第3話:食卓の魔法と月下の予感
カレー鍋から立ちのぼる湯気の向こうで、響はひとり、思考の海に沈んでいた。
――煮込み具合、こんなもんか。
本当は牛すじ派だけど、今日は時短で豚こま様だな。
物心ついた時から、響にとってキッチンは自分の居場所だった。
父は、彼が小学校に上がる前に病で亡くなっている。記憶はほとんどないが、母が今でも「あの時、お父さんってばさ……」と、まるで隣の部屋にいるかのように語るのを聞いて、いい親父だったんだろうな、と想像する。
母は再婚もせず、女手一つで響を育ててきた。
現役バリバリの看護主任。
それを自慢はしないが、その背中からは仕事への誇りが静かに伝わってくる。
――母さんは、父さんの役割まで背負って頑張ってくれた。だから、俺にできることくらいは……
そんな思いから、いつの間にか家事の多くを担うようになっていた。
――にしても、今日。
これ、夢じゃないよな?
自分の頬をつねってみる。痛い。
「夢じゃない」という証拠が、ソファで眠る少女の圧倒的な存在感としてそこにある。
――家出少女?
未成年だし、通報されるか?
でも他に頼れる人もいないし……
逡巡がぐるぐると頭を巡る。その時だった。
「う、ん……っ」
微かなうめき声。シラユキが寝苦しそうに、浅い呼吸を繰り返している。
ふと心配になり近づくと、彼女の閉じた瞼から、ひと筋の涙が溢れていた。
「あ……」
思わず声が漏れる。
「だ、大丈夫!?」
シラユキがゆっくりと目を開ける。
「あなたは……?
あ、ヒビキ……。私、寝てました?」
「ごめん、起こしちゃったかな。でも、何か嫌な夢でも見てるみたいだったから……」
「夢……。そう、夢だったのですね。
なんだか、懐かしい夢を……」
少女は寂しげに微笑み、それ以上は語らなかった。
「……あっ、もうすぐカレーできるよ。お腹空いてない?」
「カレー? お腹は……」
ぐぅ、と可愛らしい音が響く。
シラユキは顔を赤くして俯いた。
「よし、食べていけ!
我が家特製のカレーだ。今、母さんも起こしてくるから」
◆
奥の部屋から、バタバタと騒がしい声が聞こえてくる。
「ひーちゃん、もうちょい寝かせてって言ったじゃーん!」
「母さんが十九時に起こせ、カレー食わせろって言ったんだろ!」
「んなこと言ったっけ……?
って、ちょっ、ちょい待ち!
美少女、いたんだった……!」
寝癖もそのままに飛び出してきた母に、シラユキは居住まいを正して頭を下げた。
「改めまして。母様、シラユキと言います。
……もしよろしければ、しばらくこちらに置いていただけないでしょうか」
その真剣な眼差しに、響の母は一瞬、呆然と固まる。
「……かあさま。母様……カアサマ。
え、美少女の母に、私が!?」
恍惚とした表情で「カアサマ」のリフレインに酔いしれる母。
響は呆れて溜息をつく。
「……ゴホン」
母はふと正気に戻ると、シラユキの目を真っ直ぐに見つめた。
「シラユキちゃん。言ったでしょ、家族だって。これも何かの縁よ。よろしくね、ムスメ」
「……! ありがとうございます!」
「ただね、一つだけ大事なことを聞かせて」
急に真剣な顔になる母。響も身を構える。
「あなた……カレーは『らっきょう派』? それとも『福神漬け派』?」
「……え?」
「らっきょ? ふくじん?」
困惑するシラユキに、響が慌ててスプーンを差し出した。
「ほらシラユキ! あったかいうちに食べて」
張り詰めていた空気が、一気に弾けた。
「……アハハハ!」
シラユキが声を上げて笑い出す。
「やっと笑ったわね」
母が、優しく目を細める。
「どこか張り詰めてたから、心配したわ。ここには、あなたのことを傷つけるやつなんていないのよ。
まずは、お腹いっぱい食べなさい」
シラユキの目には、先ほどとは違う温かな涙が浮かんでいた。
◆
三人が食卓を囲む。
どこか妙な緊張感(と母の熱視線)が走る中、シラユキは一口、カレーを口に運んだ。
一瞬、止まる。
目の中に薔薇色の光が宿った。
そこからは無言だった。
王女としてのマナーを崩さないまま、けれど猛烈な勢いでスプーンを動かしていく。
皿が空になったとき、彼女は感極まった声で叫んだ。
「ヒビキ、あなたは魔法使いなの……!? こんなに美味しい料理、生まれて初めて食べました」
「え、大袈裟だよ……」
「アタシの息子だもの、このくらいの魔法は当然よ!」
なぜか自分の手柄のように胸を張る母に、響は「母さんが作ったわけじゃないだろ」とツッコミを入れる。
「母様とヒビキは、本当に仲が良くて素敵ですね」
――別の世界が見えてるのかな、
この子には。俺、今さっき母さんにどつかれたんだけど。
女子トークに花を咲かせる二人を遠目に、響は洗い物を始める。
――妹がいたら、こんな感じなのかな……
ふと、その横顔を盗み見る。
――けれど。
やっぱり、アヤちゃんに似てる……。髪も目も違うのに、空気感が。どうしてだろう。
◆
夜勤に向かう母を送り出し、家の中には静寂が戻った。
母は出際、響にだけ聞こえる声で囁いた。
「……ひーちゃん、あのシラユキちゃん、何かを怯えてる気がするわ。守ってあげなさいね」
「……分かってるよ。このひ弱な腕で何ができるか知らないけどさ」
深夜。ふと目を覚ました響は、キッチンへ水を飲みに行った。
真っ暗なリビング。
青白い月明かりに照らされて、シラユキがぽつんとソファに座っていた。
コトン。
ホットミルクを置くと、彼女は肩を揺らして振り向いた。
「……眠れないのか?」
「あ、ありがとう。……えぇ、少しだけ」
「砂糖、サービスしといたから」
一口飲んだシラユキが、寂しげに、けれど幸せそうに笑う。
「ヒビキは、人の心を温める魔法も使えるのね」
「また大袈裟な。……ただ、夕飯の時より、寂しそうに見えたからさ」
響は少し躊躇してから、続けた。
「帰り方、分からないって言ってたけど。本当は、帰りたかったり……あるいは、帰りたくなかったりするのかなって?」
「……ヒビキ。何も聞かずにそばに置いてくれて、本当にありがとう」
「いいって。母さんも気に入ってるし。それに……俺も、シラユキが隣にいると、なんだか居心地がいいんだ」
「……居心地?」
「ああ。初めて会った気がしないっていうか、懐かしいっていうか。……あー、ごめん、変なこと言った! 俺もう寝るわ! おやすみ、また明日な」
逃げるように自室に戻る響。
シラユキはその後ろ姿を、いつまでも月光の中で見つめていた。
胸の中にある、懐かしさ。
あの日、鏡に願ったことを、彼女はもう一度反芻する。
――カガミよカガミ……
私に、力を貸して。
――『あのコ』を、助けるための、力を。
シラユキが救おうとした、
鏡の向こうの少年。
その記憶が、月光に溶けていく。
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