第六話 信頼
直輝は突然現れた夢奏にもあまり驚かなかった。
「ともだちだよ。」
それだけ説明すると、心から嬉しそうに挨拶をしていた。
夢奏はそんな歓迎の態度に少し戸惑っていたようだったが、嫌な素振りは見せず子どもらしく振舞っていた。
桜子の目は二人を見つめて柔らかく微笑んでいた。
母に似ているその表情を、日当たりのいい縁側から二人の弟が見ていた。
父親は相変わらず顔を見せなかったが、桜子が作った料理の皿は空になっており、部屋の前まで皿を片付けに出向くと時々、嗚咽のような声が聞こえる。
桜子は少し心を痛めたが、直輝はそれを聞いて微笑んだ。
母親が死んでから笑うことも、泣くこともせず、ただ生きていただけの父親に人間らしい感情が戻ってきたことを喜んで二人は笑った。
「父さん。気が向いたら出ておいで。」
襖の向こうで涙を流している父に直輝が声をかけた。だがやはり、返事はなかった。
桜が風に揺られて散っていく。
「もう、時間がないな。」
ひらひらと目の前に舞い落ちてきた花びらを手のひらに乗せて桜子は呟いた。
「何の?」
直輝が不思議そうな顔をして首を傾げた。桜子は自分のタイムリミットをまだ伝えられずにいた。
早いうちに打ち明けなければいけないことはわかっていたのに、いざ言おうとすると、言いたいこととは違う話が口をついて出てしまう。
最近ではベッドにまで潜り込んでくるようになった直輝にはもうわかっているかも知れない。
桜子が何を言いたくて、口を噤んでしまうのか。
「姉ちゃん……」
居間から顔を出した雅樹が、何か難しい顔をしている。
「なぁに?」
小さな子どもをあやすような声で桜子が答えると雅樹はむず痒そうに身を捩って苦笑いを浮かべた。
「何か、知らない人に呼びかけたみたいだ。見た目もだけど、声も違うし。」
「そうね。あたしもまだ自分に慣れてない。」
居間に少し遅れて入ってきた直輝が辺りをキョロキョロ見回して
「あれ?渚馬兄ちゃんは?」
と言いながら桜子にくっついて座った。
「直輝、最近退行してねぇか……。」
雅樹が呆れ顔で言った。
「綾羽さんが買い物に行きたいって言ってた。出かけたんじゃない?」
桜子の肩にもたれている直輝の頭を撫でながらそう言うと、雅樹は視線を逸らしてしまった。
肩が僅かに震えているところを見ると笑っているようだ。
玄関のドアが勢いよく開き、バタバタと急いで走ってくる音が聞こえる。
襖が開くと、綾羽が息を切らして入ってきた。
「お姉さま!聞いてください!」
「ど……どうしたの?」
いつの間にか綾羽までも桜子のことを認識しているのか。お姉さまと呼ばれたことや、何より綾羽の切羽詰った様子に桜子は戸惑った。
もしかしたら、自分のことを桜子だと認めようとする弟たちより自分の方が戸惑いが大きいかもしれないとさえ思った。
「お料理の材料などを買いに近くのお店に行ってきたんです。そしたらですね、ひどいんですよ!」
「何かあったの?」
顔に手を当てて綾羽はすすり泣くフリをした。
「しょうちゃんたら、手を繋ぎたくないっていうんですぅ!」
「あや!」
声の方向には、荷物を持たされていつもの無愛想な顔をした渚馬が立っている。こちらも息を切らして急いで帰ってきたという様子だ。
「繋ぎたくない、じゃなくて荷物があるから繋げないだろって言っただけだ。それから、兄さんや姉さんの前でその名前を呼ぶんじゃない!」
表情からはわからないが、焦ったり照れたり心の中は忙しくしているらしい。
「いいじゃない。しょうちゃんって、何かかわいくて。」
桜子がからかうように言った。
渚馬は肩を落として
「荷物を冷蔵庫に入れてくる」
と、その場を去った。
「お姉さま、嬉しいです!そんな風に思ってくださるなんて……」
その後も綾羽は明るい声でよく喋り、みんなを笑わせた。
いい子だな。と桜子は思った。母がいなくなってから、桜子の周りには女がいなかった。
妹も姉も、学校で親しくしていた女友達もなかった。だから憧れていた。嫌われる不安や警戒心など忘れて何も考えず女の子と他愛もない話をすることに。
この子がここにいるなら、私がいなくなっても弟達は大丈夫だろう。
どうにか、自分達の生活に戻って、やっていけるよね。
はしゃいで話す綾羽に笑みを見せながら桜子はぼんやりとそう考えていた。