破滅の足音③
一時間後。
テーブルの上にはサラダとチーズ、それからパスタとワインが並んでいる。
サラダは見た事もない謎の野菜が散らばり、パスタはツナとトマトとバジルを使った彩の良い一品だった。
「八木さん、料理とか出来るんですね。常に外食なイメージを持ってました」
「僕はそれなりに作ってるよ。お前だろ、毎日外食なのは」
「作り方がわかんないですからね」
蕎麦を食べた後に、パスタか、と思わないでもなかったが、一口食べたそれはとても美味しかった。
「これ、すごく美味しいです」
「そうか、良かった」
しばらくは無言で食べ、無言で飲む。
それは決して居心地の悪い時間ではなかったが、ものすごく良いわけでもない。
その理由はなんだろう、と考えた時、俺は八木の事をほとんど何も知らない事に気がついた。よく知らない人間と、同じ空気感を感じるのは難しい。
だからきっと、このなんとも言えない空間が出来上がっているのだ。
「あの、八木さんは兄弟とかいるんですか?」
わからない事は聞く。答えたくないなら答えたくないと言うだろう。
「……弟が、いる」
「弟さんですか。なんとなくですけど、八木さんにはお姉さんか妹さんがいると思っていました」
「八木さんなら、ってどういう意味だ」
「いや、深い意味はないですけど、なんか細かいとことか小言が多いとことか、綺麗好きなとことか、ですかね」
「小言が多いってなんだ。大体、注意を受けるような事をしているのはお前と高橋さんしかいない。お前は消極的過ぎるし、高橋さんは大雑把だ。……といっても、お前は退院してから変わったな」
──またこれか。良かったな、優也。高橋も八木も、お前の方が良いってよ。
「高橋さんにも言われましたよ。お前は倒れてから変わった、以前のお前の方が好きだった、って。八木さんもそう思います?」
優也は変わってなどいない。俺に追い出され、一時的に肉体を奪われているだけだ。俺が皇子を殺して無事に帰還出来たら、また元の優也が戻って来るだろう。
「……いいや、僕は思わない。確かに別人のように動きも頭の回転も良くなっているが、それはお前が元々持っていた能力だ。お前は誰よりも、努力家だったからな」
八木の穏やかな声が、胸にゆっくりと突き刺さっていく。
微かな痛みを、伴いながら。
八木は勘違いをしている。優也の努力は報われていない。他ならぬ、俺のせいで。
「……弟さんは、どんな人なんですか?」
気まずさに耐えられなくなり、急いで話を元に戻した。八木は強引な話題転換に、気づいていないようだった。
「そうだな、僕とは違って自由な奴だよ。フラフラとしているのに、自分の芯ってものをしっかりと持っている。会う度に、弟の強い精神力に圧倒される。正直、すごく羨ましい」
予想外の弱音に、俺は何も言えなくなってしまった。
「……皆実社長の依頼。弟さんはお兄さんの言葉で改心したと言っていただろう。あの時は落ち込んだよ、同じ兄でも、こうも違うのかとショックだった。僕は弟に会う度に、もっと自信を持て、と逆に励まされてばかりだから」
「良い弟さんじゃないですか」
そう言えば皇子にも何人か弟がいた。といっても正妃様の御子は皇子だけだから、後は全部異母弟になる。
「そうだな、良い弟だよ。少なくともあいつは、僕を遠ざけようとはしないからね」
俺はワインを口に含みながら、目線だけでだだっ広い部屋を見渡した。もう良い大人なのだから、両親と別に暮らしているのは別に変な事じゃない。ただこの家は、一人で暮らすには余りにも広すぎる。
弁護士の資格を持つエリートでも、意外と色々あるんだな、と八木に対して初めて親近感が湧いた。
◇
なんだかんだと、俺は穏やかなひと時を過ごしていた。
ふと我に返り、時計を確認する。時刻は二十二時を少し過ぎたところだった。
「あの、八木さん。俺そろそろ……」
「今、コーヒーを淹れるから」
八木はご丁寧に、食後のコーヒーまで淹れてくれた。時間があるなら、と俺はそこで土門柚香が木崎柚香になった経緯と後日談を説明した。
「そうか、円満に離婚できたのなら良かったな」
