地に沈む①
事務所を出ると、外は薄暗くなっていた。
それでも、気温はまだかなり高い。少し歩いただけで、半袖パーカーの内側に汗が滲んで来るのがわかった。いつものコンビニ前で立ち止まり、スマホを取り出す。と、手の中の電話が音もなく振動し、着信を告げて来た。タイミング的にジオに違いない。
面倒くさいリクエストをして来ないと良いけど。そう思いながら、電話を耳に当てた。
「もしもし、ジオ? お前、今俺の家にいる? いるんなら何か買って帰るけど、何が良い?」
──返事が返って来ない。聞こえていないのだろうか。
「ジオ? 聞いてるのか?」
『…………ジオって誰だ』
電話口から聞こえて来た声。それはジオのものではなく、まさかの八木、皇子だった。
「あ、あんた、なんで……!」
『僕の質問に答えるのが先だろ。誰だ、ジオって』
「どうだっていいだろ、そんな事! それより、どういうつもりですか? 俺に何も言わずにいきなり事務所を辞めて! 俺は、貴方を信じていたのに!」
あの時だって、俺は皇子を信じていた。
執務室にこもりたい、という皇子を、疲れているのかと心から心配もしていた。貴方がこうやって平気で人を、部下を裏切れる人間だと知っていたら、俺は忠誠なんか誓わなかったのに!
『少しやる事があると言っただろう。今朝方早くに、それが進んだだけだ』
「やる事ってなんですか!?」
『それは、色々こみ入ってるから会ってから話すよ。朝は電話に出られなくて悪かった。ちょっと手が離せなかったんだ。そもそも、僕は所長に伝言を──』
「……会ったら、きちんと説明してくれるんですか?」
──いや、皇子の言っている事を信じては駄目だ。
よく考えたら、皇子として生まれながら国を裏切って逃げたような男が、両手の爪に血を滲ませながら硬い石床に魔法陣を刻んだ男が、俺の説得にあっさりと応じるわけがない。
だからきっと、これは罠だ。
こちらに来て一年ちょっとの俺ですら、ジオや進藤と言った面々と知り合いになったのだ。十四年もこちらで過ごしていた皇子なら、俺以上の人脈を築いていても不思議じゃない。
『もちろん、全て話す。お前にも関係がある事だしな。これから僕の家に、と思ったんだが、さっきのジオっていうのは……』
「ジオは友人です。すみません、予定を取り消すんで一回電話を切っても良いですか?」
『あ、あぁ、良いけど……』
「すぐに折り返します」
皇子は俺を返り討ちにするつもりなのだろう。
ここは騙されたフリをして一気に仕留めるしかない。国に帰ったら皇子は激怒するだろうが、俺が陛下から咎められる事は絶対にないはずだ。
だがその前に、ジオに連絡をしておかなければ。
俺が皇子を連れ帰った後は、『八木彩人』の空の器、要は死体が残される事になる。俺の方『関村優也』はどうなるのだろう。死にはしないのだろうけど、優也は表に出て来られるのだろうか。
どちらにしても優也はジオと知り合いではない。万が一優也が捕まって、その時ジオが優也の家にいたら巻き込んでしまう。俺は急いでジオに電話をかけた。
『あ、探偵さん? ちょうどこれから家を出るとこなんだけど』
「悪いな、今日は駄目だ。それからもう二度と俺の家には来るなよ。街で見かけても絶対に話しかけるな」
『な、何? どうしたの? 大丈夫?』
「ともかく、俺と接触した痕跡のようなものは全て消しておけよ。進藤にも同じ事を伝えておいてくれ。じゃあお別れだ。元気で頑張れ」
『ちょっと、探偵さん待って! なにするつもり?』
ジオは何やら喚いていたが、もう構っている暇はない。俺は次に、八木の番号に電話をかけた。
『関村? 大丈夫か?』
