第一話 正しい人間は、だいたい損をする
本日より不定期で投稿していきます。
正しい人間は、最後には報われる。
そんな言葉を最初に考えた人間は、きっと正しいことをした経験がない。
あるいは、周囲に恵まれていたのだろう。
少なくとも、佐伯悠斗の二十九年間において、正しさが何かを解決してくれた記憶はほとんどなかった。
「佐伯君、この資料なんだけどさ」
終業時刻を二十分ほど過ぎた頃、隣の席に座る係長が、申し訳なさそうな笑顔で一枚の紙を差し出してきた。
申し訳なさそうに見えるだけで、本当に申し訳ないとは思っていない顔だった。
「明日の朝までに、数字を確認しておいてくれない?」
悠斗は壁に掛かった時計を見る。
午後五時三十八分。
保育園の迎えに行く同僚たちは、とうに席を立っている。残っているのは、独身者と、断るのが苦手な人間と、仕事をしているふりが得意な人間くらいだった。
「明日の朝ですか」
「うん。上から急に言われてさ。俺も困ってるんだよ」
困っている人間は、椅子に座ったままコーヒーを飲んだりしない。
だが、そこを指摘しても何も変わらない。
「分かりました」
「助かるよ。佐伯君は仕事が丁寧だから」
褒め言葉というものは、時として鎖になる。
仕事が丁寧だから任せたい。
真面目だから安心できる。
責任感があるから最後までやってくれる。
それらはすべて、仕事を押しつける側にとって都合のいい言葉だった。
悠斗は資料を受け取った。
断ればよかったのだ。
今日は体調が悪い。
予定がある。
明日では無理だ。
理由など何でもいい。
だが、断れば誰かが困る。
その「誰か」が自分に仕事を押しつけている張本人であっても、困っている姿を想像すると、強く拒否できなかった。
結局、悠斗が役所を出たのは午後八時を過ぎてからだった。
雨が降っていた。
傘を持っていなかったため、駅前のコンビニで透明なビニール傘を買った。
七百二十八円。
昔は五百円程度だった気がする。
そんなことを考えながらレジ袋を受け取り、店の外へ出る。
スマートフォンには、母親から一件のメッセージが届いていた。
『今年のお盆は帰ってくるの?』
悠斗は歩きながら返信を打つ。
『仕事次第。帰れそうなら連絡する』
本当は、仕事次第ではない。
帰ろうと思えば帰れる。
だが、北海道の実家に戻れば、母は決まって結婚の話をする。
そろそろ相手を見つけなさい。
孫の顔が見たい。
あんたは真面目すぎるから、もっと肩の力を抜きなさい。
最後の一言だけは正しい。
ただし、肩の力を抜く方法を知っているなら、とっくにそうしていた。
横断歩道の信号が青に変わった。
悠斗はスマートフォンをポケットへ入れ、前へ進んだ。
雨音に混じって、誰かの叫び声が聞こえた。
「危ない!」
顔を上げる。
右側から、大型トラックが迫っていた。
赤信号を無視したのか。
ブレーキが利かなかったのか。
運転手の居眠りか。
そんな分析をしている時間はなかった。
視界の端に、小さな赤い傘が見えた。
横断歩道の中央に、女の子が立っている。
年齢は五歳くらいだろうか。
恐怖で動けなくなっている。
考えるより先に、身体が動いた。
悠斗は女の子を突き飛ばした。
直後、全身に衝撃が走った。
痛みは、一瞬だけだった。
身体が宙を舞う。
灰色の空。
透明な傘。
雨粒。
それらが不思議なほどゆっくりと見えた。
道路へ落ちる直前、悠斗は思った。
結局、最後までこれか。
困っている人間を放っておけず、自分が損をする。
女の子が助かったのなら、それでいい。
そう思えたなら、きっと立派だった。
けれど実際に胸の中へ浮かんだのは、もっと醜い感情だった。
――俺は、何のために生きていたんだろう。
仕事をして。
人に気を遣って。
間違わないように生きて。
誰かに嫌われないようにして。
それで最後に残ったものは、何だったのか。
恋人はいない。
家族は遠く離れている。
仕事は、自分が死んでも誰かが引き継ぐ。
役所の机には、飲みかけのペットボトルと、明日までに確認するはずだった資料が残されている。
その資料を見た係長は、何と言うのだろう。
残念だった。
真面目な職員だった。
頼りになる人だった。
そして数週間後には、別の誰かへ同じように仕事を押しつける。
そこで意識は途切れた。
◇
泣き声が聞こえた。
女の声だった。
耳元で何度も名前を呼ばれている。
「ルシアン様」
知らない名前だ。
「ルシアン様、どうか目を開けてください」
誰のことだろう。
まぶたを開く。
最初に見えたのは、金色の模様が描かれた天井だった。
病院ではない。
少なくとも、日本の病院ではあり得なかった。
天井から巨大なシャンデリアが下がっている。
窓には深い青色のカーテン。
