これからも、ずっと隣で
ミケがひまりだった。
その秘密を知った日から、はるとの毎日は、ほんの少しだけ変わった。
朝、学校へ行くとき。
「はるとお兄ちゃーん! いってらっしゃーい!」
隣の家の玄関から、ひまりが手を振ってくれる。
「おう! ひまりも学校、頑張れよ!」
「はーい!」
いつもと同じやり取り。
けれど、はるとは以前よりも、ひまりの笑顔を大切に思うようになった。
かつて、自分がごはんをあげていた小さな猫。
寒くないようにと毛布を敷いてあげた猫。
もう二度と会えないと思っていた、大切な存在。
そのミケが、今はこんなにも元気な女の子になって、隣で笑っている。
不思議なことは、まだたくさんあった。
どうして人間に生まれ変わったのか。
どうしてミケだったころの記憶が残っているのか。
はるとには、わからない。
けれど、ひまりが自分のそばにいてくれること。
それだけは、確かなことだった。
*
ある休日。
はるとは、ひまりを庭に呼んだ。
「ひまり、ちょっと来てくれ」
「なあにー?」
ひまりは、小さな靴をぱたぱた鳴らしながらやってきた。
庭には、ふたつの植木鉢が並んでいた。
片方はひまりの家のもの。
もう片方は、はるとの家のもの。
そして、その前には、小さな袋が置いてあった。
「これ、なあに?」
「この前、ひまりがくれたひまわりの種だよ」
「あっ! ひまりの種!」
「そう。そろそろ植える準備をしようと思ってな」
はるとは袋を開けて、種をひまりに見せた。
「覚えてるか? 来年、一緒に植えようって約束したの」
「うん! おぼえてる!」
ひまりは嬉しそうに飛び跳ねた。
「ひまり、ずーっと待ってたんだよ!」
「まだ春には少し早いけど、土を用意しておこうと思ってさ」
「ひまりもやる!」
「よし、じゃあ手伝ってくれるか?」
「まかせて!」
ひまりは、小さなスコップを握った。
ふたりは並んで土を入れ、植木鉢を準備した。
ひまりの手には土がいっぱいついた。
「はるとお兄ちゃん、みて! まっくろ!」
「ははっ、頑張った証拠だな」
「ひまり、じょうず?」
「うん。すごく上手だよ」
「えへへ!」
ひまりは得意げに胸を張った。
その姿を見て、はるとは思った。
ミケが猫だったころ、自分は何か特別なことをしてあげたわけではなかった。
ただ、ごはんをあげて。
寒くないように毛布を敷いて。
学校へ行く前に、また明日と声をかけただけ。
それでも、ミケにとっては嬉しいことだったのだと、今ならわかる。
誰かを大切にすることは、必ずしも大きなことをするわけではない。
隣にいること。
声をかけること。
一緒に笑うこと。
そんな小さなことが、誰かの心に残るのかもしれない。
「はるとお兄ちゃん?」
ひまりが不思議そうに顔をのぞき込んだ。
「どうしたの?」
「いや、なんでもないよ」
はるとは笑って、ひまりの頭をなでた。
「ありがとうな、ひまり」
「えっ? なにが?」
「いろいろ、だよ」
「……えへへ。どういたしまして!」
ひまりは、よくわからないまま笑った。
*
午後になると、はるとはひまりを連れて、近くの公園まで散歩に出かけた。
秋の終わりの公園には、落ち葉がたくさん積もっていた。
「はるとお兄ちゃん! はっぱ、いっぱい!」
「ほんとだな」
「みてみて! あかいの!」
ひまりは赤い葉っぱを拾い上げた。
「こっちは、きいろ!」
次は黄色い葉っぱ。
その次は、少し茶色い葉っぱ。
気がつけば、ひまりの両手は落ち葉でいっぱいになっていた。
「そんなに集めて、どうするんだ?」
「おうちにもってかえるの!」
「全部?」
「うん!」
「途中で落としそうだなあ」
はるとが笑うと、ひまりは慌てて葉っぱを抱え直した。
「おとさないもん!」
「はいはい」
ふたりが歩いていると、公園の隅に、小さな猫の置物があるのが見えた。
ひまりは、ぴたりと足を止めた。
「……ねこさん」
はるとも隣に立ち、置物を見つめた。
ミケと過ごした日々が、静かによみがえってくる。
ひまりは、はるとの手を握った。
「はるとお兄ちゃん」
「ん?」
「ミケちゃんだったときね、ひまり……じゃなくて、ミケね」
自分で言い直して、ひまりは少し照れくさそうに笑った。
