第1話 雨の夜の拾い物
私はヴァルディア。
1200年を生きた魔王だ。
はずだった。
足元が、ぬかるんでいる。
両手をついてそれに気づいた。掌に泥が絡みつく。1000年以上、地に膝をついたことは一度もなかった。謁見の間の床でさえ、私が踏むために存在していた。なのに今、私は森の中で四つん這いになって雨に打たれながら、泥の上に倒れている。
何かがおかしい。
いや、おかしいのは分かっている。問題は、何がどうおかしいのかを把握しきれていないことだ。
まず、手が小さい。異様に小さい。泥の上についているそれは、私の記憶にある手とまるで一致しない。指が短く、爪も薄く、まるで子供の——
子供。
頭の中で、何かがかちりと合わさった。
勇者に撃滅された。あの光の中で魂が砕けるような感覚があって、それから長い長い暗闇があって、気づいたら雨の降る森の地面に顔を埋めていた。転生だ。摂理通り、私は転生した。ただし想定とは大きく異なる形で。
腕に力を入れて、上半身を起こそうとする。
腕が言うことを聞かない。震えている。この体の筋力が、私の意志についてこられていない。
もう一度。
今度は膝を使い、なんとか上体を持ち上げた。雨が顔を叩く。木々の向こうに月は見えない。どこもかしこも暗く、濡れていて、冷たかった。魔力を探ろうとして・・・何もなかった。あるにはある、が、ほとんど感じ取れないほど薄い。指を動かすたびに手袋の中で空振りするような、そういう手応えのなさだった。
私は、幼女になっていた。
それだけは把握できた。
立ち上がろうとして、また転んだ。足が短すぎる。重心の位置が体の記憶と合わない。3度目の試みでようやく立てたが、膝が笑っていた。笑うな、と思ったが膝は聞かなかった。
どこへ行く、という問題が次に来た。
魔王城は北にある。ここがどのあたりかも分からないが、この体でたどり着けるとは思えない。魔族の残党に接触することも、今の状態では不可能だ。魔力がなければ私だと証明する術がない。幼女が「私が魔王だ」と言ったところで、笑われるか、あるいは哀れまれるかのどちらかだろう。
屈辱だ。
屈辱という言葉では足りないかもしれないが、今は他の言葉が見つからなかった。
足を踏み出す。ぬかるみが足首を引こうとする。振り払って、また踏み出す。どこへ向かっているのかも分からないまま、ただ木々の間を歩いた。雨は強くなっていた。体が冷えている。これほど寒いと思ったことは、今まで一度もなかった。
どのくらい歩いたか。
前方に、光が見えた。
小さな光だった。揺れていない。窓から滲んでくる、動かない光だった。人の家がある。集落の外れか、あるいは一軒だけ離れて建っているのか。近づくにつれ、木造の建物の輪郭が雨の中に浮かび上がってきた。
助けを求めるか。
私が、人間に。
葛藤は2秒で終わった。足が限界だった。膝が地面につく前に、なんとかその家の壁に手をついた。ずるずると座り込む。軒から雨が糸を引いて落ちていた。それを眺めながら、私は意識を手放した。
最初に感じたのは、熱だった。
顔の右側が、温かい。
目を開けると、木の天井があった。見慣れない。知らない場所だ。体を起こそうとして、腕に何かが触れた。毛布だった。粗末だが、厚みのある毛布が、肩まで引き上げられていた。
誰かがここに運んだ。
私を。
部屋を見回した。質素な造りの部屋だった。テーブルが1つ、椅子が2つ、棚が1つ。飾り気がない。窓の外はまだ暗かったが、雨は幾分か弱まっていた。壁際に炉があって、そこに火が入っていた。部屋の空気はぬるく乾いていた。
部屋の隅に、人がいた。
椅子に座って、こちらを見ていた。
大きな男だった。座っていてもそれが分かる。黒い髪、灰色の目。顔中に傷がある。笑ってもいないし、怒ってもいない。ただ、見ていた。
どのくらい黙っていたか。
「起きたか?」
「……私を、運んだのか?」
「軒先で倒れてた」
「そうか」
また黙った。男は立ち上がり、棚の方へ歩いた。何かを取り出して、こちらへ戻ってくる。湯気の立つカップだった。テーブルに置いて、男は椅子に戻った。
私はカップを見た。男を見た。カップを見た。
「毒は入っていないか?」
「入ってない」
「なぜそう言い切れる」
「俺が淹れたから」
論理になっていないが、男の声に嘘の気配はなかった。私は毛布をはねのけて、テーブルまで歩いた。カップを両手で持つ。熱い。中身はただの湯だった。薬草も何も入っていない、ただ温めただけの湯。
飲んだ。
喉の奥が焼けた。それだけだった。
「名前は?」
男が聞いた。
答えられない。本名は言えない。そもそも偽名など考えていなかった、転生してから今まで、そんな余裕は——
黙っていると、男は少し考えるような間を置いて、言った。
