺人犯が逃げ込んだとか言ってたけど、別に逃げたわけじゃないわ。わたしは人が嫌いなだけ。人と一緒にいたくないから、わたしは一人でいるだけよ」
第二の弓矢を構え、強く強く、弦を引き絞る。
出血している腕を押さえ、彼は呼吸を乱していた。
「人が人を食らうだなんて、そんな……どうかしているぞ!」
「貴方たちも鳥や魚、家畜の獣を食べるでしょう。内臓、性器、脳味噌だろうと躊躇しないで口にして、それが子供を孕んでいても遠慮したりはしないでしょう。残酷だとか気の毒だとか、思ったことはあるかしら。生き物たちの命乞いに耳を貸したことは?」
「……っ!」
哀憫会の教祖様も、命の差別を嘆いたらしい。
この世界から人の数を削ぐべき。そう断じたのだ。
わたしは元々、人間嫌いで、生き苦しさを嘆いていた。
ベキア様の思想や理念に、心の底から同意した。
そうして、街に出没したのが件の殺人犯である。
山小屋暮らしを始めてからは歩幅が詰まってしまったが、哀憫会の戒律、教義をわたしは今でも守っていた。
「こんなところにやってきたのがそもそも間違いだったわね。悪いけれど、死んでくれる?」
「あ……っ!」
「うふふ。さようなら」
その時、ふと、何かの気配と視線を感じて、そちらを見た。
小さな小さな戎衣の少女。戦女神――ヴァルキューレ。
死にゆく者の選定者が、暖炉の前に立っていた。
「うわあーっ!」
恐怖のあまり、お客がわたしの家から逃亡する。
弓矢を下ろした隙を突かれた。
戦女神を確認する。
「……」
彼女はいつまで経ってもわたしのことを見つめていた。
彼を追う気はないようである。
わたしは「あーあ」と不貞腐れた。
「つまり死ぬのは彼ではなくて、家主のわたしというわけね」
暖炉に佇む戦女神の隣りに、わたしは腰掛ける。
無表情ではあるが、彼女はこちらに小首を傾げていた。
「今の若人、逃がすのですか。殺すつもりだったのでは?」
「貴女はわたしを迎えに来た。つまりわたしはここまででしょ。食欲なんて失くなっちゃった。あの人、運がよかったわね」
殺人犯は実在した。今も山奥に潜んでいる。
明朝、多くの人間たちがわたしの家へと押しかけて、最寄りの街の自警団が重い腰を上げるだろう。
「まあ、案外持ったほうね。十年以上も経ってるし」
「逃亡は?」
「哀憫会は生死に頓着しないのよ」
横になり、薄く笑みを浮かべ、わたしは閉眼する。
わたしも「人」だ。
わたしは自分を、自分のことさえ、嫌っていた。
ドロセラ




