第二話 訪れた死人
チャイムのついた小さな門を素通りして、ドアをノックする女性がいた。
この家の門についているチャイムは鳴らない。
彼女はそれをずっと前から知っているのだ。
「すみませーん。」
中からの応答はない。
喪服代わりにスーツを着たその人は、足元にあるドアの傷にそっと指を這わせる。
大切にしまっておいた記憶を思い出して笑っていた。
「何か御用ですか。」
庭の方から顔を出した黒い服をきた男、渚馬は
この女性が姿を変えた桜子であることに少しも気が付かない様子で無愛想に言った。
「桜子さんにお線香をあげようと思って。」
仏壇に案内する、と言われて通された家の中はしばらく見ない間にすっかり荒れ、
長く帰らなかった間に自分の前を歩く弟が立派な大人になっている。
そんな微妙な変化すら懐かしく感じた。
嬉しくなってきょろきょろしながら桜子は歩いた。
簡単に組み立てられ白い布で覆われた仏壇の前に座ると長男で桜子の弟である渚馬が
愛想笑いもせず、桜子を横からじっと見つめた。
「失礼ですが、姉とはどういうお知り合いですか?」
「彼女は私の店によく食事にきていたんです。ここの話もその時に聞きました。」
「・・・・・そうですか。」
渚馬は怪訝な顔をして頷いた。
桜子は昔からあまり友達を作らない人間だったのだ。
火のついた線香をそっと立てて、自分が幼い頃からある仏壇を見上げる。
母の遺影が日に焼けて黄色くなっていたが、他は何も変わっていなかった。
その隣に並んだ自分の写真。
遺影に写っている本人が見つめていると考えたら、不思議な気分になった。
「どうぞ。」
一番下の弟、直輝が緑茶を出してくれた。
「ありがとう。」
直輝が淹れてくれるお茶は昔から美味しい。
学校に、バイト。
そんな毎日に疲れて帰ってきたとき、必ずテーブルの上にちょこんと置かれたお茶が
いつも桜子を癒してくれていた。
「美味しいです。ありがとう。」
そう言って笑うと、直輝は照れたように笑って下を向いた。
渚馬は用があるからと言って立ち上がり、部屋を出て行った。
雑草を刈ったばかりで草の臭いがする庭。
庭が見える部屋からはどこからでも見ることができる大きな桜の木が
つぼみを膨らませて、いくつかは既に咲いていた。
しばらくそれを眺めていると、直輝が
「お名前は、何ていうんですか?」
と訊ねてきたので
「さな。お茶に南で茶南。」
適当に名前を作って教えた。
「おもしろい名前ですね。」
直輝は昔と変わらない、子供のように無邪気な顔をして笑った。
「今日、こちらに泊まらせていただきたいのですが、ご迷惑でしょうか?」
断られると思っていたのだが、見知らぬ人間からのこの提案は意外と簡単に許可が出た。
ベッドと机以外には何も無い桜子の部屋でいいなら使っていいといわれた。
自分が出て行くときに本や服などの類は処分してしまった。
窓を開けて新しい空気を取り込む。ほこりをかぶったシーツを剥がす。
受け取ったシーツに取り替える。新しいシーツは糊がきいていて気持ちよかった。
ベッドの横にある窓の枠に腰掛けて寄りかかり、窓に額をつける。
桜子はよくこうやって夜中に外を眺めていた。
遠くに見える街の明かり。雲がかかった遠くの山。
自分の部屋とはまったく離れた世界のように思えてくるその景色を飽きもせずに
何時間も、ほとんど毎日眺めていた。
そしてその日にあったことを思い返した。
今日、お茶を飲み終わって湯飲みを台所へ置きに行ったとき見知らぬ女性にあった。
自分のことを桜子の友人だと紹介すると、その女性は渚馬の妻だと自己紹介した。
弟が結婚していたなんて知らなかった。
本当に他人になってしまったような、どこかへ置いていかれたような気分になった。
あのまま死んでいたら彼女には会えなかったんだな。
私は渚馬の結婚も知らないまま消えてしまっていたはずの人間だ。
それは他人と何ら変わりないように思えた。
ふと思い出して机の引き出しを全開まで開く。
爪でそっとL字型の金具をずらすと、小さなアルバムが出てきた。
表紙は黒く焼け焦げている。
父が酒に酔ったとき、母の遺品を全部燃やそうとしたことがある。
火傷することなど気にもせず、炎の中から死に物狂いで奪ってきた桜子の宝物。
母さんが写っている。弟たちと自分も笑っている。
まだ若い父がまだ幼い二番目の弟、雅樹を肩車している。
桜子は小さくため息をついて茶楠として持ってきたバッグにアルバムをしまった。
自分がここの家族であった頃をこのまま置いていきたくはなかった。
今の桜子にはこれだけが家族と自分を繋ぐたった一つの絆だった。
寂しくて、でも泣きたくなくて空を見上げた。
窓の外で月が滲んで揺らめいた。