混乱と破壊
何も無い1日だった。
天気はあいにくの雨。
メンテナンスに行く予定も無ければ、何の作戦も命じられていない、そんな日をぼんやりと過ごしている。
自室でのトレーニングで午前中を潰し、午後からは昼飯を食べるついでに日用品の買い物をするために外に出た。
午前はひどい降り方だったのが、大分小雨に変わってきている。
これなら傘はいらなかったかもしれない。
それでもせっかく持って来たのだからと、さして歩いた傘は昼食を食べ終えて店を出ると無くなっていた。
誰かが間違えて持っていってしまったのだろう。
他にも数本の傘が、傘さしには刺さっていたが、何となくそのどれも手に取る気になれず、結局は手ぶらで店を出た。
雨は既に気にならない程度にはやんできている。
これくらいならば構わないだろう。
目的の日用品を売る店へと目指して歩き出す。
やがて、奇妙な状況に出くわした。
それまでまばらだった人通りが、急に活気づく。
通りの向こうから、ぱらぱらと人が駆けてくるのだ。
ひとり、ふたりと駆け抜けていく。
その顔に浮かんでいたのは恐怖。
いぶかしむ間もなく、さらに人は増える。
通りにこだまするのは悲鳴と怒号。
人々が逃げ惑っていた。
まるで何かに追われるように。
それを通りの端へと逃れ、観察した。
意味を成さない喚きの中に、いくつかの単語が聞き取れる。
化け物。
犬が。
助け。
死んだ。
明らかに街の中で耳にするには異常過ぎる単語が混じっていた。
ただの事件などではありえない。
しかし、それを聞いても、俺には何を言っているんだ?と奇妙な気持ちを抱くだけだった。
街に化け物が出た。
それはつまり魔物の事だろうか?
街に魔物が出るはずが無い。
それこそ、俺が操りでもしない限りは。
まるで飛び込んでくるように駆ける人々を躱しながら通りを進む。
どれだけ馬鹿らしい事だとしても、それを確認しない訳にはいかない。
可能性として考えられるのは、何か魔術を使った人間がいるのかもしれない。
大勢の人に幻覚を見せるような、そんな特殊な魔術を。
そう考えつつも、進んで行くと、急に人の流れが途絶えた。
ぱたりと。
まるでそこだけ空洞になったかのように。
不意に、あの迷宮で左目を失った時を思い出した。
そこだけ静かで、何か大事な事から取り残されてしまったようで。
魔獣。
そこにそれがいた。
ブラックドッグ。
決して街中で出会うはずの無い魔物の姿がそこにある。
一見すれば黒い犬でしかない。
よく見れば、それは間違いであると知れる。
何しろ大きい。
普通の犬の倍くらいはある。
そしてその筋肉の付き方は、ごつごつとした岩を連想させるような異様な盛り上がりを見せている。
その犬がしきりに頭を振って、くわえた何かを振り回していた。
何かは赤い雫をあたりに撒き散らしている。
それは人の頭のようだった。
飛び跳ねる赤い雫の合間にどろりと白い何かが溢れているのが見える。
街の至る所にあった水たまり、それがその場所だけ色が違う。
それはどす黒く染まっていて、街の埃と血が混じり合った不気味な赤だった。
周囲には倒れ込んでいる人の姿。
生きているのか、死んでいるのか。
それを確認する間は無かった。
黒犬はくわえていた人の頭を振り回すのに飽きたのか、投げ捨てるようにその口から放る。
そして、俺を見た。
真っ赤に血走った目で。
目が合い、確信する。
これは幻覚などではない。
ポシェットを開け、中にいる1匹の蜂へとコードを繋ぐ。
自身の中で最も早く編み上げられる魔術を半ば無意識に選んでいた。
コードを編み上げる間にも、魔獣は真っ黒な砲弾と化すように、駆け出している。
速い。
それはゴブリンなどとは比べ物にならない速さで俺へと迫る。
編み上げるのに時間の掛かる攻撃魔術を選んでいたら間に合わなかったであろう速さで。
胸の内に隠していたナイフを抜く。
それはゴーレムから受け取った、あの黒錬鋼のナイフ。
今持てる装備はこれですべてだ。
まさか街中でこんな物騒なのと戦う事など想定しているはずがない。
ザジも、マイアも、ドラグノフも無い。
黄錬鋼の剣も無い。
着ている服は何の防御力も持たない綿のそれで、魔獣の足から伸びる凶悪な爪や牙の攻撃に耐えられるはずが無い。
俺が飛ばした蜂は黒犬の頭へとへばりつき、すぐさま尾に仕込まれた毒針を突き刺す。
毒針を受けても黒犬は止まらなかった。
魔獣というのは伊達じゃない。
毒に対する抵抗力は人とは比べ物にならない。
効いてくればやがては動きを鈍らせ、そして動きを止められるだろう。
ただ、今の状況でそれを待つだけの余裕は無かった。
既に黒犬は俺の目の前へと至っている。
黒犬は、俺の目前で跳んだ。
加速し、跳躍した黒い砲弾、それを横に転がりなんとか躱す。
そこに新たな脅威が襲いかかる。
黒犬は地へと着いた瞬間に、頭をこちらへとひねるように向け、その真っ赤な口を開いた。
「ちっ」
炎。
真っ赤な放射状の火炎が俺へと迫り来る。
ファイアーブレス。
黒犬が持つ、厄介な能力。
