第七話 離別
その夜、桜子は寝付けなかった。夕方に縁側で見た桜は満開の頃を過ぎ、緑色の葉が芽吹いていた。
体の感覚も前より少し鈍くなっていると思う。
雅樹が父親の話で桜子を呼び止めたときも、聞こえにくくなっていた。
まるで遠くの人が小さな声で何か話している内容を聞き取らなければならないかのように集中しなければほとんど何も聞こえなかった。
でも不思議と、最初の頃のように焦る気持ちは湧いてこなかった。
自分の底からふつふつと湧いてくる温かい安心感と死の決意が心を落ち着かせた。
「何、浸ってんだよ。」
暗い部屋の中にぼんやりと夢奏が立っていた。いつものむすっとした表情で窓際にいる桜子の腕に直輝のように擦り寄った。
「いいのかよ。」
「何が?」
「家族に会いたかったから、生き返ったんだろ?一緒にいなくていいのかよ。」
夢奏は桜子と視線を合わせようとしない。俯いて腕をぎゅっと掴んだままだ。
「死ぬ前に里帰りして、ちょっと大人ぶってた自分を思い出したかった。生き返った理由は……本当はそれだけだよ。」
柔らかい髪を撫でると、夢奏は小さく震えた。
「ごめんな。」
「何が?」
「どうせわかりっこないと思ってた。お前が桜子だって自分で言っても誰も信じないだろうって。」
「そうだね。私もそう思ってた。」
「もっと人間として生きられるくらい、ちゃんと作ってやればよかったな……」
涙を堪えて、小さな声でそう言った夢奏を冗談でも責める気にはなれなかった。
「いいんだよ。仕事だけで生きてきたのに家族は愛してくれてる。それがわかった。何の心配もなく、こんなに落ち着いた気持ちで死ねるとは思わなかった。感謝してるんだよ。ありがとう。」
泣き顔を見ないように、窓の外を眺めながら指先でそっと夢奏の柔らかい頬に伝う涙を拭って桜子は微笑んだ。
母が、桜はすっきり散る花だと教えてくれた。
だがこうなってみると桜の花は意外としぶとい花だとわかった。こんなに大きな葉が茂っていても葉の隙間にはまだ花が残っている。花見の季節は既に終わったが、そこには確かに咲いていた。
庭に散りばめられたピンクの花びらを箒で掃きながら桜子は残り少ない花をじっと眺めていた。
最後の一枚が散るまで、待っているつもりなどなかった。母に教えられた通り、潔い花でありたい。
「姉ちゃん。」
ちりとりを抱えた直輝が庭に出てきた。
「また一人でどこかに行っちゃうの?」
心配そうな顔をする直輝に笑いかける。
「今度は母さんと二人暮しすることにしたんだ。」
ちりとりを受け取り、集めた花びらを中に入れていると足音もなく近付いてきた直輝が後ろから桜子を抱きしめた。
大きくなった弟の腕の中は、小さなアルバムに写った父の記憶と同じ匂いがした。
「父さんや、この家を頼んだよ。直輝。」
「姉ちゃん……体に気をつけてね。」
「ありがとう。短い間だったけど楽しかったよ。」
まるで遠い地に行くだけのような会話が、桜子が最期に交わした会話だった。
見上げた桜の樹が緑色から桜色に染まっていく。あるはずのない二度目の満開になった桜が強い風に吹かれて一気に散っていく。
直輝の腕に抱かれた自分の体が花と一緒に砕けていくのを感じた。
夢奏と頼穂が樹の上から手を振っている。桜子はもう花になって消えた手でそれに応えた。
やがて花は散り、また緑の葉が生い茂って元の姿に戻っていった。
ぽつりと庭に残された直輝は呆然と立ち尽くしていた。自分の姉がそこにいた温もりと感触を抱きしめながら。
そしてそっと呟いた。
「母さんに、よろしく。」




