破滅の足音④
八木は、皇子は涙声になっている。
「俺と一緒に来て下さい。俺は、その為に来たんですから」
皇子は目を丸くして驚いている。きっと即座に殺されると思っていたんだろう。異世界に逃げ出す事しか考えていなかった皇子の事だ、詳しい『戻り方』を知らなかった可能性は高い。
「……本気で言っているのか?」
「当たり前です。貴方の言い分もあるでしょうけど、俺にだって色々とあるんです。ですから、一緒に来て貰わないと困るんです。お願いですから、もう逃げないで下さい」
帰る為の最後の条件。地の底に近い場所。そこに皇子を連れて行かなければならない。
「でも、父がなんと言うか……」
「大丈夫です。話せばわかってくれますよ。だって貴方は優秀な息子なんですから。それに、十四歳の時にこっちの世界へ足を踏み入れたって事は、その年になるまで色々辛い目にもあったんじゃないですか? そういうのも、きっとわかって下さると思います。俺なんかじゃなんの役にも立たないとは思いますが、俺からも精一杯伝えますから」
この世界は元の世界と比べると、信じられないくらい便利だ。
でも人の温かさというもので比較すると圧倒的な差で元の世界に軍配が上がる。皇子のように繊細な人には、耐えられない事も多かっただろう。でも、元の世界に帰ればきっと、その傷も癒えるに違いない。
皇子はまだ何も言ってくれない。俺は祈る思いで皇子を見つめた。
何が起こるわけでもなく、ただひたすらに沈黙が続く。それでも俺は、急かす事なく黙って辛抱強く待った。
「お前は? お前はいつからなんだ……?」
「俺ですか? 俺は一年とちょっとくらいです」
「そんなに最近だったのか!?」
俺は頷きながら、場違いにもどこか微笑ましい気持ちになっていた。
いつも無表情で澄ました顔の『八木』が、皇子の魂が前面に出るとここまで表情豊かになるなんて。
「……わかった。お前を信じる」
皇子はゆっくりと頷いてくれた。俺は安堵で腰が抜けそうになるのをすんでの所で堪えた。
「えっと、今すぐ行きましょう、と言いたいところですがどうしますか? 明日にします?」
「いや、今日は無理だ。それより、ちょっと待ってくれないか」
俺は少し考えた。確かに今日はもう遅いし、ワインを飲んでしまったせいで少し酔っている。
これから『地の底に近い場所』に行って皇子、八木彩人の身体を殺すのは正直に言うとかなりだるい。
「わかりました。じゃあ明日にしましょうか」
「明日も無理だな。今やっている事があると言っただろう。それを片づけてからにしたい。大丈夫だよ、一度は父親の圧に負けて情けなく逃げ出したりしたけど、僕はもう絶対に逃げたりしないから」
──本当に大丈夫だろうか。俺はしばし迷う。
ここで皇子を信じる、と即答は出来ない。だって俺は、一度皇子に裏切られているのだから。
「……本当に、本当ですか?」
「本当だ。僕を信じてくれ」
皇子は背後に後ろ手に隠していた左腕を、そっと俺の方に突き出して来た。コーヒー色に染まった左腕。その下には、皇族の証が隠れている。
「……わかりました。信じます」
袖が不自然に張り付いている様子も見られない。火傷は、思っていたよりも軽症だったようだ。俺は皇子に背を向け、テーブルの食器を片づける事にした。
「洗い物は俺がやるんで、一応腕を冷やしておいてください。洗い物終わったらひとまず俺は帰りますから」
「あぁ、わかった」
皇子は氷水の入ったボウルを抱え、長細いテーブルの端に移動している。腕を冷やす為に袖口のボタンへ手をかけた所まで確認し、俺はキッチンで慣れない洗い物と格闘をする事にした。
「……俺、土門弘樹に襲われた時、貴方を守って良かったです」
あの時、皇子を見捨てていたら俺は、二度と元の世界に帰れない所だった。
「僕は気が気じゃなかったよ」
皇子は困ったような、でも『八木の顔』では見た事のない柔らかい笑みを浮かべている。
紆余曲折あったが、やっと使命が果たせる。これでようやく、元の世界に戻る事が出来る。出世も約束されているし、これからの俺の未来は、きっと明るいものになるはずだ。
俺は心からそう信じていた。
この時までは。
********
「おはようございますー」
