第106話
劣等
いつも以上に、音が立たないように、僕は気を配る。
兄が実家に帰省したのだ。愛する妻子を引き連れて。
僕が部屋に籠もるようになって、今年で何年か。
父母は五十を超えたはずだ。僕は……何歳だったっけ。
僕の部屋は二階にあるので居間から離れているのだが、それでも甥っ子たちの声が響き、ここまで届いていた。
兄の嫁とも甥っ子たちとも絶対対面したくはない。何より兄には会いたくなくて、僕は部屋から出なかった。
兄が家族と帰ってきたなら、きっと今夜はご馳走だ。階下から仄かに漂う匂いが、僕の小鼻を擽った。
しかし、食事に同席だなんて、僕にはできようはずがない。思えば、朝から欠食していた。
とてもお腹が空いていた。
「……」
夜、物音一つもしなくなった、そんな頃。
僕は父母や兄の家族が寝静まったと判断し、食べるものを探すために、重い腰を上げていた。
恐る恐る、気配を断って、息を潜めて歩を進める。
階段一段を下りるだけでも、胸が激しく高鳴った。
台所には、今夜の食事の余りが食器に残っていて、やはりご馳走だったようだと、僕は静かに微笑んだ。
食器を手に、踵を返して元いた部屋へと戻っていく。
ようやく食事にありつけるのだ。僕の胸は躍っていた。
ぎしり、ぎしりと音が立たないように、階上へと上っていく。
しかし、その時。
僕の背後に、誰かの視線が、気配がして、不意にくるりと振り向いた時――。
食器を落としてしまった。
「あっ」
食器は割れて、激しい音が響き、思わず声が出る。
念願だった僕のご飯は、階段下へと散乱した。
そこには、兄が蝋燭立てを片手に無言で立っていて、彼はじっと僕のことを、脇目も振らずに……見つめていた。
「……っ!」
すぐに部屋へと戻り、僕はその場に頽れる。涙が溢れて止まらなかった。
惨めで仕方がなかったのだ。
兄のその目は喜怒哀楽のどれにも相当しなかった。
「気味が悪い」「気色が悪い」といった、侮蔑の色だった。
階下からは父と母の話し声が聞こえてくる。
食器の割れる騒音により、みんなが目覚めてしまったのだ。
「サフラン、いる?」「起きているのか」――二人の声に、びくりとする。
僕は慌てて立ち上がって部屋の窓を全開し、逃げようとして、足を滑らせ、そのまま……。
地面に落下した。
――。
「兄は何をするにも僕より優秀だったんだ。それが強い引け目になって、僕は堕落を続けた」
「……」
「このまま何にも為さないままではいけないことには気付いていて、それでも、結局……僕は腐って、引き籠もっているままだった」
命を落とした僕の前には一人の少女が立っていた。
少女は「戦女神」と名乗り、僕は彼女を知っていた。
「……駄目さ。絶対足手纏いだ。誰かの邪魔にはなりたくない。生きてる間もこうだったんだ。何の役にも立ちっこない」
「それは貴方が自分自身で決めることではありません。周りの人々が決めることです」
「……」
「一緒に行きましょう」
戦女神が片手を差し出す。僕は顔を上げていた。
……ぐぐう。突然、お腹が鳴った。
僕は俯き、赤面した。
イヌサフラン




