1番目 勘のいい黒豹
十六歳の春、セレナはある学園に入学した。
春の香りをのせた風が、髪を撫でる。すん、と香りを嗅ぐと、ある鳥がセレナの指に止まった。
「気持ちいいね、ハルちゃん」
「ピィッ!」
かわいらしい鳴き声にふふ、と微笑めば、同調するように白い鳥は首を傾げた。
この子はハルちゃん。セレナが幼い頃、森の脇道で倒れていたところを助けて以来、どんな時も一緒に過ごしてきたパートナー。
ハルちゃんを手に乗せると、ふわふわとした羽ざわりがして思わず頬が綻んだ。温かくて気持ちがいい。
「信じられないよね、まさか今年からあのイグドラム王立学園の生徒だなんて」
「ピィ?」
「ふふ、私たちが今日から暮らすこの学園は、貴族の人たちが通う学園なの。おいしいご飯に豪華なお部屋、お勉強は難しいけど楽しいんだって! お母さんが言ってた」
セレナは少し顔を伏せた後、拳を握った。ハルちゃんが肩へと移動する。
「本当はちょっと寂しいけど、せっかく特別生に選ばれたんだもの。頑張ってみせるから。ね、ハルちゃん!」
「ピィッ!」
(初めてだからか、教室の居心地は悪かったけど、きっと大丈夫)
冷ややかな視線でセレナを見て、目が合うとどこかへ行ってしまう生徒達の姿が浮かぶ。
そう、大丈夫なはず。みんな緊張しているだけだ。
「ピッ」
「ハルちゃん」
ホワッとしたハルちゃんの小さな頭が、頬にくっついた。
「応援してくれるの? ありがとう」
そう言って顎下を撫でれば、ハルちゃんは嬉しそうに目を細めた。
しかし、すぐに前へ飛び立ってしまう。
「待ってハルちゃん!」
(普段は私の近くでしか飛ばないのに、どうし――)
「うっ」
「きゃっ!」
曲がり角から誰かが出てきた。ドンッと大きな音を立て、尻餅をついてしまう。
「イタタ……わ(綺麗な人!)」
お尻をさすりながら顔を上げると、絵画から出てきたのではないかと見紛うような女生徒がセレナを見下ろしていた。
不機嫌そうに眉根を寄せる姿は、歴戦の女神の如き神々しさと、トゲトゲしい美しさを感じさせる。
「どこ見てるのよ」
「あっ! す、すみません!」
キッと睨まれ、セレナは慌てて立ち上がった。勢いよく体を曲げると、フン、とだけ言って女生徒は去ってしまった。
「ちょ、ちょっと怖かった……!」
ドキドキと鳴る胸を押さえていると、ハルちゃんが飛んできた。何事もなかったかのように肩に留まり、また頭を擦り付けてくる。
「へへ、ありがとう。ハルちゃんのお陰で元気が出たよ」
セレナは拳を握り、よし、と頷いた。
「これから頑張るからね!」
と、意気込んでたった数週間後、セレナは今にも息絶えそうになっていた。
(寒い……体が重くて、痛くて動かない……)
ザーザーと降りしきる雨に打たれている間にも、体温がぬかるみの中に落ちていく。
今日は初の課題試験の日だった。
生徒たちにひどく当たられながらも頑張ったお陰か、セレナは最も成績の良いグループ、A階級になることができた。
しかし、同じA階級のパートナーが逃げてしまったのだ。
襲ってきた魔物は、背中を向けてはいけないと説明されていたものだった。にも関わらず、パートナーは背を向けた。どうにか守ることはできたものの、セレナは足に深手を負ってしまい、たった一人で戦い続けて今、このような状況に置かれている。
(ハルちゃん、お部屋で待ってるかな?)
魔物討伐に影響を与えてはいけないからと、ハルちゃんの同伴は断られてしまった。
鳥籠の中にいるであろうあの子の姿を浮かべる。
(もしかしたら、お昼寝してるかも。私も……眠く、なって…………)
もう、雨の音は聞こえなくなっていた。瞼がゆっくりと落ちていく。
「おい、何があった」
深い夢の中へ入りかけたその時、何かが風を切る音がした。次いで朧げに聞こえてきたのは、低い男性の声。
「あなた……は」
以前少し話したことのある人物だった。光魔法を見せるよう突然言ってきた姿が印象的で、覚えている。
「チッ。体温の低下が激しい。パートナーは?」
声を出そうとするも、その体力さえないようで。セレナは微かに口を開くことしかできなかった。
男子生徒はセレナを引っ張り上げた。何か黒い物に乗せられる。
「口を閉じていろ」
上着がセレナの上にかけられる。
顔を上げたその時、黒い物が動き出した。馬より小さくふわふわで、それでいて負けずに速い、この生き物は――
(――えっ、魔物?!)