コードにすらなっていない魔力の糸を吐き散らし、燃え上がらせるだけの炎はきちんとした装備に身を包んでいれば脅威には成り得ない。
熱気に瞬間耐えればそれで済む。
しかし、今の俺には相当な脅威だ。
服が燃え上がれば戦闘どころではなくなってしまう。
地面を転がり炎の奔流を避けた。
手にしていたナイフの先に触れた炎が吹き消されたように虚空で消える。
それを視界の端で捉えて、ゴーレムから受け取ったこのナイフの真価に気付いた。
このナイフはただのナイフではない。
炎を吐き切ると、黒犬は吠え声を上げる。
高く、遠く。
仲間を呼んでいる。
判断した瞬間、背筋が凍る。
つまりは仲間がいる。
群れで襲ってきている。
壁に守られ、人の勢力圏内である都市の中に。
それもポラリスの支柱たる4国のひとつである、このスバルの中に。
「馬鹿な!」
上げた叫びに黒犬がこちらを向いた。
女郎蜂はいまだ黒犬にがっちりと組み付いている。
そして幾度も刺し続けている。
黒犬は時折、首を振るっては振り落とそうとしていたが、顎と四肢でしっかりと組み付かせた女郎蜂は振り落とされる事無くしがみついている。
やっと毒が効いてきたのか、黒犬は俺を睨んだまま、不意にがくりと前足の膝を折った。
立ち上がり直そうとして、またがくりと膝が落ちる。
体全体が震え始めていた。
それを確認して走る。
毒が完全に回り切るのを待ってはいられない。
こいつの仲間がどれくらいいるのかは知らないが、こんなのを何頭も相手にするには明らかに武装が足りない。
走り寄る俺を迎撃するために黒犬は真っ赤な口を開いた。
炎が奔流となって押し寄せる。
俺はそれに向かって手にしたナイフを一閃した。
魔力の糸が切り裂かれ、炎はかき消したように色を失う。
魔術をはねのけ、無へと返す黒い刃は炎を切り裂く。
そして俺は跳んだ。
未だ残った炎を飛び越え、自らを飛翔する1本の矢へと変えて突き出された刃は、黒犬の鼻のやや後ろへと突き立つ。
力づくで閉じられ、縫い止められた口からは不発気味に幾筋かの火を一瞬だけ走らせて消えた。
そのまま頭をおさえこむように抱え、刃を抜き、再び首筋へと突き入れる。
吹き出した血にまみれながらもおさえこみ続けると、黒犬はびくりと大きく震える。
震えはやがて静かになっていき、そしてそのまま息絶えた。
抱え込んで、ひとつの事に気付いた。
いつ、黒犬の仲間が現れるとも限らない状況でも、確認する。
この犬は何の臭いもしない。
血で鼻が麻痺している訳じゃない。
血とは別にあるべき臭いが、この魔獣にはない。
嫌な予感。
巨大種の元では魔物は臭わない。
この黒犬のように。
蜂を回収し、黒犬から離れ、細い通りを抜けて走り去る。
懐からインカムを取り出しつつ。
「聞こえるか?オペレーター?いないのか?」
幾度か呼びかけても、何の返事も無い。
不測の事態が起きていた。
自らの判断で行動しなくてはならない。
彼方からは悲鳴と怒号が響く。
街の至る所から。
いつか見た光景だった。
俺がゴブリンを引き連れて、王の暗殺へと向かった時に見た光景。
魔物に怯え、逃げ惑う人々。
混乱が街を支配し。
それは最初のあの任務にとても似ていて。
「ディー、聞こえますか?ディー?」
不意にインカムからオペレーターの声が響く。
「ああ、聞こえている。これは何だ?何が起きている?」
重ねた遠い記憶を振り払い、思わず報告よりも先に尋ねていた。
「スバル国内の全銀星門から魔物が溢れ出しました」
「な」
有り得ない。
有り得ないはずだ。
口にしかけて、閉じる。
目の前に、現に魔物は現れている。
幻覚などではない。
「現在の所は原因は不明。全レギュラーは魔物をただちに討伐してください」
「何にせよ、装備が必要だ。今の状態じゃ何とも出来ない。今は五更区の南通り、xx地点にいる。すぐに装備を送ってくれ」
「現在、金星門の使用は禁じられております」
「何を馬鹿な事を。魔物が出てきたのは銀星門なんだろう?金星門は関係ないはずだ」
同じ門でも、金と銀とでは構造がまるで違うはずだ。
それは俺が直接コードを見てきたから分かる。
今回、おかしくなったのは銀星門であって、金星門までおかしくなった訳では無いだろう。
「今の状態で連中に囲まれたら、どうにも出来ない。何とか室長につないでくれ。頼む」
オペレーターはしばらく黙ったままだった。
やがて、ぽつりと呟くような声がインカムから俺の耳へと届く。
「分かりました。少しの間、耐えてください」
「頼む。少し移動する。用意が出来たら言ってくれ。良いか、送って欲しいのは……」
装備のリストをオペレーターに伝えると、すぐに手近な建物の扉を破り、中へと入った。
最初は何事かと窓から顔を出していた街の住人たちの姿は今はもうない。
逃げだのか、閉じこもったのか。
入った建物は工場のようだった。
鉄とオイルの臭いが充満している。
そこに人の姿は無かった。
適当な機械を動かして、扉を塞ぐ。
後はただ、息を殺して時を待った。




