第1話 解消のお申し入れ
三の四。三の五。三の六。
侍女の足音が扉の前で止まったとき、わたくしは壁の棚札を数えている途中でした。三の七はありません。十年前から、ありません。ですから三の八へ飛びます。
「お嬢様。若様が応接室でお待ちでいらっしゃいます」
参ります、と申し上げて、わたくしは指を止めました。数えかけの列は、あとで頭の中で継ぎ足せます。この十年、ずっとそうしてまいりました。
書庫を出るとき、扉の内側の掛け金を上げておきました。ここの掛け金は、建て付けが悪うございます。下ろしたまま冬を越すと、木が膨らんで開かなくなります。三年前に一度、そうなりました。大工を呼びましたのは、わたくしです。呼んだことを、どなたもご存じありません。
◇
応接室の扉を開けると、エドウィン様は立ったままでいらっしゃいました。腰を下ろさないほうが短く済むと、お考えなのでしょう。わたくしも同じことを考えておりましたので、先に申し上げました。
「婚約を、解消いたしましょう」
エドウィン様の口が、何かを言いかけた形のまま止まりました。
窓の外で庭師が薔薇の枝を落としております。鋏の音が二度。それから間があいて、また二度。
「……ラヴィニア」
「はい」
「その話をするつもりで、来てもらったんだ」
「存じております」
「なぜ」
「第二棚の、第百十一項でございます」
エドウィン様は、意味の分からないものを聞いたお顔をなさいました。
「モーガン侯爵家との縁組の覚書でございます。日付は、昨年の霜月十日でございました」
鋏の音が止まりました。庭師は薔薇の前で、次に落とす枝を選んでいるのでしょう。あの人は、迷うときに手を止めます。
「……あれは書庫に置いてあっただけだ」
「書庫にございましたので、目録に入れました。目録に入れるのが、わたくしの仕事でございます」
「読んだのか」
「控えましたのは、三月の十四日でございます。そのときは、日付と表題だけ拝見しました。目録に要りますのは、表題と日付と棚の番号だけでございますので」
「では中は」
「読みましたのは、先月でございます」
「……なぜ、先月」
「三の七を探しておりました。見つかりませんでしたので、二の棚を端から見返しました」
エドウィン様は、そこで初めて椅子にお掛けになりました。掛けてから、掛けたことを後悔なさったように見えました。
「悪いと思っている」
「いいえ」
「父も母も君には世話になった」
「いいえ」
「本当だ。君は、その、よくやってくれた」
よくやってくれた。この言葉を、わたくしは十年ぶんためております。数えたことはございません。おそらく、四十回は超えておりません。
「エドウィン様」
「なんだ」
「書庫の目録は持って参ります」
「……目録」
「はい」
「書庫の、ということは、うちの」
「わたくしの紙に、わたくしが書いたものでございます」
エドウィン様は、少し笑われました。悪意のない笑い方でした。この方にはいつも悪意がございません。
「君は本当に、本が好きだね。——君の、趣味だろう」
わたくしは頷きました。頷いてから、頷くべきではなかったと思いました。けれど否と申し上げたところで、十年は戻ってまいりません。
「三百年分ございます」
「なにが」
「家史と証文と系図でございます。この書庫にあるものを、四千三百十八の項目に分けて控えてございます」
エドウィン様は、それがどれほどの量なのか量りかねているお顔をなさいました。四千三百十八という数は、聞いても大きさが分かりません。わたくしも、三千を越えたあたりで分からなくなりました。
「その控えを持っていくと」
「はい」
「どうして」
「わたくしのものだからでございます」
申し上げてから、これでは足りないと思いました。ですのでもう一言だけ添えました。
「書庫の本は一冊も持ち出しません。棚も燭台も梯子も置いて参ります。持って出ますのは、わたくしが自分の紙に書いた束だけでございます」
「……ああ」
「ですからどうぞご心配なく」
エドウィン様はようやく安心なさったお顔をなさいました。本が減らないのなら構わないと、お考えになったのが分かります。
訂正はいたしませんでした。訂正の要る話ではございません。目録は本ではございませんし、本の数をお気になさる限り、この方がお困りになることは何もございません。
◇
廊下の突き当たりに書庫の扉が見えます。掛け金は上げたままでございます。
この十年、あの扉の向こうへ入られた方は三人でございます。わたくしと、掃除の者と、大工が一度きり。
梯子は、三段目が鳴ります。北の窓は、隙間風が入りますので、七の棚だけ壁から指二本ぶん離してございます。離した理由を書いた紙は、目録の巻末に挟んでございます。
挟みましたのは、八年前の冬でございました。あの冬に紙の縁が波打って、系図が三枚だめになりました。だめにしたのは隙間風でございます。気づかなかったのはわたくしでございます。ですから理由を書きました。次に気づく方が、同じ三枚をだめにしないように書きました。
その次に気づく方がどなたなのかは存じません。
十年のあいだ、わたくしはこの扉を朝に開けて夕に閉めました。開けた回数は控えておりません。控えるほどのことではないと思っておりました。
わたくしは扉を閉め、掛け金を下ろさずに手を離しました。冬までにはもう、わたくしがここに参りません。
◇
夕刻、荷を積み終えた頃に、家令のハーヴィーが玄関の脇へ参りました。この方は用件を三つに畳んでから口を開く癖がおありです。
「お嬢様。若様より伺っております」
「はい」
「書庫の目録はどちらに」
「持って参ります」
ハーヴィーはわたくしの腕の中の束を見ました。革の表紙もついておりません。紙を重ねて、麻紐で二箇所くくっただけの束でございます。厚みは指を三本ひらいたほど、重さは水を汲んだ手桶ひとつぶんほどでございました。
「……それが」
「はい」
「四千と、三百と」
「十八でございます」
ハーヴィーはしばらく黙っておりました。この方が黙りますのは、数が合わないときだけでございます。それから丁寧に腰を折りました。
「奥様に、お伝えいたします」
◇
門を出るとき、御者が荷の紐を締め直しました。荷は行李が二つと、鞄が一つでございます。目録は行李に入れず、膝の上に置きました。行李は雨で湿ります。膝の上なら、湿りません。
(目録より)第三棚 第四項 棚札 三の一より三の九まで。三の七は欠。
持って出ましたのは本ではなく、本の在処を書いた紙でございます。棚も燭台も梯子も置いて参りましたので、公爵家の蔵書は一冊も減っておりません。減っていないのに、どなたにも何も見つかりません。十五話ぶん、すでに数え終わってございますので、途中で止まることはございません。次回、公爵夫人が手袋をお取りにならないまま、四千三百十八項目を端からお繰りになります。――ブックマークと評価は、わたくしが一件ずつ数えてございます。数えるのは、得意でございます。