「危ない!」
「きゃっ!」
驚きのあまり魔物から落ちかけてしまった。弱まっていた鼓動が再び強く鳴り出す。
彼が腕をかけなければ、そのまま落ちて死んでしまっていたかもしれない。
お礼を言おうと口を動かそうとするも、やはり言葉は出せなかった。まだ唇が震えてしまう。
すると、セレナが何かを言おうとしていることに気付いたのか、男子生徒と目が合った。
「ディラン」
雨粒に濡れたまつ毛の隙間から、黒曜石のような瞳がセレナを見つめた。その瞳からは、今まで散々向けられてきた侮蔑の意は感じられない。
「ディラン・ヴァールハイトだ」
――これが、セレナとディランの出会いだった。
飄々としていて、感情の読めない無愛想な人。
冬の日の、凍てつく空気を纏ったような武人。
だが、セレナのことを平民だと馬鹿にしなかった。彼にとっては、平民貴族関係なく、どの人間も同じに思えるのだろう。
気が付けば、彼はよく近くにいてくれるようになっていた。まるで、他の貴族たちから守るように。そのお陰か、セレナにちょっかいをかけてくる生徒は、時が経つにつれて減っていった。
しかし、入学式に出会った女生徒、ルミナス・ビオスソニオ嬢だけは違った。
「セレナさん。貴女また怪我をしたんですって?」
「ルミナス様……」
食堂でハルちゃんと共に食事をしていると、ほぼ決まって彼女が声をかけてくる。
今度はなんだろうと思えば、先日の授業でのことだった。彼女は取ってなかったはずだが、どこから話を聞いたのだろう。
「平民のくせに、身の丈に合わないことをするからよ」
「いたっ」
ルミナスがセレナの腕を掴んだ。痛めた部分がズキリと痛む。
「あら。切り傷だと聞いていたけれど、それだけじゃなかったみたいね」
クスリと笑い、ルミナスは乱暴に腕を離した。
「剣なんて、貴女に扱えるわけ――」
「ピィッ!」
「あっ、ハルちゃん!」
彼女の前へハルちゃんが威嚇するように出てきた。ルミナスは忌々しそうに一睨みする。
「共に食事をする相手が小鳥だけなんてね。行くわよ」
「はい、ルミナス様」
嫌味な言葉を残してルミナスは去って行った。
「あっ」
少し遅れて歩き出した令嬢たちが、セレナのカトラリーを床に落としていく。
「はぁ、また」
ため息を吐き、カトラリーを拾う。そうすればハルちゃんが肩に止まった。
「私にはハルちゃんがいるからいいの。それに、この後ディラン様と魔法を勉強できるんだから、そのことを考えれば嫌なことも忘れられる」
「セレナ」
「あっ! ディラン様!」
振り向くと、ディランは眉根を寄せて、ルミナスたちが去った先を見ていた。
すぐにセレナへと視線を戻し、歩いて来る。
「また声をかけられたのか。おまけにカトラリーまで落とされて。公爵令嬢には貴族としての矜持が備わっていると思っていたんだが、違ったようだな。
怪我はないか?」
「はい。大丈夫ですよ」
そう微笑めば、ディランは大きくため息をついた。
「お前が大丈夫でも、俺が気にする。何かあってからじゃ遅いだろう?」
「それはそうですけど、今のところ物理的なことはされていませんし、本当に大丈夫です」
そう、彼女たちから「は」物理的な危害を加えられたことがなかった。今回のように何かを落とされることはあるものの、頑丈なものか、修繕可能な物に限られている。
顔を上げると、ディランは不満そうにしていた。すると、突然袖を捲られた。
露わになったのは、小さな打撲痕。
「誰にやられた?」
「えと……」
「答えろ」
セレナは唇を噛んだ。しかし、ディランの気迫に負けて口を開く。
「その、名前は知らないんですけど、放課後男子生徒の方に」
「チッ。いくら数を減らそうと、なくなりはしないか」
往生際の悪い奴らだと、ディランは悪態をついた。
(どうして、こんなにも目をつけられるんだろう?)
「セレナ」
「どうしたんですか?」
「これからは俺が側で守る。ずっとだ」
「へっ?!」
真剣な目で見つめられ、セレナの頭がボンッと音を立てた。
自分でも顔が赤いことがわかる。
「いいな?」
「は、はい!」
二人を祝福するかのように、ハルちゃんが二人の周りを飛んだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
時は経ち、ついにディランが卒業する日がやって来た。
しかし、会場は祝いのムードから、重々しい空気に変わっていた。
セレナを虐めにきたルミナスに、ディランが剣を抜いたからだ。
「この場から立ち去れ、公爵令嬢」
そう切先を眼前に向けられても、ルミナスの表情は何故か真顔だ。
虚げな瞳が不安感を煽り、セレナは思わず下を向いた。
「斬られたくはないだろう?」
かつて、ルミナスが領地の民たちと仲がいいという話を聞いたことがある。
それなのに何故、セレナをいじめるのだろうか。自身の卒業式に泥を塗りかねないのに。そのことに気付けないような人物にも思えない。
どうして。そうセレナは問おうとしたが、やめた。
答えてもらえないことが分かりきっていたからだ。
セレナが顔を上げた時には、ルミナスは既に消えていた。
何も言わずに、消えていた。
「お前のような者が何故こんなことをしたのか、俺には理解ができない」
そう、ディランは呟いていたが、それにすら彼女は返事をしなかった。
静かにバルコニーの先を見ていると、黒いもふもふとしたものが見えた。
「ディラン様、あれはもしかしてガルムですか?」
「ああ。よく気づいたな」
「バレないか心配です」
「大丈夫だろう。公爵令嬢を馬車まで見送ったら帰るよう、言ってあるからな」
「どういうことですか?」
そう尋ねれば、ディランはやってしまったとでも言うように、手を口で覆った。
次いで、ため息をついて手を戻す。
「実は、舞踏会の開始直後から、彼女に対する殺気のようなものを感じたんだ。何もないとは思うが、念のために」
「殺気?! ルミナス様、大丈夫なんでしょうか?」
「はっ。普通、自分を虐めた相手のことを気にするか? 本当にお前は面白い」
「だって――」
突然、辺りに破壊音が鳴り響いた。眩しい光が視界を刺す。
何が起こったのか、セレナが理解することは叶わなかった。