壁際には、大人が横になれるほど大きな暖炉があった。
「ルシアン様!」
少女が顔をのぞき込んでくる。
十七、八歳ほどだろうか。
焦げ茶色の髪を白い布でまとめ、黒い服の上から白いエプロンを身につけている。
いわゆる侍女だ。
現代日本でこの服装をしていれば、コンセプトカフェの店員だと思うところだった。
「聞こえますか? 私が分かりますか?」
少女は泣いていた。
目の縁を赤くし、悠斗の手を両手で握っている。
その手が小さい。
違う。
彼女の手が小さいのではない。
自分の手が小さいのだ。
「……誰」
声が出た。
高い。
幼い子どもの声だった。
少女の表情が凍る。
「私が……分からないのですか?」
分かるはずがない。
悠斗は自分の手を見る。
白く、細い指。
明らかに成人男性のものではない。
掛け布団をめくろうとした瞬間、頭の奥に激痛が走った。
「ぐっ……!」
「ルシアン様!」
少女の声が遠ざかる。
知らない映像が、濁流のように頭へ流れ込んできた。
広大な庭。
石造りの屋敷。
怖い父親。
優しい兄。
無関心な兄。
顔の見えない母親。
馬。
落下。
地面。
痛み。
そして、暗闇。
記憶の持ち主の名前は、ルシアン・アルヴェルト。
アルヴェルト公爵家の三男。
八歳。
昨日、乗馬の訓練中に馬から落ち、頭を強く打った。
医師からは、今夜が峠だと言われていた。
「冗談だろ……」
日本語で呟く。
「何とおっしゃいました?」
侍女には理解できなかったらしい。
そのことが、かえって現実味を与えた。
交通事故。
死。
別人の身体。
異世界。
転生。
物語なら何度も読んだことがある。
だが、自分が体験したいと思ったことは一度もない。
不思議な力を手に入れ、剣と魔法の世界で活躍する。
文章にすれば楽しそうだ。
実際に放り込まれてみれば、知らない家で、知らない人間に囲まれ、自分の身体すら自分のものではない。
楽しい要素など一つもなかった。
「ミリア」
口から自然に名前が出た。
目の前の少女の名前だ。
記憶の中にある。
「はい」
ミリアは泣きながら笑った。
「よかった……。私のことを覚えておいでなのですね」
「少しだけ、頭が混乱している」
八歳の子どもにしては不自然な話し方かもしれない。
しかし、幼い演技をしろと言われても無理だった。
「医師を呼んでまいります」
ミリアは立ち上がると、慌ただしく部屋を出ていった。
一人になる。
悠斗――今はルシアンと呼ぶべきなのだろう――は、天井を見上げた。
「本当に、死んだんだな」
声に出してみる。
悲しいのかどうか、自分でも分からなかった。
母は泣くだろう。
父も、たぶん泣く。
職場では黙祷くらいしてくれるかもしれない。
助けた女の子は無事だっただろうか。
確かめる方法はない。
もう戻れないのだろう。
涙は出なかった。
悲しむよりも先に、状況を整理しようとしている。
昔からそうだった。
何か問題が起きると、感情を後回しにする。
正しく処理するために。
事故の時でさえ、トラックが赤信号を無視したのか、ブレーキが壊れたのかと考えていた。
「正しい人間は、だいたい損をする」
前世で学んだ唯一の教訓を、改めて口にする。
今度の人生では、もう少し自分勝手に生きよう。
困っている人間がいても、すぐには手を差し伸べない。
誰かの期待に、無条件で応えない。
自分の人生を、自分のために使う。
そう決めた直後だった。
扉の外から足音が聞こえた。
一人ではない。
ミリアが戻ってきたのだろう。
しかし、部屋へ入ってきたのは、初老の医師とミリアだけではなかった。
黒い礼服を着た男が、二人を従えるように歩いてくる。
背が高い。
年齢は四十代半ば。
黒髪に白いものが混じり始めている。
鋭い目。
顎には短く整えられた髭。
ルシアンの記憶にある父親。
アルヴェルト公爵、クラウス・アルヴェルトだった。
「目を覚ましたか」
第一声は、それだけだった。
心配していた。
無事でよかった。
そうした言葉はない。
父親らしい感情も、表情には浮かんでいなかった。
「はい、父上」
ルシアンが答えると、公爵はわずかに眉を動かした。
「受け答えはできるようだな」
医師がベッドの脇へ来る。
目を確認し、頭へ巻かれた包帯に触れ、いくつか質問をした。
名前。
年齢。
家名。
今日の日付。
名前と年齢は答えられた。
日付は、記憶を探りながら答える。
「大きな問題はなさそうです」
診察を終えた医師が言った。
「ただ、頭を強く打っております。記憶に一時的な混乱が生じる可能性がありますので、しばらくは安静に」
「いつから剣術の訓練へ戻せる」
公爵が尋ねた。
ルシアンは思わず父親を見る。
医師も一瞬、言葉を失った。