「はい。慰謝料もそれなりの額を貰えたみたいですし、あの奥さん、まるで別人みたいに明るくなってましたよ。化粧をしたら案外可愛かったし、新しい旦那はすぐに見つかるんじゃないですか」
「……可愛かった、か」
「はい。元々悪い顔立ちじゃなかったですからね。聞き取りの時も、もっと笑えば良いのに、と思っていました」
八木は眉間に皺を寄せ、俺を睨むように見ている。
「女性の依頼人に対して、可愛いだのなんだの言うのは、セクハラに該当する」
「え!? いや俺、褒めてるんですよ?」
「関係ない。今後は二度と、容姿に触れるような事を言うな」
「……はい、すみませんでした」
そういえば、皇子もこういうタイプだったな。ちょっとメイドを怒鳴ったくらいで、ネチネチ説教をされた事もあったし。
──そうだ、皇子。
唐突にジオに言われた事が脳裏に蘇って来た。身近にいる人間の、左手首を観察する約束をしたんだ。
「あ、あの、コーヒーのお代わり貰っても良いですか?」
「良いよ。カップを渡してくれ」
淹れたてのコーヒーがたっぷり入ったガラスポットを掴む八木。だがその手は右手だ。
肝心の左側の手は、袖で隠れて良く見えない。
「八木さん、ちょっと聞いて良いですか?」
「なんだ?」
「八木さんって一年中いつもスーツですよね。今だって長袖だし、暑くないんですか?」
その時、ガラスポットを持つ八木の手が大きく傾いだ。
「あ、危ない!」
俺はポットに向けて慌てて手を伸ばした。けど後一歩の所で間に合わず、コーヒーが八木の左袖にびしゃりとかかってしまった。
「……っ!」
熱かったのだろう、八木は微かな呻き声を上げた。俺は急いで冷蔵庫に走った。
「すみません八木さん、勝手に冷蔵庫を開けますね!」
俺は急いで、業務用かというような大きな冷蔵庫の冷凍室を開ける。だが保冷剤の類は入っていない。
「こうなったら氷水に浸けるしかないな、八木さん、ちょっと待って下さいね、それから袖を捲ってて下さい!」
勝手にあれこれ触ったら後で怒られるかもしれないが、背に腹は代えられない。俺はキッチン下の収納を漁り、ボウルを取り出してそこに氷をぶちまけた。
これで準備は整った。だがなぜか、八木は熱いコーヒーを浴びた左袖を捲ろうともせずにそのままにしている。
「なにやってるんですか?」
氷水の入ったボウルを持ったまま、足早に八木の元に駆け寄る。けれど八木は、なぜか一歩後ろに下がり、左腕を後ろに回した。
「八木さん?」
「関村、もういいからお前は帰れ。後は自分でやるから」
「自分でやるって言ったって、左腕が使えないんだから誰かに手伝って貰わないと駄目じゃないですか?」
こいつはこんな時にまで何を言ってるんだ。そんなに他人を頼るのが嫌なのか。だが、さすがに放っておく訳にもいかない。
「とにかく先に冷やしましょうよ。冷やしている間に俺、食器の後片付けとかしますから。ほら、早く袖を捲らないと皮膚が引っついちゃいますよ?」
火傷のショックで頭が回っていないのかもしれない。ここは無理にでも手当をするしかない。この時俺は、八木の左手首を確認しようとしていた事などすっかり忘れてしまっていた。
「ちょっと動かないで下さいね、ゆっくりやりますから」
ボウルをテーブルに置き、棒立ちの八木に近寄る。そして左腕に手を伸ばした瞬間、パンッという乾いた音が聞こえた。
「触るな!」
──伸ばした右手がじんじんとする。八木に手を払われたのだとわかった瞬間、こめかみの辺りがズキリと痛んだ。
「ど、どうしたんですか?」
「もういいと言っただろ!? とにかく、お前は帰れ!」
「でも、火傷が」
「いいんだよ! お前には関係ない!」
八木の顔は蒼白になり、俺との距離を取ろうと伸ばされた右腕は、小刻みに震えている。こうまでして左腕を見せたくない理由は、なんだ。
「……八木さん。左腕に、何かあるんですか?」
「ない。なにもない」
「じゃあ見せて下さいよ」
「お前に見せる筋合いはない! これ以上強要するなら、こちらにも考えがあるぞ」
弁護士の八木が考える事。まさか、俺を訴えるとでも……?
