七.発声する七月二十五日(月曜日)(完)
定期テストが終わり、夏休みに入った。
昼過ぎで部活を終えた私は、自宅でシャワーを浴びて汗を流してから、亮くんが好きそうな服を選んで、亮くんの家を訪ねた。
恵ちゃんに迎えられ、挨拶を交わす。恵ちゃんは初めて家を訪れた兄の彼女を見て、ぎこちない笑顔で迎えてくれた。
階段を上がり、亮くんの部屋をノックして「どうぞ」という返事を聞いて中へ。
亮くんはベッドにうつ伏せになってマンガを読んでいた。部屋に入った私の姿を見ると、特に嬉しそうにするでもなく、マンガをちょっと持ちあげ「おう」と挨拶して、また視線をマンガに戻す。
つれないなー、と思いながら、亮くんの勉強机の椅子に座った。
「これ、楽しみにしてた新刊なんだ。もう少しで読み終わるから、ちょっとだけ待っててくれ」
視線を上げないまま言う亮くんに、「ん」と簡単に相槌をうつ。
亮くんの顔をじっと見つめていると、亮くんが気付いて、こちらを見た。
「……何だよ」
「んー? 別に、見・て・る・だ・けー」
声色を使うと、亮くんは困ったような顔をする。
「いや、気になる……」
「えー、いいじゃない、私は亮くんのカノジョなんだよー?」
カノジョ、のところにアクセントをつけてみた。
「ええい、よさんか、気持ちの悪い」
悪態をつく亮くん。可愛いカノジョになんてひどい扱いだろう。フってやろうか。しかし、彼のその態度も無理はないのだ。
……さて、あなた。これを読んでいるあなたは、一番最初に私が宣言したことを覚えているだろうか。
この話は、最後まで私、いや俺の視点で進む。
そう、ネームイーターは、今度は国分千華の中に発生した。
千華がくれた名前を得た瞬間に俺の視界はホワイトアウトし、次に目を開いた時、そこにはさっきまで自分が操っていた大輪田亮の身体があった。
俺と亮、それぞれが自分に起こったことを認識したのはほぼ同時だった。
亮が自分の身体を取り戻したことに喜ぶ一方で、俺は自分の視界がさっきまでと違っていることに戸惑い、そして俺に身体の支配を奪われた千華の意識も、また戸惑っていた。
亮が俺を見て千華の名を呼んだとき、俺はようやく自分の意識が千華の身体に飛び移ったことを自覚した。
亮にそれを説明したとき、亮は一瞬心底残念そうな顔をして、そのあと俺に悪いと思ったのか、若干残念そうな顔を取りつくろった。どっちにしても残念そうな表情をしたことには変わりなかった。
「で、どうだった?」
亮はようやく読み終えたマンガを閉じると、ツインテールをいじっていた俺に聞いた。
千華の身体に移った俺はここ数日の間にもう一度、新たな身体で自分に何ができるのかを探っていたのだ。
「基本的には亮のときと一緒だな。これまでと違うのは、記憶に関する部分だ」
「僕の記憶は?」
「ない。もともと亮のものだった記憶は取りだせなくなった。でも俺が一度でも亮から引き出してみたものと、俺が亮の体を借りてたときの記憶は思いだせる」
「じゃあ、千華の記憶は?」
「それも亮の中にいたときと一緒だな。千華が持ってる記憶は引き出せる。そうだ、千華が亮のことをどう思っていたか引き出してやろうか?」
冗談めかして口に出したとたんに、体の内側の千華の意識から猛抗議を受けた。
ちなみに、この記憶は興味で既に引きだしてみたことがある。千華はずっとまっすぐな好意を亮に向けつづけている。ごちそうさま。
「やめろよ、趣味の悪い」
「冗談だ、怒るな」
指先でツインテールをいじりながら笑う。このしぐさは千華のくせだったはずだが、俺もなぜか無意識でよくやってしまう。
おそらく、俺の意識や行動も、千華の身体の影響を受けているのだろう。亮の身体の中にいたころとは心身ともに、感じかたが異なっている気がする。
「ネームイーター、君の記憶は脳ではないどこかに蓄積されているってことなのかな。それで、どうして僕から千華に移ったかはわかったのか?」
「うーん」右手の指先を顎に当てて考える。「おそらく、千華から名前をつけられたことが原因じゃないかと思っているんだが、確証はない」
「名前ね……でも、確かにそれが一番ありうるな」
俺の存在が誰かに認知されたことが原因なら、千華が俺を亮本人ではないと確信したその時点で千華に乗り移らないとおかしい。
千華の中に乗り移ったのは、千華が俺をネームイーターと名付けた直後だった。
「他人に名前で認識される」ことが俺の移動の条件なのかもしれない。なんて迷惑な移動条件だろう。
二人同時にうーん、と唸ると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。亮が「どうぞ」と告げると、ドアを開けて恵が入ってくる。おぼんに麦茶と、水ようかんが乗っていた。
「えっと、お口に合うかわかりませんが、どうぞ」
恵はそう言っておぼんを勉強机の端に置いた。
「あっ、ありがとうございます! わぁ、おいしそー!」
千華の声色と笑顔を作って、恵に笑いかける。つい先日まで兄としての立場を演じ、接していた恵との距離の変化に、違和感がある。
恵はぎこちない愛想笑いをして、軽くお辞儀をすると「ごゆっくり」と言って部屋から出ていった。普段亮に叩いている軽口は出なかった。兄を気遣っているのか、単純に戸惑っているのか。
「気っ色わるぅ~~」
亮があからさまに嫌そうな顔をしてこちらを見た。