「じゃあ、ディアでいいか」
私の名は、ディアブラ・ヴァルディアという。
ディア。
貴様、今なんと——怒鳴ろうとして、口を開いた。開いたが、出てきたのは「……」だけだった。幼女の喉と舌が、私の怒りに追いついてこなかった。歯を食いしばった。歯が小さかった。それがまた腹立たしかった。こんなに歯が小さくて何が食いしばりだ、という話だ。
「……好きにしろ」
男は頷いた。
「俺はアレン」
アレン。
その名前は知っている。忘れようとしても忘れられない名前だった。私を亡ぼした勇者の名前だ。今まさに、その男の家に転がり込んで、湯を飲んでいる。
(……策略が必要だ。長期的な。今ここで何かをするのは愚策だ)
私は湯を飲み続けた。アレンはもう何も言わなかった。
カップが空になった。
眠かった。幼女というのは、どうやら燃料の消耗が早いらしい。毛布の方に引き返して、横になった。アレンがこちらを見ているのは気配で分かったが、どうすることもできなかった。
目を閉じる直前、ふと気づいた。
毛布が、さっきより肩まで引き上げられている。
自分でそうした記憶はない。
(……)
続きは、出てこなかった。
朝になっていた。
目を覚ますと昨夜よりずっと明るかった。窓から白い光が差し込んでいる。雨は上がっていた。アレンの姿は部屋になく、代わりに食卓の上に皿が置いてあった。パンと、何かの煮たもの。湯気はもうなかったが、まだ温かかった。
私のために置いたのだろう。
この男は、拾った子供に毛布をかけ、朝食を用意する。それだけのことを、何の疑問もなく、あるいは何かの意図もなく、ただやる。
(……利用できるかもしれない)
腹が鳴った。
私は椅子に座り、皿を引き寄せた。パンをかじった。固かった。煮たものはよく分からない根菜で、味は薄かった。しかしどちらも、温かかった。
外から扉が開く音がして、アレンが入ってきた。手に泥がついていた。私が食べているのを見て、特に何も言わなかった。水を汲んできて、手を洗った。
「食えるか?」
「……食える」
アレンは棚から自分の分のパンを取り出して、立ったまま食べ始めた。私が椅子を使っているから、自分は立つのだと、そういうことらしかった。
私はパンを見た。
アレンを見た。
パンを見た。
「椅子、もう一脚あっただろう?」
「あるな」
「使えばいい」
アレンは少し考えて、もう一脚の椅子を引いて座った。テーブルを挟んで向かい合う形になった。お互い黙ったまま、パンを食べた。
遠くで、鶏が鳴いた。
昼過ぎに、女が来た。
扉を開けもせず、外から「アレン!アレン、聞いたわよ!」と叫びながら入ってきた。茶色い髪に、そばかすのある顔。何かの草の匂いがした。アレンより若く、目が大きく、落ち着きがなかった。
「子供を拾ったって本当?もう、また勝手なことして、この家に子供を置く場所なんて——」
私と目が合った。
女は止まった。
「……かわいい」
そのまま突進してきた。
速かった。私が状況を把握するより先に腕が伸びてきて、抱き上げようとした。その手首を、私は全力で噛んだ。
「いったぁ!」
女が飛び退いた。手首を押さえて私を見る。私は椅子の上で正座したまま、女を見た。どちらも動かなかった。
「……なに、この子?」
「ディアだ」
アレンが台所の方から答えた。声のトーンに変化はない。
「ディア。名前?」
「そう決めた」
「決めたって、あなたが?」女はアレンを見て、私を見た。「この子、何歳?どこから来たの?親は?」
私は答えなかった。
「……親、いないの?」
私はパンの残りを口に入れた。リーナがアレンを見た。アレンは何も言わなかった。
しばらくして、リーナはため息をついて椅子を引いて座った。私の正面だった。
「私はリーナ。この村の薬師よ。このぶっきらぼうな男の幼馴染でもあるわ」
私は咀嚼した。
「……噛むのね」
「噛まれたくなければ、不意打ちで触れるな」
リーナはまばたきした。それから、何かを諦めたような顔になった。
「分かった。不意打ちはしない。約束する」
私は飲み込んだ。リーナを見た。嘘の気配はない。この女は、嘘をつくのが得意なタイプではなさそうだった。
「……覚えておく」
リーナはアレンを見た。アレンは油差しでランタンの補充をしていた。
「ねえ。この子、どうするつもりなの?」
アレンは油差しを棚に戻した。
「育てるの?」
「親が見つかるまでは、ここに置く」
「見つからなかったら?」
「その時はその時だ」
リーナが何か言いかけて、やめた。私を見た。私はカップの湯を飲んでいた。
「ディア、でいいの?その名前」
「今はそれでいい」
「今は、ね」
リーナは小さく笑った。何がおかしいのか、私には分からなかった。
私はカップに視線を戻した。湯はもうほとんど冷めていた。