「本気ですか?」
「あぁ、本気だ」
──ジオ。お前の言った事は正しかった。俺は、正解を引いてしまったのかもしれない。
けど、どうしたんだろう。喜ばしいはずなのに、俺はちっとも嬉しいと思っていない。
「わかりました。もう見せなくても良いですから、これだけ答えて下さい。俺に左腕を見せられない理由は、もしかして俺が考えている事で当たっていますか?」
八木は一瞬目を見開いた後、唇を噛んで俯いた。やがて、諦めたような笑いを浮かべ、ずるずるとその場に座り込んでしまった。
「……そうか、気づいていたのか。やっぱりお前は勘が良いな」
「勘とかそういうのじゃないですけどね。とりあえず、説明して頂けますか」
「説明、か。一体どこから?」
「最初から、です。貴方はいつから、俺の事を……?」
八木は顔を歪め、まるで泣き笑いのような顔になった。
──皇子。俺は貴方をすっと探していた。こんなに近くにいる貴方に気づかない俺を、貴方はずっと嘲笑っていたのか?
吉島さんに『良いコンビ』だと言われた時、俺は嬉しかったんだ。けど貴方が俺に近づいて来たのは、俺を見張る為だったんだな。さすが皇子。素晴らしい演技力。
「……はっきりわかったのは、皆実社長の依頼が終わった時あたりかな」
「だから急に、俺に構い始めたんですね。なんでその時に言ってくれなかったんですか?」
「……言えるわけがないだろ。お前が何を言って来るかなんて想像がついていた」
確かに、俺は皇子を殺しに来たわけだから『皇子です』なんて言われたら使命の事を話す他はなかっただろう。
「俺の立場からすると、ご想像通りの事を言っていたと思います」
「だろう。だからお前にだけは言えなかったんだ。僕だって傷つくとわかっていて、そんな大事な事を口になんて出せない」
俺はそこでふと思った。皇子はいつから八木彩人の肉体に入っていたのだろう。
「あの、気づいた時、っていうか自分がそうだとわかったのは何歳だったんですか?」
もしかして子供の時とか。こちらとあちらの時間の流れがもし違っていたら、その可能性もあるかもしれない。魂がある程度まで身体に馴染んでしまっていたせいで、俺は皇子の気配に気づかなかったのではないだろうか。
「気づいた時……? 自覚した時という事か?」
「はい、そうです」
「中学、二年の時かな」
「中学ですか……」
──八木は今、確か二十八歳。
そうか、皇子は十四年間もこの身体に潜伏していたのか。だったら俺の仮説はあながち間違ってはいないかもしれない。
「一応確認しておきますけど、今まで俺以外にもこういう事ありましたか?」
俺は皇子を翌日には追った。けれど実際、俺がやって来たのは十四年後だった。
向こうでは今、何年経っているのだろう。俺はこっちに来てもうすぐ一年になる。もし、向こうで何年か経過していたとしたら、なかなか帰って来ない俺と皇子に焦れて追加の追手がかかっているかもしれない。ここまでの時間軸の歪みを考えると、そいつらが俺の『後』に来ているとは限らないのだ。
「どういう、意味だ?」
「どういうも何も、そのままの意味ですけど」
「そんなのお前が最初に決まってるだろ! こんな事が、何回もあってたまるか!」
皇子はいきなり立ち上がり、なぜかものすごく怒り始めた。正直、怒られる意味がわからない。むしろ怒りたいのはこっちの方なんだが。
「いいからもう帰ってくれ。そして今の話は忘れろ」
「忘れろ? 勝手な事言わないで下さいよ! そんな事出来るわけがないじゃないですか!」
なんの為に俺がこんな世界にたった一人で来たと思ってるんだ? 責任も何も放棄して、逃げ出したアンタとは違うんだよ、俺は!
「……お前、僕にどうしろと言うんだよ」