朝の挨拶をしながら、タイムカードの打刻機へと向かう。いつもの通りにタイムカードを手に取りながら、笑い出したいような寂しいような、なんとも言えない不思議な気分になった。
──この日常は、もう少しで終わる。
むしろ異世界にいるという異常事態を、『日常』と言えてしまう自分に少し驚く。そんな感慨深い思いに浸りながらタイムカードを抜き出した時、吉島さんが慌てて走って来るのが見えた。
「関村君!」
「吉島さん、おはようございます」
「おはようございます、じゃないわよー! 関村君、昨日は八木君に会いに行ったんじゃないの!?」
吉島さんは息を乱している。意味がわからなくて、俺は後ろに立っていた高橋の方に目線を向けた。
「八木の奴が、いきなり退職しやがったんだよ」
「や、八木さんが退職!?」
「そう。今朝早くに所長に電話があったらしい。理由を聞いてみたんだけどな、個人情報を保護する為とか言って、教えて貰えなかったんだよ」
「……嘘だ」
高橋の声が、どこか遠くから聞こえる。
「いや、本当。八木はもうここの所員じゃない」
──そんな事あるはずがない。だって昨日、皇子はもう逃げないと言ってくれた。
それに、信じて欲しいと言っていたじゃないか。だから、だから俺は。
「最近、関村の事を可愛がってたからお前には何か言ってるかと思ったんだけどな。勝手な奴だよ」
「うーん、八木君はそんな人じゃないと思うんだけどなぁ……」
二人の会話が、全く耳に入って来ない。
俺は眩暈にも似た症状に襲われながら、震える手でスマホを取り出した。そして、アドレス帳の『八木彩人』の番号に、祈りを込めながら電話をかけた。
大丈夫だ。俺は皇子を信じる。俺は裏切られてなんかいない。これはきっと、何かの間違いだ。けれど願いも空しく、電話は一向に繋がらない。
吉島さんが所長室へ小走りで向かっている姿が目に入った。もう一度、八木の退職理由を聞きに行くつもりなのかもしれない。けれど俺は、その返答を待つ余裕がなかった。
「なんで、なんで出ないんだよ……!」
──そんなのはわかっている。皇子に騙されたからだ。
皇子は身を守る為に、俺を信じるといって油断させ、まんまと逃げだしたのだ。一度騙すのも二度騙すのも、同じだと言う事なのだろうか。
「関村、八木に電話繋がった?」
「繋がらないです!」
俺は思わず、悲鳴のような声をあげた。高橋が驚いたような顔で俺を見ている。
どうしてなんだろう。どうして俺は、いつも詰めが甘いんだろう。
優秀な同僚を差し置いて皇子の側近に選ばれた時だって、優越感を感じていられたのは少しの間だけだった。だって、その後すぐに皇子に騙されてしまったのだから。
「……本当、馬鹿だなぁ、俺は。馬鹿過ぎて笑えて来るな」
──信じていたのに。
一度は裏切られた事に憎しみを感じていたけれど、今度こそ尊敬する貴方を信じようと、再び信じさせてくれた事を喜んでいたのに。
「関村、おい、どうした?」
もう、どうでも良い。皇子に逃げられた以上、元の世界に戻るのはもはや絶望的だ。
仕方がない。信じた俺が馬鹿だったんだ。こんな世界にいる理由なんて一つもないのに。こんな、味方が誰もいない世界なんて、俺には、もう。
俺はスマホを握り締めたまま、フラフラと事務所の出口へと向かった。
「おい、どこ行くんだよ」
どこだって良いだろ。お前には関係ない。
「関村君! 関村君ちょっと待って、所長が呼んでる! 多分八木君の事だよ、行って聞いておいで、ねぇ関村君!」
──口やかましい女が何やらと喚いている。
だが、俺にはもはやどうでも良い事だった。
◇
それから、どこをどう歩いていたのか覚えていない。気がついたら、自宅の前まで帰って来ていた。
俺は手にしたスマホを見つめた。そこでなんとなく、ジオに電話をかけてみようと思った。といっても、今は平日の午前中だから学校に行っているジオが出るはずがない。
もちろんそんな事はわかっている。わかっていて電話をかけて、あえて傷つきたい気分になっていたのだ。ジオの番号を出し、そこへ電話をかけてみた。コール音を聞きながら、自宅アパートの階段をゆっくりと昇る。不意に、笑いが込み上げて来た。子供に頼るなんて、俺は本当に馬鹿だ。
『探偵さん? どうしたの?』
だが、予想に反してジオは普通に電話に出た。
「……学校は?」
面食らい過ぎて、俺の口から出たのはなんとも間抜けな一言だった。
