第三章その1 しんどくない?
5月も後半に差し掛かった頃。部活に精を出す生徒たちは、どこかピリピリと緊張した雰囲気を醸し出していた。
毎年5月下旬には滋賀県中の陸上部やバスケ部など運動部が一堂に会しての大規模な大会が行われる。いわゆる中体連、中学校春季総合体育大会だ。
そして文化部である吹奏楽部の場合も、この中体連に合わせて各校が県内のホールに集まり演奏を披露する『吹奏楽祭』が開催される。1年生にとってはこれが初めての人前での舞台。彼らの心中は、緊張と不安でガッチガチだろう。
ちなみに全県の中学が参加するとさすがに場所も時間もきつきつなので、会場を県の北部と南部とに分け、さらに金曜と土曜の2日に分けて開催される。俺たちは南部会場、2日目の土曜日午後が出番だ。
「皆さーん、自信もって演奏すれば大丈夫ですよー」
今日の練習予定を話した後、先生は天使の微笑みとともに付け加える。
コンクールとは違うので、演奏が点数付けされることはない。当然うまく演奏できるに越したことは無いが、それよりも夏のコンクールに備えて人前でも演奏するという経験を積んでおく方が大切だろう。特に今年は、初心者の1年生が半数近くを占めるのだから。
「そういえば、去年のコンクールってどうだったの?」
管を抜いてスライドグリスを塗りながら松子に尋ねると、彼女は「奨励賞だよ」と弓に松ヤニを塗り込ませながら答えた。
人数が30人以下の小編成の部では金賞や銀賞ではなく、優秀賞と奨励賞で評価が分けられている。当然、優秀賞の方が評価は高い。
「点数は?」
俺はさらに訊いた。自治体によって違いはあるが、5名か7名の審査員が採点することが多い。
「えっと、たしか10点満点で3、3、4、3、4だったかな?」
「ファミ通クロスレビューでももうちょっとマシな点数出すぞ!?」
そこまで点数低いと逆にどんな出来だったかちょっと聞いてみたいわ。
さすがに本番も近いので、ここ最近は練習も陽が沈むまで続く。
その内容も合奏が中心だ。またパート練でも手島先生が数名を時間ごとに呼び出し、気になる部分を徹底的にチェックしている。
「てっしーて雰囲気緩いけど、音楽に関してはめっちゃシビアですよね」
「私もそれ思う。だから怖いわけではないんだけど、ちゃんとやらなきゃって思わせちゃうんだよね」
手島先生のレッスンを終えたクラリネットの女子同士が、すっかり疲れ切った様子で部室に戻る。
実際に先生の指摘はかなり鋭く、物腰は柔らかくとも決して妥協はしない姿勢がレッスンの最中幾度となく見て取れた。
この前チューバに変わろうかと提案した時の会話も踏まえると、手島先生は俺たちをもっともっと上のステージまで引き上げたいと目論んでいるようだ。だが部の現状を考慮すると、まだその本領を発揮する時ではないとも考えているのだろう。
こりゃきっと吹奏楽祭が終わったら、コンクールに向けて一気に加速かけていくんだろうな。
合奏の時間まで、俺は1階まで降りて外に出る。そして校舎脇の、時折運動部がランニングで通るくらいしか人目につかない場所で楽器を吹き始めた。
元々マーチングのために作られた金管楽器は、屋外での演奏もへっちゃらだ。むしろ外で吹いた方が音が拡散して集中できる。目の前の金網フェンスの向こうには、青い稲を揺らす田んぼが広がるのみ。このどこまでも続く景色の中ユーフォを吹くというのは、実に爽やかな気分だ。
すでに暗譜はできている。俺は書き込みまくって真っ黒になった譜面に時折ちらちらと目を落としながら、愛器ピエールを吹き続けていた。
そして何十分か経過して、一旦休憩のため足元に置いた水筒に手を伸ばした時のことだった。視界の端に人影が映り、思わずそちらに顔を向ける。
「どうかしたの?」
そこにいたのは学校指定のジャージを着た女子生徒だった。すとんとまっすぐに落ちたセミロングの黒髪に、日本人形のような白い肌の小柄な少女が、まるでこちらをじっと見つめるように、少し離れた距離で立っていたのだ。
……あれ、この顔たしか全校集会の時に2年3組の列に並んでいた気がするな?
「ううん、ユーフォうまいねって」
「あ、ありがとう」
いきなり褒められたので、俺はとっさに答える。てかユーフォの名前知ってるってかなり珍しいな。
「随分と熱心に吹いてるんだね」
線は細くとも、しっかりと耳に届く声で少女はさらに続けた。
「土曜日本番だからね。そっちもこんなトコで油売ってていいの? もうすぐ大会でしょ?」
「いてもいなくても、大して変わらないから」
「何部?」
「テニス部だよ」
ああ、あそこは大所帯だし、部員によって温度差かなりあるみたいだからなぁ。
「ねえ、楽器吹くの、しんどくない?」
「そりゃしんどいよ。練習に根詰めすぎて、もうやってられっかって思う時もある。でも結局今も吹いてるんだから、もう楽器吹くこと自体が好きになってるんだろうね」
「そういうもんなのかな……」
その女子生徒が口元を押さえ、小さく呟いた時のことだった。
「砂岡ー!」
頭の真上から、耳を塞ぎたくなるような声がする。見上げると、4階の窓からトランペットの徳森さんが身を乗り出して呼びかけていた。
「ちょっと合わせたいところあるから、こっち来てー!」
「おーう、わかったー!」
もう少し吹き込んでおきたかったが、仕方ない。俺は譜面台を持ち上げると、「じゃあね」と言い残してその場を去った。件の女子生徒は、しばらくの間去り行く俺にじっと目を向けているようだった。
4階の廊下に上がると、徳森さんが「こっちよー」と手招きしている。
「あんた、宮本と何話してたの?」
そして開口一番、尋ねるのだった。
「へえ、あの子、宮本って言うんだ」
「うん、宮本慧美。去年の2学期に大阪から引っ越してきたんだったかな、たしか。1年のとき同じクラスだったから」
俺よりも転校生の先輩なのか。
「なんかユーフォの名前知ってるっぽいよ。吹奏楽やってたりして」
「そうなの? あの子、自己紹介では帰宅部だったって話してたけど」
「へえ、なおさら珍しいな」
そりゃ驚いた。どこぞのつい最近までユーフォを知らなかった吹奏楽部員とはえらい違いだ。




