表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/14

第1話 雨の夜の拾い物

 私はヴァルディア。


 1200年を生きた魔王だ。


 はずだった。


 足元が、ぬかるんでいる。


 両手をついてそれに気づいた。掌に泥が絡みつく。1000年以上、地に膝をついたことは一度もなかった。謁見の間の床でさえ、私が踏むために存在していた。なのに今、私は森の中で四つん這いになって雨に打たれながら、泥の上に倒れている。


 何かがおかしい。


 いや、おかしいのは分かっている。問題は、何がどうおかしいのかを把握しきれていないことだ。


 まず、手が小さい。異様に小さい。泥の上についているそれは、私の記憶にある手とまるで一致しない。指が短く、爪も薄く、まるで子供の——


 子供。


 頭の中で、何かがかちりと合わさった。


 勇者に撃滅された。あの光の中で魂が砕けるような感覚があって、それから長い長い暗闇があって、気づいたら雨の降る森の地面に顔を埋めていた。転生だ。摂理通り、私は転生した。ただし想定とは大きく異なる形で。


 腕に力を入れて、上半身を起こそうとする。


 腕が言うことを聞かない。震えている。この体の筋力が、私の意志についてこられていない。


 もう一度。


 今度は膝を使い、なんとか上体を持ち上げた。雨が顔を叩く。木々の向こうに月は見えない。どこもかしこも暗く、濡れていて、冷たかった。魔力を探ろうとして・・・何もなかった。あるにはある、が、ほとんど感じ取れないほど薄い。指を動かすたびに手袋の中で空振りするような、そういう手応えのなさだった。


 私は、幼女になっていた。


 それだけは把握できた。


 立ち上がろうとして、また転んだ。足が短すぎる。重心の位置が体の記憶と合わない。3度目の試みでようやく立てたが、膝が笑っていた。笑うな、と思ったが膝は聞かなかった。


 どこへ行く、という問題が次に来た。


 魔王城は北にある。ここがどのあたりかも分からないが、この体でたどり着けるとは思えない。魔族の残党に接触することも、今の状態では不可能だ。魔力がなければ私だと証明する術がない。幼女が「私が魔王だ」と言ったところで、笑われるか、あるいは哀れまれるかのどちらかだろう。


 屈辱だ。


 屈辱という言葉では足りないかもしれないが、今は他の言葉が見つからなかった。


 足を踏み出す。ぬかるみが足首を引こうとする。振り払って、また踏み出す。どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ木々の間を歩いた。雨は強くなっていた。体が冷えている。これほど寒いと思ったことは、今まで一度もなかった。


 どのくらい歩いたか。


 前方に、光が見えた。


 小さな光だった。揺れていない。窓から滲んでくる、動かない光だった。人の家がある。集落の外れか、あるいは一軒だけ離れて建っているのか。近づくにつれ、木造の建物の輪郭が雨の中に浮かび上がってきた。


 助けを求めるか。


 私が、人間に。


 葛藤は2秒で終わった。足が限界だった。膝が地面につく前に、なんとかその家の壁に手をついた。ずるずると座り込む。軒から雨が糸を引いて落ちていた。それを眺めながら、私は意識を手放した。



 最初に感じたのは、熱だった。


 顔の右側が、温かい。


 目を開けると、木の天井があった。見慣れない。知らない場所だ。体を起こそうとして、腕に何かが触れた。毛布だった。粗末だが、厚みのある毛布が、肩まで引き上げられていた。


 誰かがここに運んだ。


 私を。


 部屋を見回した。質素な造りの部屋だった。テーブルが1つ、椅子が2つ、棚が1つ。飾り気がない。窓の外はまだ暗かったが、雨は幾分か弱まっていた。壁際に炉があって、そこに火が入っていた。部屋の空気はぬるく乾いていた。


 部屋の隅に、人がいた。


 椅子に座って、こちらを見ていた。


 大きな男だった。座っていてもそれが分かる。黒い髪、灰色の目。顔中に傷がある。笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ、見ていた。


 どのくらい黙っていたか。


「起きたか?」


「……私を、運んだのか?」


「軒先で倒れてた」


「そうか」


 また黙った。男は立ち上がり、棚の方へ歩いた。何かを取り出して、こちらへ戻ってくる。湯気の立つカップだった。テーブルに置いて、男は椅子に戻った。


 私はカップを見た。男を見た。カップを見た。


「毒は入っていないか?」


「入ってない」


「なぜそう言い切れる」


「俺が淹れたから」


 論理になっていないが、男の声に嘘の気配はなかった。私は毛布をはねのけて、テーブルまで歩いた。カップを両手で持つ。熱い。中身はただの湯だった。薬草も何も入っていない、ただ温めただけの湯。


