六、 格子窓のカルテ
三、格子窓のカルテ
ある雨の夜、坪牢の裏手に、蓑をまとった滝の姿があった。
川島屋の回した金によって、その時間の看守たちは一斉に便所へ行くか、居眠りを決め込んでいた。
滝は泥にまみれながら地面を這い、坪牢の丸太の格子の隙間に顔を近づけた。中からは、カビと汗と、死を待つ者の腐臭が漂ってくる。
「……進。進、いますか」
低く、けれど確かな声。
牢の奥で、熱に浮かされていた進は、その声を幻聴だと思った。
しかし、格子の隙間から差し込まれたのは、竹の皮に包まれた、香ばしい胡桃味噌の匂いがする大きな団子であった。それは、幼い頃から母が誕生日のたびに作ってくれた、あの団子だった。
「母上……! 母上なのか……!」
進が泥だらけの手で格子にすがりつく。その顔は、暗闇の中でも分かるほど痩せ細っていた。
「声を大きくしてはなりません、進」
滝は、格子の隙間から進の手を固く握りしめた。その手は、冷たくて今にも折れそうだったが、まだ確かに脈打っていた。
「団子を食べなさい。中には、熱を下げる薬草を練り込んであります。他のみんなにも分けなさい」
「母上、ごめんなさい、ごめんなさい……。僕は、遠藤家を大きくするどころか、国賊になってしまった。母上にまで、こんな慘めな思いをさせて……」
進は、団子に涙を落としながら、声を殺して泣いた。
「馬鹿なことを言うものではありません」
滝の声には、微塵の揺らぎもなかった。
「名誉だの、忠義だのというものは、上が作った都合のいい数字に過ぎません。
あなたが生きていること、それだけが、この遠藤家の唯一の財産です。
いいですか、進。
藩があなたたちを殺そうとするなら、私はあらゆる手を使って、あなたたちを生かします。
死んではなりません。生きて、この牢を出て、あの吉田川の光をもう一度見るのです」
進は、母の放つ圧倒的な「生への意志」を、その手の温もりから全身に吸い込んだ。
藩というシステムは自分たちを捨てた。
しかし、この母という、もう一つの絶対に裏切らないシステムが、自分たちを支えている。
それから一年以上の間、滝の「命がけの差し入れ」は一日も欠かさず続けられた。
ある時は、番兵の交代時間を買い取り、ある時は配給の米の質を上げるための交渉を商人と行い、滝は坪牢の若者たちの「生存カルテ」を頭の中で管理し続けた。
世間の冷たい目は相変わらず続いたが、滝にとっては、進の呼吸の音が聞こえることだけが、すべての収支決算の黒字を意味していた。
明治三年(一八七〇年)の秋。
時代の激動がようやく落ち着きを見せ、新政府からの最終的な処分が藩に下った。凌霜隊の若者たちに対する「一斉赦免(釈放)」の沙汰である。
坪牢の重い丸太の扉が、ついに取り外された。
這い出てきた若者たちは、誰もが痩せこけてはいたが、驚くべきことに、四十五名のうち、坪牢で命を落とした者は、ついに一人もいなかった。
地方の小藩の冷酷な計算(餓死のシステム)は、一人の母が仕掛けた、泥臭くも完璧なロジックの前に、完全な不渡りを出して敗北したのである。
眩しい秋の光の中で、進は、出迎えた母・滝の姿を見つけた。
滝の髪には、いつの間にか多くの白いものが混じっていたが、その背筋は、郡上八幡の城の石垣よりも、真っ直ぐに、凛と伸びていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
凌霜隊の戦後は、日本の組織が持つ「トカゲの尻尾切り」の典型例です。
しかし、彼らが過酷な坪牢から誰一人欠けることなく生還できたのは、歴史の帳簿には載らない「母たちの命がけのロジスティクス」があったからに他なりません。
組織の正論や時代の流行は移ろいますが、一人の人間を「生かす」という切実な個の意志だけは、いつの時代も変わりません。
郡上の霧の向こうにある、その普遍的な強さが皆様に届けば幸いです。
「本書(本作品)はフィクションです。作中に登場する人物、団体、名称、地名、事件などはすべて架空のものであり、実在するいかなる対象とも一切関係ありません。また、特定の思想・信条・宗教を支援または誹謗中傷する意図はございません。」




