第三話 過去、桜子の生活
桜子、中学三年生。
あの頃の私の朝はまず、台所の掃除から始まっていた。
母が死んだことをきっかけに働きに出なくなった父の代わりを務めようと朝から夜まで働いているから、夜は暗くならないと帰って来ることができない。
その間、小中学生の男どもが家中を散らかし、父が気ままに起きてきては台所を荒らす。
へとへとになって帰ってくる私は夜のうちにそれを片付けることができず、後回しにしているうちに朝になってしまう。
朝、といってもまだ空は暗く、太陽の姿を見ることはできない。
片付けた台所で一先ず4人分の朝食を作り、弁当を詰めると、自分はその残りを口に放り込み、誰も起こさないようになるべく音を立てずに家を出た。
朝の商店街は開店の準備で騒がしい。
桜子は八百屋の前で立ち止まった。
「桜子ちゃん、おはよう。」
優しい声で挨拶をしてきた八百屋のおばさんに
「おはようございます。おばさん。」
と挨拶を返して店の中へ足を踏み入れた。
八百屋の主人はまだ市場から帰ってきていないようだ。
おばさんがシャッターを全開にする。野菜を載せるための台を店先に出していると、
野菜の箱を積んだトラックが帰ってきた。
「おかえりなさい。」
「おはよう。今日もよろしくね。」
八百屋のおじさんが軽トラの荷台を開けると、桜子は箱を車から降ろした。
「いつものように置いていいですか?」
「あぁ、任せたよ。」
桜子は降ろした箱を店のあちこちに品別に積み直した。
値札を台に置き、箱の中身も見やすいように出して並べる。
一段落ついた頃、お客さんがきた。
軽トラを駐車場に置いて戻ってきた八百屋の主人は既に陳列された品物を売るために
手がはなせなくなり、代わりにおばさんから今朝の分三千円の給料と
昨日の売れ残りを受け取った。
礼を言って家へ帰る。
弟たちを起こして朝食を食べるように言い、自分は制服に着替える。
制服の上にエプロンを着けて、貰った野菜を使って夕食の下拵えをし、居間と玄関の掃除を手早く済ませるとエプロンを脱ぎ捨てて学校へ向かった。
桜子は学校ではなるべく人と付き合わないようにしていた。
誰かと友達になって女の子同士でどこかへ行くとなると時間もお金も必要になる。
朝から働いて稼いだお金をそんなことに使いたくはなかった。
自分が遊ぶために使うくらいなら来年は中学生になる雅樹に新品の制服を買ってやりたい。
渚馬が1年のときに着ていた制服を着ていくつもりなのだ。
それに渚馬が体育の授業で使っているスポーツシューズはもうボロボロだし、
直輝なんて親指のところに穴が開いた靴下を自分で繕って使っている。
「高いものじゃないんだから新しいの買いなさい。」
何度もそう言っているのに、桜子が洗濯のときに気付くまで絶対に何も言わないのだ。
みんな協力しようとしてくれているのはわかっている。
でもその優しさは桜子にとって嬉しいものではなかった。
自分と死んだ母に弟たちを守ると誓った。なのに、これでは自分の方が守られているみたいだ。
母さんになりたい。
でも、それは幼い自分にはまだ無理なのだと言われているような気がした。
学校が終わってからは家の近くの喫茶店でバイト。
日が暮れるまで働いたら商店街に寄って八百屋で店先に水を流して道に散った野菜くずを流す。それが終わったら売れ残りの整理。
一度、家に帰って制服から私服に着替える。
テーブルに夕食の支度を済ませると、小学生の直輝が寂しそうな顔をして見送る姿に後ろ髪を引かれながらまた喫茶店へ戻る。
その日使った食器を全部洗って棚にきちんと収納し、店の中と外を掃き清めると、店長からバイト代とは別にお小遣いがもらえる。
私が店の後片付けをしている間、店長は店の中にいなかったようだが追求はしない。
どうせ、あまりよくないことだろう。というのが桜子の見立てだった。
その代わり、代行料プラス口止め料で意外と高額なお小遣いがもらえる。
何が理由にせよ、自分の得になっていることに変わりない。
「ただいま、直輝。」
「おねーちゃん、おかえり。」
玄関で膝を抱えて待っていた直輝の頭を撫でて、帰り道に商店街のパン屋さんからもらった
人気アニメのキャラクターの顔に似せられた焼きたてのパンをカバンから出して直輝に渡した。
雅樹が渚馬を引きずるように階段を降りてきた。
渚馬はまだ帰ってきたばかりのようで、制服を着たままだ。
「姉ちゃん、ちょっと。」
手を上げて桜子の腕を掴もうとする雅樹を制す。
「着替えてからじゃダメ?」
渚馬はOKというように首を縦に振ったが、雅樹は横に首を振った。
「オーケー。わかりました。伺いましょう。」
居間に移動すると、雅樹が突然、渚馬の服を脱がし始めた。
抵抗しているが体に力が入らないらしく、されるがまま服を剥ぎ取られる渚馬。
まだ成長しきっていない足や腕に痛々しく紫に変色した痣がいくつかついていた。
「どう思う?」
体を隠そうとする渚馬の腕を雅樹ががっしり捕まえたまま桜子に訊ねた。
「どうって、ちょっと学校でヘマして転んだだけだ!」
渚馬が叫んだ。
「事故や、人につけられた傷じゃないように思えるけど?」
「どういうこと?」
雅樹が不安げに首を傾げた。
不意に桜子の手が渚馬の腕を掴む。
「いってぇ!!」
渚馬が叫んだ。
「筋肉痛だと思う。普段はしないようなことをしたのが原因。例えば……」
「たとえば?」
「人の荷物が入った箱を持ったり置いたり……運んだりしたとか、ね。」
苦虫を噛み潰したような顔で俯いた渚馬の顔を覗き込んだが
渚馬はふい、と目を逸らして黙ったまま、口を利かなかった。
制服を肩にかけてやり、桜子は居間の外で膝とパンを抱えて話を聞いていた直輝と困惑顔で渚馬を見つめていた雅樹を連れて台所に行き、弁当箱を洗い始めた。
「大方、重労働を手伝って小遣いでももらったんだろ。気にしなくていいよ。」
「よく知ってるね……。」
「あたしも一度だけやったことあるんだ。大型ゴミの収集とかね。」
新しいタオルを袋から出して水に浸してギュッと絞り、電子レンジに投げ入れた。
「慣れないと、箱とか機械に当たって体中が傷だらけになるんだ。」
「でも儲かるんだろ?」
「仕事がきつすぎるからあんまりいい給料とはいえないね。でも安くはなかったかな。」
チン、と鳴ったレンジから熱くなったタオルを取り出して居間に戻ると渚馬が制服を着直してまだそこに大人しく座っていた。
「このタオルを痛いところに当てておきなさい。
しばらくしたらマッサージしてあげるから、ゆっくりね。」
小さな声で「うん。」と呟いたのを聞いて桜子は微笑んだ。
「おねーちゃん、パン食べよ。」
「あぁ、食べな。飲み物取ってくる。」
直輝に麦茶とお皿を出した。
自分の部屋で服を着替えながら、桜子は渚馬のバイト代の行方に考えを巡らせていた。




