第一話 死の事実
空はやたら黒い雲が覆い被さり、曇っていて、遠くに見えるはずの海は見えなかった。
違法なこともやると聞いては、簡単に頼むことなんてできない。
これでも刑事だ。プライドはある。
だが、そもそもこんな小さな子供に違法かどうかなどわかるはずないのではないか。
それが例え違法なことだったとしても、こんな小さな子供にできるのだろうか?
いや、こんな子供だからこそできることもあるのかもしれない。
刑事としての規則を破らなければ解決できない事件があるのと同じだ。
試してみる価値はあるか。
桜子は訝った。
自分にとって誇りである仕事を裏切ってまで叶えたい願いはなんだろう。
他人の力を借りてまで叶えなければならないほど大切な願いとは?
「さくらこちゃぁん?」
頼穂が甘えるような声を出した。
どうしても桜子を正しく呼ぶ気はないらしい。
目の前を蝶が通り過ぎた。傷はすっかり消えてなくなっていた。
「この蝶は?」
「サングって名前なの。かわいいでしょ?」
黒くてでかすぎる蝶なんかかわいくねぇよ。
そうは思ったが言えず、桜子はとりあえず口の端を上げて笑ってみせた。
夢奏がハンモックの上で大きなあくびをした。
「傷を癒す特別な力を持つ蝶で、なかなか人には懐かないんだと。」
面倒くさそうにそう言うと、天井を蹴ってハンモックをゆらゆらと揺らした。
蝶はその横をひらひらと飛んで頼穂の肩にとまり、羽を閉じて休んだ。
「願いってさ、何でも叶うの?」
「もちろん。頼む気あんの?」
桜子は蝶から窓の外へ目線を移した。
「何でも叶う、ね。・・・・失敗してもどうせ子供だしな。」
「はぁ?」
「いや、なんでもないよ。」
太陽がいつの間にか傾いて、外の景色が夕日に染まろうとしている。
「いいよ。絶対叶うなら頼んであげる。」
ニヤリと笑った二人は顔を見合わせて、言った。
「まかせてよ!」
桜子はまず、弟たちに会いたいと言った。
3人の弟がいる。一番上が渚馬。二番目が雅樹。一番下は直輝という。
今では自立してそれぞれが一人暮らしをしているはずだった。
家を出てからは、仕事や自分の生活で手一杯だったが、仕送りは忘れずに続けていた。
大人になって弟たちが就職してからも、ずっと。
「私がいなくなったことで苦労をさせてしまったと思う。」
桜子は寂しげに言った。
「何でおうち出て行っちゃったの?」
頼穂の言葉に少しの間、言葉を失った。
「情けない父親が大嫌いで、家に居たくなかったんだ。」
言葉を選んで、ただそれだけを口にした。
でも自分の中に渦巻く父親への感情はそんなに単純な言葉じゃない。
「そんなこと気にするなんてガキだな。」
夢奏が吐き捨てるように言う。
「そうだね。自分でもガキだと思うよ。」
桜子は泣きそうな顔をして笑った。
そんなことを話している間に3人は大きな門がある建物の前に来ていた。
黒い幕が下がっていて、提灯を下げている。葬式だと思った。
「始まってんな。」
自動ドアが静かに開くと、お経のような声がする。
受付のテーブルに座っていた女性がこちらを少し見て、驚いたように立ち上がった。
袖を引いて早足で進もうとする夢奏に抵抗しながら受付に向き直る。
何か言おうと口を開いた女性に向かって頼穂が口元に手を当て、「シーッ」と言うと、
女性は少し間を置いて息を深く吸い込み
「こちらにお名前をどうぞ。」
と事務的な声を出した。
夢奏が袖を強く引っ張るので受付の女性に軽く礼をして桜子はその場を離れた。
そこは信じられない事に本物の葬式だった。
入り口付近で夢奏の足が止まり、桜子もそこで立ち止まった。
自分も知っている顔、知らない顔が黒い服を着てずらりと並んでいる。
祭壇の方へ近くなるにつれて知っている人が増えている。
桜子の親戚もいるようだ。
そこから視線を一番前の席に写すと、弟たちの姿があった。
きりりと上げた顔を見るかぎり泣いてはいないようだ。が、微かに肩が震えている。
直輝がぼんやりと前に飾ってある大きな写真を見ていた。
そこには、自分とそっくりな、人の写真が・・・・・。
「どういうこと?」
建物を出て、少し早足に歩く桜子の後に従って夢奏と頼穂が歩いた。
「あんたは死んだんだよ。記憶がないわけじゃないだろう?」
桜子が振り返り、今にも殴りかかりそうな勢いで言った。
「でも!私はここにいる!死体がないと葬式は成り立たないはずだろ?」
「死体はあそこにある。信じられないなら確かめてこい。」
「じゃあここにいる私は何なの?」
怯える頼穂を庇うようにして、夢奏が睨みつけた。
「俺たちがお前を人間の姿として見られるようにした。
お前は桜子の中にあった、ただの記憶だよ。」
「きおく・・・・?」
「魂だとか、幽霊だとか言われるものだ。
誰かが力を貸さないと実体は持てないけどな。」
夢奏の言ったことを聞いているのかいないのか、桜子はそこから動かなかった。
だからやめろって言ったんだ、と夢奏が頼穂に小さな声で言った。
頼穂は「ごめんなさい」と言ったきり何も言わなかった。
それからは誰も動かず、誰も話さない。ただ静かで、何もなかった。
まだ花の咲かない桜の木が3人を包むようにさらさらと風を鳴らす音だけが聞こえた。