第42話
雨後
いい雨だ。北の夜空に雨音だけが響いていた。
寒冷地帯の帝国領で冷たい宿雨に打たれつつ、わたしは標的を目前にして、腰の短剣を引き抜いた。
「夜分晩くに悪かったね。こんな悪天なのに」
「……」
「勇者、いや、北の傀儡。お初にお目にかかる」
「……」
勇者と対面すること自体は至極容易なものだった。
帝国王は好色であり毎晩女を嬲っていて、行為の最中は警護兵さえ寝室外に追い払う。そこに忍び込んでしまえば王との接触は可能であり、勇者を喚んでもらうことで首尾よく事が運んだのだ。
勇者は王族たちとの間に奴隷の契約を結んでいる。
哀憫会の諜報部による情報だ。誤報はないだろう。
王の家臣の巣食う縄張り、連なる居館の大棟にて、わたしは帝都の操り人形――。
北の勇者と対峙した。
「わたしは哀憫会の幹部、名前をトジャクというものだ。勇者に会うのは初めてでね、心が躍っているよ」
「……」
「おっと、馴れ馴れしかったかな。わたしは根っからお喋りでね。部下にも何度も言われているんだ。饒舌すぎては困ると」
「……」
北の勇者は放心状態。わたしを見てさえいなかった。
心ここにあらずといった、そんな目顔を浮かべていた。
「君の気持ちはお察しするよ。憔悴しきっているんだろう。手酷い主に逆らえないのは、それはわたしも同じだ」
「……」
「しかし、手駒は手駒なりに役目を全うしないとね。申し訳も立たないのだが、この場でお相手願おう」
「……」
目標その一、城内潜入。
目標その二、国王対面。
目標その三、勇者暗殺。
残すは、最後の目標のみ。
夜明けの前に、雨が上がる前に、依頼を遂行する。
逆手持ちの短剣を向けると、北の勇者がこちらを見た。
「暗殺教団、哀憫会の……雨鳥の才華の、名をトジャク。雨の日のみの暗殺者だろう。貴様のことは知っている」
「……」
「悪いが、刺客ごときに構っていられる時間はない。今は機嫌が悪い。だから」
「貴様は、すぐに殺してやる」――剣を抜き、北の勇者が魔法陣を描き始めた。
小規模陣に、緑の文字。風属性の中位魔法。
武器に魔力を付与したようだ。
周囲に風が渦巻いた。
「……」
やはり、北の勇者は接近戦を望んでいた。
あちらの視点で見れば、ここは主君所有の居城である。高位魔法の大規模陣は展開しないと見ていたが、予想通り、北の勇者は剣でわたしに勝つ気らしい。
武器と武器の勝負であれば、こちらが数段優位である。
才華によってわたしの身体は各能力が向上し、雨が変わらず止まない限りはこの状態が持続する。
棟を蹴って、横薙ぎ一閃。わたしが先手を仕掛けると、北の勇者は対応しきれず、首の絹布が切り裂かれた。
「思った通り、君は自慢の魔法に頼りすぎている。剣の腕はせいぜい並みだ。そんなことでは、わたしに――」
「……」
絹布を失くした北の勇者が、ゆっくり……こちらを振り向いた。
白い素肌。凛々しい小顔。首の奴隷の契約印。彼女の素顔が露になった。
それは、女性のものだった。
「な……っ」
思わず目を見張るほど、わたしは驚愕しきっていた。
北の勇者は女性だった。それは……不詳の情報だった。
一方、黙ったままの彼女に動揺している様子はなく、もはやこちらに興味もなさげに夜空を高く仰いでいた。
「……?」
天から舞い散る何かを、彼女はその片手に受け止める。
気付けば、雨はいつの間にやら止んで……上がってしまっており、それは雪へと姿を変えて地上に降り注いでいた。
「ば、馬鹿な……天候さえも変貌させたというのか!」
「……」
凍ったままの雪は溶けずに、雨にならずに空から落つ。
北の勇者は高位魔法を使わなかったわけではない。遥か上空、雲の中に……陣を描いていたのである。
「……」
顔色一つ変えず、北の勇者が接近する。
雨鳥の才華は条件外だ。能力を消失させていた。
雪の舞い散る深夜の背景。彼女の姿は映えていた。北の勇者は美人だった。
わたしは戦意を失くしていた。
「最期に訊きたい。誰に雇われ、貴様は……わたしを狙った?」
「……」
殺し屋として、依頼主を答えられるわけがない。
北の勇者はすぐに諦め、わたしに、剣を突き刺した。
彼女の魔力を付与した剣がわたしの身体を貫通する。
ここまでか。下手を打った。わたしは口から吐血した。
我が死を受け入れかけた、その時、しかし、わたしは思い出した。
西の大陸、港町の、あの……少年の覚悟を。
「……ふふ!」
彼女が剣を引き抜く前に、わたしはその手を引き寄せた。
彼女の肩に噛みつき、奥歯の仕込み毒を注入した。
「ぐ……っ!」
咄嗟に振り解かれて、剣も同時に引き抜かれる。
鋭い睨みを利かせた彼女は、そのまま、わたしを袈裟斬りした。
「――」
薄く雪の積もった連なる居館の大棟を、わたしの鮮血、わたしの生き血が飛び散り、真っ赤に染め上げた。
北の勇者は肩を押さえ、額に汗を滲ませる。
彼女であれば解毒魔法も難なく習得しているはず。しかし、わたしが使用したのは哀憫会の猛毒薬。毒の回りを遅め、効き目を薄める治療はできたとて、完全完治を果たすことは彼女といえど困難だろう。
剣を落とし、北の勇者は息を切らして、膝をつく。
倒れ伏したわたしの前に、戦女神が現れた。
「先に逝く。君も同じく、その身に罰を受けるといい……」
仇討ちには至らなかったが、これで義理は立っただろう。
彼女の首の契約印が、朱殷色に光っていた。
トジャク