──早い。ワンコールもしない内に出た。
きっと待ち構えていたんだろう。俺を確実に陥れる為に。
緊張で喉がへばりついたようになっている。俺ごときが、皇子を逆に罠にはめるなんて真似が出来るのだろうか。いや、出来るのか、じゃない。やるんだ。
『……関村?』
俺は大きく息を吸い込み、心底困ったような声で言った。
「すみません、あの、土門弘樹の会社が清掃してたっていう地下水路があるじゃないですか。なんとなくそこを覗きこんでたら、財布を落としてしまって。金はいいんですけど、財布の中に大事なものが入っているんです。あの、一緒に探せとは言わないんで、ライトで照らすのだけやって貰えませんか?」
『……財布を落とした? 全く、なにをやっているんだ、お前は』
皇子は少し沈黙した後、呆れたように溜息を吐いた。
こんな稚拙な嘘じゃ駄目だったか。もっと、信憑性があって気を引けるような内容の方が良かったかもしれない。沈黙はまだ続いている。心臓が、痛いくらいに鳴っているのがわかる。
『わかった』
やがて、皇子の声が電話口から聞こえた。
『ちょっと待ってろ。僕は今自宅にいるんだ。駅までは車で行くが、その道は細いから車が通れない。どんなに急いでも三十分はかかる』
「大丈夫です、待ってますから。ありがとうございます。疲れているのに、ごめんなさい。それと、いつも迷惑ばかりですみません」
『……迷惑じゃないよ。お前はそんな事を気にしなくて良い』
皇子の柔らかな声。けれど、この声は本当の皇子のものではない。器である『八木彩人』の声だ。それなのに、何だか胸を締めつけられるような泣きたいような、不思議な安堵感に包まれる。
元の世界に戻ったら、もうこの声で話しかけられる事はない。なんだか、それがひどく寂しい。
「……はい。待っています、ずっと」
『あぁ、すぐ行く』
穏やかな声を耳に焼きつけながら、俺はそっと電話を切った。
◇
四十分ほど待っただろうか。こちらに向かって走って来る人影が見えた。
「ここです!」
「関村! 悪い、待たせたな」
俺の姿を確認し、小走りに駆け寄って来る皇子を、俺は冷めた目で見つめた。相変わらずの長袖姿。額からは、滝のように汗が流れている。
「財布を落とした場所はわかってるのか?」
「……いいえ」
「わからないのなら探しようがないじゃないか。全く見当もついていないのか?」
呆れたような顔の皇子を見ている内に、激しい怒りと憎しみが募って来た。今すぐにでも殺してしまいたい気持ちを、懸命に堪える。
「……財布を落としたなんて嘘です。どうしても貴方をここにおびき寄せる必要があったので。我ながら苦しい嘘だな、と思っていましたけど、あっさり騙されてくれて良かった。まぁ、これで貴方が俺を心底馬鹿にしているって事がわかりましたけど。俺ごときに何が出来るって、思っているんでしょ?」
「せ、関村? お前、一体どうしたんだ?」
皇子は困ったような顔を崩さない。焦る気配すら見せない。今、やっとわかった。こいつはクズだ。
「どうした? 貴方こそどうしたんですか? なぜ俺達を、国を裏切って逃げたんですか? 何が、何がそんなに不満だったんだよ! だったら自殺でもなんでもすれば良かっただろ? 自分の国から、役目からは逃げたいけど別の世界では楽しく生きたいって勝手過ぎだろ! そのせいで俺は、たった一人で無駄に苦労させられてんだよ!」
「ちょ、落ち着け関村。お前、一体何を言っているんだ?」
皇子は俺の両腕を掴んだ。眼鏡の奥からこちらを見下ろす、まるで宥めるような目つきに激しい苛立ちが込み上げる。
俺は、俺はこんな男の為に──!
