第4話:重なる残像、破られた静寂
翌朝。昨夜の濃密な空気とは対照的に、リビングには抜けるような朝の光が降り注いでいた。
「おはよう、シラユキ」
「おはよう、ヒビキ。……昨日、ありがとうね」
「何もしてないよ。よく眠れた?」
「うん。あのあとは急に眠くなって……気づいたら朝だったよ」
昨日よりもずっと自然な距離感。
言葉を交わすときの緊張は、もうほとんど消えていた。
響は冷蔵庫から保冷バッグを取り出し、テーブルに置いた。
「俺、学校があるからもう行かなきゃだけど。シラユキはどうする?
この家、自由に使ってくれていいからさ」
「ごめんね、迷惑かけて……。でも、本当に助かる」
「母さんとも約束したしな。
……これ、シラユキのお弁当。冷蔵庫に入れておくから、お腹が空いたら食べて」
「魔法のお弁当……」
「魔法なんて使ってないって」
電子レンジの使い方や、インターホンの応対についてのレクチャー。
現代の機械に目を丸くする彼女を残して、響は玄関の扉を開けた。
「じゃ、行ってくるね」
「うん。いってらっしゃい、ヒビキ」
扉を閉めた瞬間、響の胸の奥が少しくすぐったくなった。
――誰かに「いってらっしゃい」なんて言われたの、久しぶりだな。
そんな小さな変化を噛み締めながら、響は駅へと急いだ。
◆
一方、響の学校。
移動教室のため、ダルそうな顔で廊下を歩いていた響は、ふと、奇妙な感覚に襲われた。
――誰かに、見られてる?
背筋を走る冷たい視線。だが、振り返ってもそこには誰もいない。
気のせいかと思い直した瞬間、渡り廊下の向こうに、アヤの姿を見つけた。
――あ、アヤちゃん……
思わず視線をロックオンしてしまう。
けれど、アヤはこちらに気づかないまま別校舎へと消えていった。
――アヤちゃん、何の選択授業だっけ?
ふとした疑問が頭をかすめたが、チャイムの音がそれを強引に押し流した。
美術の授業中。
キャンバスに筆を走らせながら、友人のユーキがヒソヒソと話しかけてくる。
「なー、ひーちゃんさ。昨日メッセージ送ったのに未読無視のまんまじゃん。何かあった?」
「ユーキ、お前は響のメンヘラ彼女かよ」
もう一人の友人、ショウが呆れたように突っ込む。
「あ、わりぃ。昨日ちょっとドタバタしててさ」
「そこ、三名!
集中できないなら出ていきなさい」
先生に一喝され、三人は慌てて筆を動かした。
昼休みの食堂。
自作の弁当を広げる響を、ユーキとショウがじっと見つめる。
「……で、本当は何かあったろ。ひーはすぐ顔に出るからな」
「いや、何もねーよ。……ただ、ちょっと、説明しづらいことがあってさ」
――鏡から美少女が出てきて、俺の家でカレー食ってるなんて、誰が信じるんだよ。
口を噤む響に、ユーキは「無理には聞かねーけどさ」と、うどんを啜った。
「何かありゃ言えよ」
「ユーキ、ショウ……サンキュ」
友達っていいな、なんて小学生みたいな感想を抱きながら、響は卵焼きを口に運んだ。
◆
がらんとした響の家。
シラユキは、深い、深い眠りの中にいた。
目的のために動かなければいけない。
けれど、鏡を使った反動なのか、体が泥のように重い。
――「カギ」を探し出さなきゃいけないのに……
思考にモヤが立ち込め、座っているのもしんどくなる。そして彼女の意識は、再びあの場所へと堕ちていった。
――視界の悪い、霧に包まれた世界。
あぁ、これは、夢だ。
明晰夢であると理解しながら、体は決められたシナリオ通りに橋の上へと向かう。
――そっちに行っちゃいけない
……行きたくない!
強い拒絶感とは裏腹に、足は止まらない。霧が濃くなる。不安が膨らむ。
橋を渡りきった先――そこに、一人の少女がいた。
五歳くらいの、幼い日の自分。少女は地面を見つめて、シクシクと泣いている。
シラユキは、抗えない力で台詞を口にさせられる。
「どうしたの?」
――言いたくない! 聞きたくない!
少女シラユキが、顔を上げた。
「……たの」
声が重なる。
「……殺し……たの」
―――ピンポーン。
そのチャイムが、地獄のような静寂を打ち破った。
シラユキは飛び起きるように意識を引き戻される。
荒い呼吸のまま、インターホンのモニターに目をやった。
そこには、響の顔があった。
「あ……ヒビキ!」
恐怖から救い出してくれる光。
シラユキは「インターホンに出るな」という約束を忘れ、思わずドアを開けていた。
「ヒビキ、おかえりなさい!」
安堵から、満面の笑みを浮かべるシラユキ。けれど、響の顔は……見たこともないほど、強張っていた。
「あの……ごめん。連れてきちゃいけない人だったのかもしれないけど……」
響の背後。
そこには、シラユキにとって最も馴染み深く、そして今、最も恐ろしい青年が立っていた。
「……ッ!? どうして、ここに……」
シンピ。
オレンジ色の髪を揺らし、目の奥だけが氷のように笑わない、歪んだ笑みを浮かべて。
「お迎えに上がりましたよ。――シラユキ」
夕闇の迫る玄関口で、
幸せな日常の扉が、音を立てて閉ざされた。




