二.奔走する七月七日(木曜日)(1)
つぎに目が覚めたときには、目覚まし時計がけたたましく鳴っていて、窓から朝日が差し込んでいた。
筋肉痛の身体に鞭をうち、制服に着替えて階段を降りる。多少慣れてきたが、やはり一段一段で泣きたくなりそうなほどの激痛が走る。
リビングへ出ると、すでに恵が朝食を食べはじめていた。
「おはよう」
けだるい声で恵に言う。
「ほふぁよー」
トーストをほおばったまま恵が返事をする。俺は眠い目をこすり、痛い身体を引きずりながらキッチンへ。亮の母親が家族四人分の弁当を手際よく用意していた。
亮の母親は大輪田晴香という。家事をしながら、幼児保育の非常勤職員として勤めている。
「おはよう」
「おはよう、亮」
亮の母が俺に朝食のプレートを渡した。
朝食はスクランブルエッグ、サラダ、ウインナーと、トースト。焼きたてのトーストの香りが鼻をくすぐる。腹がぐぅと物欲しげに鳴った。
恵の隣に座り、両手を合わせて食事を始めた。
「いただきます」
きちんとあいさつする。居間のテレビでは朝のニュース番組が根拠不明の占いを流している。名前の画数でその日の運勢を占うらしい。俺に対する嫌がらせみたいなコーナーだ。
「あ、お兄ちゃん一位じゃん。おめでとー」
特にめでたくもなさそうに恵が言った。当の亮は俺に身体を乗っ取られて、どう考えても運勢は最悪だ。
「はい、あんたたち、お弁当」
亮の母親がテーブルの上に弁当の包みを置いた。
恵はそのひとつを自分のそばに寄せた。包みの端にカタカナで書かれた自分の名前を見つめ、不思議そうな顔をする。
「あれ……これにも『メグミ』って書いてある……やっぱり私の名前、『メグ』じゃなくて『メグミ』なんだよね」
恵はうーん、とうなっている。
「あんた、まだ言ってんの?」
亮の母親があきれた声を出した。
そのやりとりの一方で、俺は恵を見ることができなかった。
それは、恵に対する罪悪感のため。
亮の中に俺が発生して数日、さまざまな行動を試している中で、試せずにいた行動がひとつだけあった。
その行動は、誰かの「名前を喰う」というもの。なぜだか、自分にはそれができるという奇妙な確信があった。人間にとって食物を食べるのがあたりまえのことであるように。
それをしなかったのは、その行動をすることでなにか恐ろしい、取り返しのつかないことになるのではないか、という怖さがどこかにあったからだ。
だが先日、俺はついに人の名前を喰った。それも、亮の妹である恵の名前を。
俺は空腹に耐えられなくなっていた。肉体としては存在していない胃袋が俺の中のどこかでギリギリ悲鳴をあげ、気が狂いそうになっていた。この空腹はどれだけ実態としての食事を取っても満たされなかった。
「名前を食べたい」という欲求が大きくなりすぎて「食べることで恐ろしいことが起こるかもしれない」という恐怖心を徐々に押しのけていった。そして最後に「名前を喰ったらどうなるのか」という好奇心が、空腹の限界だった俺の背中を押した。
俺は「大輪田恵」の名前の最後の一文字「ミ」を喰った。その結果、大輪田恵の心に、大変な変化が起こってしまった。
恵は自分の名前が「メグミ」であるという自覚を失い、「メグ」であると自覚するようになった。喰われたぶんだけ、名前を失ってしまったのだ。
だから、恵は周囲が恵のことを「メグ」ではなく「メグミ」だと思っていることや、自分の持ち物に「メグミ」と名前が書いてあることについて、今も違和感を抱いている。
俺は思い切り後悔した。取り返しのつかないことになると感じていたのに。俺は善良なんだ。いくら亮以外の誰にも存在を知られていなくても、他人に被害を与えて知らんふりするようなことはできない。
だから、もう、どんなに腹が減っても、人の名前をいたずらに食べることはしないと誓った。
名前を喰ったほうの俺についてだが、一部とはいえ恵の名前を食べたことで、空腹はほんの少し満たされた。
食べた名前は自分の物になるかと思ったが、相変わらず俺は名前を持っているという自覚がないままだった。「ミ」の文字が自分の物になったというようには感じない。
そのかわり、食べたときの名前の味――食物じゃないのに味というのは変な気分だが、そう表現するしかない――恵の名前の味から、少しだけ恵のことがわかった気がした。
家族や友人と、平凡だが幸せな毎日を送っていることに満足している、そんな味。はっきりとした言葉になるわけではないが、ぼんやりとした印象で伝わってくる。
この「名前を喰う能力」が、俺の特性のうちのひとつで、とても凶悪なものなのだと知った。
この能力についても、可能な範囲でいろいろ試してみたが、喰うことができる名前は、そこに存在する誰かが自分のものだと自覚している名前でなくてはだめだった。
たとえば、そこらへんの犬に適当な名前をつけてそれを喰おうとしたり、亮が持っていた漫画のキャラクターの名前を喰おうとしてみたが、失敗に終わった。
文字なら食えるのかもしれないと思い、試しに小説のキャラクター紹介の部分のページをちぎって口の中に放りこんでもみたが、紙とインクの味しかしなかった。その場面は恵に目撃されており、ライトノベルの読みすぎだとバカにされた。
さらに、逮捕された犯罪者がテレビのニュースに出ていたとき、テロップに出た名前にも試したが、これも失敗に終わった。テレビの向こうの相手の名前を喰うことはできないらしい。恐らく、電話やインターネット上にいる相手も喰えないだろう。試す勇気はないが、感覚的に無理だと確信している。
「ごちそうさまでした」
恵は朝食を終え、大皿に盛られたデザートの桃を二切れ口の中に放りこむと、弁当の包みを持って二階の自室へ上がっていった。
その姿を見送り、朝食の続きを口にする。なにはともあれ、名前を喰ったことで恵の身に起こったのが、「メグ」と「メグミ」の違和感程度だったことが救いだった。
今では恵はまた少しずつ、自分を「メグミ」であると再認識しつつある。
もし、自分が「大輪田恵」の名前のすべてを喰っていたとしたら、恵は、俺と同じく名前を持たない存在になってしまったかもしれない。
自分が誰なのかという保証が消えてしまったら。自分が誰かわからないのに、まわりがみんな自分のことを、知らない名前で呼んでいたら。
俺よりもずっと最悪な状況じゃないか。俺はそれを想像して、身震いした。
「……ごちそうさま」
朝食を終えて胃袋は満腹になり、それでも俺は心のどこかに空腹を抱えたまま、弁当の包みを持って、自室へと戻った。