「はるとお兄ちゃんに、いっぱい、ありがとうって言いたかったの」
はるとは、そっとひまりを見た。
「……うん」
「でも、ねこさんだったから、おはなしできなかったの」
ひまりは、自分の手を見つめた。
「だからね、いま、いっぱいおはなしするの!」
その言葉に、はるとは胸がいっぱいになった。
「そっか」
「うん! はるとお兄ちゃん、きいてくれる?」
「もちろん。何でも聞くよ」
「じゃあね、きょうのおやつはね……」
ひまりは、さっそく食べたおやつの話を始めた。
どんな形だったのか。
誰と隣に座ったのか。
先生が何と言ったのか。
話はあちこちに飛び、途中で何度も脱線した。
はるとは、そのひとつひとつを、笑いながら聞いていた。
特別な話ではない。
けれど、今のひまりにしかできない話だった。
はるとは、そんな時間がたまらなく愛おしかった。
*
数日後。
はるとは、机の引き出しから、一枚の写真を取り出した。
幼い自分と、ミケが写っている写真。
その隣には、最近撮ったひまりとの写真を並べた。
ひまりがひまわりの種を持って、満面の笑みを浮かべている写真だった。
ふたつの写真を見比べながら、はるとは小さく笑った。
「……本当に、不思議だな」
昔のミケと、今のひまり。
姿はまるで違う。
でも、ひまりが嬉しいときに目を細める顔や、何かを伝えようとするときに首をかしげる仕草。
そんなところに、どこか懐かしさを感じることがあった。
はるとは写真を大切にしまった。
もう、ミケがいなくなったことを悲しいだけの思い出にはしない。
ミケがいたから、命を大切にしたいと思えた。
ミケがいたから、誰かに優しくすることの意味を知った。
そして今、ひまりがいる。
これから先も、ひまりが笑ったり、泣いたり、失敗したり、いろんなことを経験していくのだろう。
そのとき、自分にできることがあるなら、そばで見守っていきたい。
はるとは、そう思った。
*
春が来た。
庭の土は柔らかくなり、暖かい風が吹いていた。
「はるとお兄ちゃーん! はやくー!」
ひまりは、植木鉢の前でぴょんぴょん跳ねていた。
「そんなに急がなくても、ひまわりは逃げないぞ」
「でも、はやくうえたいの!」
はるとは笑いながら、ひまりの隣にしゃがんだ。
ふたりで、小さな穴を掘る。
そこへ、ひまわりの種をひとつずつ入れていった。
「ひまりの種、元気にそだつかな?」
「きっと育つよ」
「いっぱい咲く?」
「うん。いっぱい咲かせよう」
土をかぶせ、水をあげる。
最後に、ひまりは小さな手を合わせた。
「ひまわりさん、おおきくなあれ!」
はるとも、そっと笑った。
「大きくなれよ」
植木鉢の隣には、猫の形をしたキーホルダーが置いてあった。
ひまりが大切にしているもの。
はるとがくれた、小さな宝物。
風が吹き、ふたりの髪を揺らした。
「はるとお兄ちゃん!」
「ん?」
「ひまりね、これからも、ずーっと、はるとお兄ちゃんと遊びたい!」
「……うん」
「おっきくなっても?」
「もちろん」
「おとなになっても?」
「そうだな。大人になっても、ひまりが会いに来てくれたら、いつだって話を聞くよ」
ひまりは、ぱっと笑った。
「やったあ!」
そして、はるとの手をぎゅっと握った。
「じゃあ、ずーっと、おとなりさんね!」
「そうだな。ずっと隣だ」
はるとは、その小さな手を握り返した。
昔、ミケに向かって何度も言った言葉がある。
また明日な。
その言葉は、もう二度と届かないと思っていた。
けれど、今は違う。
「ひまり、また明日な」
はるとが言うと、ひまりは満面の笑みで答えた。
「うん! また明日、はるとお兄ちゃん!」
夕方の光が、ふたりと植木鉢を優しく照らしていた。
いつか、ひまわりが大きく咲くころ。
ふたりはきっと、また並んで笑っている。
ミケだったころの思い出も。
ひまりとして過ごす毎日も。
どちらも大切に抱えながら。
これからも、ずっと。
隣で。
第十話 おわり
おしまい。
ミケだったころに受け取った優しさは、消えてしまったわけじゃなかった。
姿も名前も変わって、もう一度出会えたふたり。
そして、ふたりの物語は、これからも何気ない毎日の中で続いていく。