 飲んだ。


 喉の奥が焼けた。それだけだった。


「名前は?」


 男が聞いた。


 答えられない。本名は言えない。そもそも偽名など考えていなかった、転生してから今まで、そんな余裕は——


 黙っていると、男は少し考えるような間を置いて、言った。


「じゃあ、ディアでいいか」


 私の名は、ディアブラ・ヴァルディアという。


 ディア。


 貴様、今なんと——怒鳴ろうとして、口を開いた。開いたが、出てきたのは「……」だけだった。幼女の喉と舌が、私の怒りに追いついてこなかった。歯を食いしばった。歯が小さかった。それがまた腹立たしかった。こんなに歯が小さくて何が食いしばりだ、という話だ。


「……好きにしろ」


 男は頷いた。


「俺はアレン」


 アレン。


 その名前は知っている。忘れようとしても忘れられない名前だった。私を亡ぼした勇者の名前だ。今まさに、その男の家に転がり込んで、湯を飲んでいる。


(……策略が必要だ。長期的な。今ここで何かをするのは愚策だ)


 私は湯を飲み続けた。アレンはもう何も言わなかった。


 カップが空になった。


 眠かった。幼女というのは、どうやら燃料の消耗が早いらしい。毛布の方に引き返して、横になった。アレンがこちらを見ているのは気配で分かったが、どうすることもできなかった。


 目を閉じる直前、ふと気づいた。


 毛布が、さっきより肩まで引き上げられている。


 自分でそうした記憶はない。


(……)


 続きは、出てこなかった。



 朝になっていた。


 目を覚ますと昨夜よりずっと明るかった。窓から白い光が差し込んでいる。雨は上がっていた。アレンの姿は部屋になく、代わりに食卓の上に皿が置いてあった。パンと、何かの煮たもの。湯気はもうなかったが、まだ温かかった。


 私のために置いたのだろう。


 この男は、拾った子供に毛布をかけ、朝食を用意する。それだけのことを、何の疑問もなく、あるいは何かの意図もなく、ただやる。


(……利用できるかもしれない)


 腹が鳴った。


 私は椅子に座り、皿を引き寄せた。パンをかじった。固かった。煮たものはよく分からない根菜で、味は薄かった。しかしどちらも、温かかった。


 外から扉が開く音がして、アレンが入ってきた。手に泥がついていた。私が食べているのを見て、特に何も言わなかった。水を汲んできて、手を洗った。


「食えるか?」


「……食える」


 アレンは棚から自分の分のパンを取り出して、立ったまま食べ始めた。私が椅子を使っているから、自分は立つのだと、そういうことらしかった。


 私はパンを見た。


 アレンを見た。


 パンを見た。


「椅子、もう一脚あっただろう?」


「あるな」


「使えばいい」


 アレンは少し考えて、もう一脚の椅子を引いて座った。テーブルを挟んで向かい合う形になった。お互い黙ったまま、パンを食べた。


 遠くで、鶏が鳴いた。



 昼過ぎに、女が来た。


 扉を開けもせず、外から「アレン!アレン、聞いたわよ!」と叫びながら入ってきた。茶色い髪に、そばかすのある顔。何かの草の匂いがした。アレンより若く、目が大きく、落ち着きがなかった。


「子供を拾ったって本当?もう、また勝手なことして、この家に子供を置く場所なんて——」


 私と目が合った。


 女は止まった。


「……かわいい」


 そのまま突進してきた。


 速かった。私が状況を把握するより先に腕が伸びてきて、抱き上げようとした。その手首を、私は全力で噛んだ。


「いったぁ!」


 女が飛び退いた。手首を押さえて私を見る。私は椅子の上で正座したまま、女を見た。どちらも動かなかった。


「……なに、この子?」


「ディアだ」


 アレンが台所の方から答えた。声のトーンに変化はない。


「ディア。名前?」


「そう決めた」


「決めたって、あなたが?」女はアレンを見て、私を見た。「この子、何歳?どこから来たの?親は?」


 私は答えなかった。


「……親、いないの?」


 私はパンの残りを口に入れた。リーナがアレンを見た。アレンは何も言わなかった。


 しばらくして、リーナはため息をついて椅子を引いて座った。私の正面だった。


「私はリーナ。この村の薬師よ。このぶっきらぼうな男の幼馴染でもあるわ」


 私は咀嚼した。


「……噛むのね」


「噛まれたくなければ、不意打ちで触れるな」


 リーナはまばたきした。それから、何かを諦めたような顔になった。


「分かった。不意打ちはしない。約束する」


 私は飲み込んだ。リーナを見た。嘘の気配はない。この女は、嘘をつくのが得意なタイプではなさそうだった。


「……覚えておく」


 リーナはアレンを見た。アレンは油差しでランタンの補充をしていた。


「ねえ。この子、どうするつもりなの?」


 アレンは油差しを棚に戻した。


「育てるの?」


「親が見つかるまでは、ここに置く」


「見つからなかったら?」


「その時はその時だ」


 リーナが何か言いかけて、やめた。私を見た。私はカップの湯を飲んでいた。


「ディア、でいいの?その名前」


「今はそれでいい」


「今は、ね」


 リーナは小さく笑った。何がおかしいのか、私には分からなかった。


 私はカップに視線を戻した。湯はもうほとんど冷めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