「いや、しょうがないだろ、ここは千華を演じないと。いいのか、俺があぐらかいて恵に『ちぇぃーっす』って挨拶しても」
俺が勉強机のイスに座る姿勢は女性のそれになっていた。さっきも言ったが、千華のクセを自然に再現しているようで、足も自然と閉じる。
「それは勿論却下だが……納得がいかない」
「つぎに恵が入ってきたときのために、イチャついとくか?」
「ひっぱたくぞ」
「おー、千華の身体だぞ、やれるもんならやってみろ」
亮が苦々しい顔をしたので、意地悪く笑ってやった。
「それで、これからどうするんだ?」
亮は少し気まずそうにきいた。この質問は俺を気遣うと共に、千華の身体から早く出ていけ、というニュアンスも含んでしまうのだ。
だが、亮がそう思うのは仕方がない。亮に体を返すことができたが、今度は亮の大切な千華の身体の自由を奪ってしまっているのだ。
「ん……なるべく早く、出ていくさ」俺は水ようかんを口に放りこむ。「とにかく出ていける、っていうことだけはわかったしな。なんとかなるだろ」
亮が呆れたように笑った。
「楽観的だなあ」
「とりあえず、亮の身体から出て行くっていう目的は達成できたからな。経験がある分、亮のときよりかは気楽だ。それに千華がいつも言ってるだろ。なせばなる。なせばなるんだよ、亮くん」
そう声に出すと、千華が恥ずかしそうな反応を示した。
「そのあと、落ちついたら、俺が何者なのかを探しにいくよ」
「ネームイーター、そのことなんだけど、ずっと言いたいと思ってたことがあるんだ」
亮はそう言うと、真面目な表情で俺を見る。
「自分の正体で悩んでるみたいだけど、自分が何者かなんて、探しても見つからないよ。探すだけ、時間のムダだと思う」
亮の言っている意味がわからず、俺はただ亮を見つめ返した。亮が続ける。
「僕の持ってるマンガとか、小説とかでも、主人公がよく同じことで悩んだりするんだ。でも、自分が何者かなんて、そんなの結局わかんないんだ。どの主人公も確たる答えを見つけられなかった。僕だって、自分がどうして別の誰かじゃなくて、大輪田亮なのか、わからない」
「でも、亮は自分が人間だっていう確信があるじゃないか。俺は自分がどういう生き物なのか、そもそも生き物なのか、そこが知りたいんだ」
「それでもだよ、ネームイーター。確かに君が自分の正体を探すことは必要だと思う。でもひょっとしたら君は、この世でただ一つの存在かもしれないじゃないか。そうしたら自分の正体を探しまわったって、見つかりっこない。きみと同じものはきみ以外のどこにもいないかもしれないんだから」
「じゃあ、どうしたらいいって言うんだよ」
思わず、すこし苛立った声になった。
「君が創るんだ。自分が何者なのかを君自身が決める」
「……そんなので、いいのか」
ずっと探していたものに、そんな決着を与えることを、どうにも納得できない。
「いいさ。君が決めた君の正体を、僕や千華が支持する。そしたら、それはもう本物だよ」
力強い亮の声に、心の中のわだかまりがすっと晴れたような気がした。
「……そうか。そうなのかも、しれない」
「読んだマンガの受け売りなんだけどね」亮は笑う。「でも、君が僕の身体にいたとき、考えてたんだ。身体がない僕は、いったい何者なんだろう。僕じゃない君が『亮』って呼ばれてるけど、じゃあ僕はどうなるんだ、もう亮じゃなくなるのか、ってね。でも、大丈夫だった。君が僕の身体の中に居るあいだ、ずっと僕の名前を『亮』と呼んでくれたよね。僕を亮でいさせてくれたのは、君が僕を『亮』と呼んでくれていたっていうことだったんだ。それでわかったんだよ。自分と相手の両方が、僕を亮だと信じてはじめて、僕は大輪田亮になれるんだって」
亮は身体の感覚をたしかめるように、拳を握る。
「もう僕も千華も、君がネームイーターだってわかってる。だから、あんまり自分の正体がわからないことで、悩まなくてもいいんじゃないかな。君は、もうまぎれもなくネームイーターだ。僕らが保証する」
亮の言葉に、身体の中の千華も力強い肯定の反応。
「……ありがとう。亮、千華。お前らほんとにいい奴らだよ。これまでずっと迷惑かけてて、ごめんな」
立ち上がって、感謝の意を込めて深く頭を下げた。
「いいって、顔をあげてくれよ、ネームイーター」
「亮……」
「ちゃんと約束通り身体も返してくれたしね。僕の立場や、千華のことも気遣ってくれた。ありがとう。君こそ本当に善良なやつだよ」
そう言って、右手を俺へと挿し出した。俺も右手を差し出して、亮の手を握り返す。
伝わってくる亮のぬくもり。そこに参加するかのように、千華が暖かな感情の波を向ける。
まるで三人で手を繋いでいるかのようで、不思議な心地よさがあった。
「んじゃ、行くよ」しばらくそうしてから、ゆっくり繋いだ手をほどく。「出来るだけ早く、千華からも出て行かなきゃな。そしたら、亮と千華がデートしてるときに冷やかしに行ってやる」
「言っとけ」
亮が笑う。俺と亮は、どちらともなく、お互いの右拳を出して突き合わせた。
「それじゃあ」俺は亮の部屋の扉に手をかけて、挨拶のために息を吸い込んだ。
この挨拶は、亮の身体に入ってしまったときから、ずっと言わなくてはいけない、いつか言うと心に決めていた言葉。
この部屋を出ていく挨拶であると同時に、ずっと間借りしていた亮の身体に対しての挨拶の意味を込めて。
「おじゃましました」
力強く、そう発声した。
(完)