『そう思うんなら、なんで電話して来たの?』
「……この時間、お前が電話に出る事はまずないだろうと思ったから電話した。なんか“あ、やっぱりこいつも俺を見捨てるんだ”っていう気分に浸りたかったっていうか」
電話の向こう側は沈黙している。それもそうだろう。いくら賢く頭が切れるといっても、こいつはまだ中学生なのだ。いきなりわけも分からないまま、大の大人に意味不明な発言をされて戸惑わないはずがない。
「……冗談だよ」
『今日は家庭学習日だから家にいるんだよ。探偵さん、今日は何時ごろ仕事終わりそう?』
「仕事は、どうだろう。よくわからないな」
ジオと会話をした事によって、少し冷静になった気がする。とりあえず、仕事に戻った方が良い。俺はもう、関村優也として生きるしか道はないのだから。
『今日、勉強が終わったら探偵さんの家に行くよ。痣男の情報はまだなんだけど……』
──痣男。あぁそうか。俺は皇子の捜索を頼んでいたんだった。
「いや、もういい。痣男は見つかったんだ。お前の言う事をちゃんと聞いておけば良かったな、痣男は俺の同僚だったよ」
しばしの沈黙の後、ひゅ、と息を呑む音が聞こえた。
『え、それ……。探偵さん、もしかして……』
「心配するな、どうにもなってないよ。だって逃げられたからな。痣男の事はもう良い、ヤツを始末するのは諦めて、俺は俺でこの世界で頑張っていくよ」
『……もしかして探偵さん、痣男を見つけたら探偵を辞めるつもりだったの?』
そうだな。探偵どころか“関村優也”を辞めるつもりだったよ。
「痣男は同業っていうか、そんな感じなんだよ、だから探偵人生を賭けて、そいつが探偵として生きられないようにしたかったんだけどな、まぁ仕方がないよ」
『探偵さんが“社会的に抹殺する!”なんて息巻いてた時にはさ、僕も心配だったよ。だってやりようによっては探偵さん捕まっちゃうじゃん。でも、こういう結果ってやっぱり探偵さんっぽくて安心した』
電話の向こう、ジオが愉快そうに笑っている姿が目に浮かぶ。その想像につられ、俺は思わず笑ってしまった。そして笑う事の出来た自分に少し驚く。
「じゃあ、もう仕事に戻るよ」
ジオとの通話を終えた後、俺は空を見上げた。この身体があれば、餓死することもないしなんとか生きていけるだろう。事務所を飛び出した理由については「八木の家に行ってみようと思った」とでも言っておこう。
「……アイスでも買って戻るか」
俺はボリボリ君。高橋はレモンシャーベット。所長はミルク大福で、吉島さんは苺アイス。広本はよくガムを噛んでいるからチョコミントで良いかな。それから──。
「八木さんはバニ……ラ……」
──そうだ。八木は、皇子はもういないのだからバニラアイスは必要ない。
俺はもう、今後二度とバニラアイスを食べる事はないだろう。
どんなに高級な材料を使っていても、俺には裏切りの味しか感じられないだろうから。
********
「はぁ、首が痛い……」
ここ最近の、依頼のデータをまとめる作業がようやく終わった。
午前中、急に飛び出した俺の言い訳を皆あっさりと信じてくれた。だがなんとなく罰が悪くて、いつも以上に仕事に没頭した。昼飯も碌に食わずに没頭していたせいで、肩も首も手も痛いし、おまけに腹も減っている。部屋の中を見回しても、事務所の中には俺以外誰もいない。
高橋はついさっき帰っていくのが視野に入ったからわかっていた。他の連中はいつ帰ったのか全くわからない。
所長に至っては、俺がアイスを持って戻った時には所用とやらですでにいなくなっていた。俺に話があったらしいが、それは明日聞く事になっている。
「そろそろ帰るかー」
両手を伸ばし、凝り固まった身体をほぐす。時計の針は、十六時過ぎを指していた。どうやら、予想以上に集中していたらしい。
「ジオは来てるのかな」
俺の家に来ると言っていたが、スマホを確認しても、ジオから特に連絡は来ていない。
「一応、電話をしておくか。また文句言われたら嫌だし」
もしジオが俺の家に来ていたら、夕食を買って帰らないといけない。買うなら買うで、あいつは細かいこだわりを持ってそうだから、何が食べたいか聞いておいた方が無難だ。
「一人ならコンビニで済むんだけどな」
そう言いながらも、俺はジオが待ってくれていると良いのに、と心のどこかで思っていた。