「……言ったでしょ? この地下水路は土門弘樹が務めてる清掃会社が区から委託されて定期的に清掃しているって。だから、貴方の遺体が見つかったらきっと、土門が疑われるでしょうね」
「は……? 関村、お前どうしたんだ?」
「皇子。左手の手首を見せて貰えませんか?」
俺の両腕を掴んでいた八木の手がびくりと震えた。
「見せられないんですか? 国民に対して皇族の証を見せる事を躊躇う、という事は、やっぱり貴方は俺の言葉に頷いたフリをして、また騙そうとしていたんですね」。
皇子は青ざめた顔になっている。口はパクパクと動いてはいるけど、言葉は全く出て来ない。見た事もない情けない姿に、俺は心底げんなりとしていた。
こちらの世界で、皇子は随分と腑抜けたらしい。こんな状態の皇子を連れ帰った所で今さらどうなるとも思えないが、これも命令だから仕方がない。
「こっちの世界はもう十分楽しんだでしょう? もういいじゃないですか。陛下もご心配なさっていますから、俺と一緒に帰りましょう」
「せ、関村、お前の言っている事は全く意味不明だが、それは良い。お前は疲れているんだ。僕の事は、今ここで話す。だからとりあえず、一旦落ち着いてくれ」
「俺は落ち着いてますよ。貴方がそうやってどうにか誤魔化してこの場から逃げようとしてる事だってわかってます」
「関村!」
──貴方の側近になれた事は、俺の誇りだった。
貴方の為ならなんでも、どんな事でも出来ると思っていた。その思いは、悔しいけれど今でも変わらない。
「行きましょう、皇子」
「待て、僕の話を……っ!」
俺は狼狽えるフリをしている皇子に飛び掛かり、素早く腕を捻って背後に回った。そして腕を首の下に回し、ぎりぎりと締め上げた。
「良かった。この貧相な身体でもちゃんと動けた。厳しい訓練の賜物ってやつですかね」
皇子は俺の腕をバシバシと叩いている。苦しいのだろう。
このまま首をへし折ってやっても良いが、念の為にもう少し、『地の底』に近づいておいた方が良いかもしれない。
「首尾よく皇子を連れ帰ったら、俺は副団長補佐に昇進する事になっているんです。貴方の警護からは外されると思いますが、俺としてはその方が良い。もう貴方のお守りは金輪際やりたくないですから」
皇子の動きが止まった。ようやく諦めてくれたのだろう。俺は少し腕の力を緩めてやった。
「やめろ……関村……」
「俺は関村じゃありません。では申し訳ございませんが皇子、ちょっとだけ苦しいのを我慢して下さいね」
「……僕はお前の事を、本当に──」
「もう貴方の事は信じない。どうせまた裏切るつもりでしょ、そうやって哀れっぽく振舞えば、俺ごとき自由に動かせると思って、馬鹿にしているくせに」
面倒くさくなり、俺は再び腕に力を込めた。
「まぁ、どうしてもって言うなら帰ってから聞きますよ。貴方にはしばらく自由な時間はないだろうから、いつになるかわかりませんけど」
俺は首を締め上げたまま、汚水の流れる水面を見つめた。
皇子、というか八木の身長は優也よりも高い。このままだと、少し沈めにくい。俺は『八木』の膝裏を思いきり蹴った。皇子はガクンと崩れ落ち、薄汚い暗渠の縁に膝をついた。
間髪入れずに後ろから全体重をかけ、八木の身体を頭から汚水に突っ込む。
「せきっ……!」
八木彩人、として聞く最後の声。
俺の本当の名前を知っているはずなのに、最後まで頑なに向こうでの名を呼ぼうとしないその姿勢に、本当に腹が立つ。
「皇子、貴方のせいで本物の八木さんはこんな目に遭っているんですよ? 貴方が、八木彩人の身体に飛び込んだから! どういう気分ですか? 自分勝手な貴方のせいで、罪のない異世界人が死んでいく気分は!? ねぇ!」
身長は高くとも華奢な八木の事だ、そう苦労しないと思っていたが、死を間際にした人間の力はすさまじい。足はバタバタと動き抵抗を示し、両手は俺の手を何とか剥がそうと悪あがきをしている。俺は歯を食い縛り、往生際悪くもがく身体を、渾身の力で押さえつけた。
押さえれば押さえるほど、八木の身体から力が抜けていく。それでも油断する事なく、押さえつける力は緩めない。二、三度ビクビクと震えた後、八木の身体から緩やかに力が抜けていく。やがて、完全に動かなくなった。だが、まだ油断は出来ない。肩で大きく息をしながらも、しばらくは同じ姿勢を保っていた。
──そのまま十分は経っただろうか。さすがにもう大丈夫だろう。
俺はゆっくりと八木の身体から手を離した。うつ伏せになって汚水に浮かぶ、八木の身体をぼんやりと見つめる。
「はぁ、疲れた……」
俺は壁際に移動し、そのままずるずると座り込んだ。壁にもたれかかかると同時に、急激な睡魔に襲われる。帰還の時が、ようやくやって来たのだ。
「やっと、やっとこれで帰れる……」
俺は睡魔に身を任せ、両の瞼を閉じた。
次に目を覚ました時は、懐かしい元の世界に戻っているはずだ。