「少なくとも、一か月は激しい運動を避けるべきかと」
「一か月か」
公爵は不満そうに呟く。
息子が生き返った直後に心配するのが、訓練の遅れ。
前世の上司を思い出した。
病気で休んだ部下に対し、体調より先に仕事の進捗を聞く人間は、世界が違っても存在するらしい。
「医師の指示に従え」
公爵はルシアンへ言う。
「今回の件で、秋の披露式に遅れが出ることは許さん」
「披露式……」
記憶を探る。
八歳になった貴族の子どもが、王都の神殿で魔力の属性を調べられ、社交界へ紹介される儀式。
ルシアンの披露式は三か月後に予定されている。
「アルヴェルトの名に恥じぬようにしろ」
「はい、父上」
公爵は頷く。
それで会話は終わった。
部屋を出ていこうとした父の背中を見ながら、ルシアンは奇妙なことに気づく。
公爵の頭上に、薄い黒色の文字が浮かんでいた。
目を凝らす。
文字は、煙のように揺れている。
読めそうで読めない。
「父上」
思わず呼び止めた。
公爵が振り返る。
「何だ」
その瞬間、文字がはっきりと見えた。
――選ばなかったことを、死ぬまで悔いる。
「……いえ」
ルシアンは首を振った。
「何でもありません」
公爵は怪訝そうな顔をしたが、それ以上は何も言わず、医師と共に部屋を出ていった。
黒い文字も消える。
見間違いだろうか。
頭を打った影響で、幻覚が見えているのかもしれない。
「ミリア」
「はい」
「今、父上の頭の上に何か見えなかった?」
「頭の上、ですか?」
ミリアは扉の方を見る。
「何もございませんでしたが……」
「そう」
「やはり、まだお加減が」
「大丈夫」
少なくとも、痛みはない。
幻覚を見る病気が大丈夫かどうかは別だが。
ミリアが薬を用意している間、ルシアンは記憶を整理した。
アルヴェルト公爵家は、王国でも有数の名門だ。
北部に広大な領地を持ち、代々、国境防衛を担ってきた。
しかし、現在は財政が悪化している。
三年前に大規模な冷害が発生し、領内の農作物が壊滅的な被害を受けた。
その復興費用に加え、王都の貴族との権力争いもある。
表向きは華やかだが、家の内側には余裕がない。
そして、三人の息子がいる。
長男、アレクシス。
十八歳。
次期公爵として育てられている。
容姿端麗で、剣術にも政治にも優れ、使用人からの信頼も厚い。
次男、レオン。
十六歳。
頭の回転が速く、社交界での立ち回りが巧みだが、ルシアンとはほとんど会話をしない。
三男、ルシアン。
八歳。
魔力も剣術も、今のところ目立った才能はない。
記憶の中のルシアンは、父を恐れ、長男を慕い、次男を避けていた。
「ルシアン」
扉の外から声がした。
公爵とは違う、柔らかな声だった。
返事をするより早く、金髪の青年が部屋へ入ってくる。
アレクシスだ。
柔らかな金髪。
青い瞳。
絵本に登場する王子を、そのまま現実へ出したような容姿をしている。
黒を基調とした服には細かな金糸の刺繍が施されていた。
「目を覚ましたと聞いた」
アレクシスはベッドの傍らへ座る。
「心配したぞ」
そう言って、ルシアンの頭へ手を伸ばしかける。
だが、包帯に気づき、途中で手を止めた。
「痛むか?」
「今は大丈夫です」
「そうか」
兄は安心したように笑った。
父親と違い、心から心配しているように見える。
ルシアンの記憶でも、アレクシスは優しい兄だった。
忙しい中でも勉強を見てくれた。
父に叱られた時には、後から慰めてくれた。
乗馬を始めたのも、兄に憧れたからだった。
「馬が急に暴れたと聞いた」
アレクシスの表情が曇る。
「お前の馬は普段、大人しい。念のため、厩舎の者に調べさせている」
「事故ではないと?」
「まだ分からない」
アレクシスは周囲を確認し、少し声を落とした。
「だが、我が家には敵が多い。今後は一人で行動するな」
八歳の子どもを狙う敵。
転生直後としては、あまり歓迎したくない話だった。
「兄上は、誰かに命を狙われたことがありますか?」
「ある」
アレクシスはあっさりと答えた。
「毒を盛られたことも、狩りに見せかけて矢を射られたこともある」
「平然と言いますね」
「慣れたくはないが、慣れなければ生きていけない」
兄は笑った。
優しい笑顔のままだった。
だからこそ、少し怖かった。
この世界では、十八歳の青年が毒殺未遂を日常のように語る。
前世の常識は、役に立たないかもしれない。
「怖くないのですか」
「怖いさ」
アレクシスは窓の外へ視線を向けた。
「だが、私が逃げれば、この家を守る者がいなくなる」
「父上がいるでしょう」
「父上は、いつまでもお元気ではない」
その声音には、わずかな疲れがあった。
完璧な跡継ぎ。
誰からも期待される長男。
ルシアンは、前世の自分と重なるものを感じた。
期待されると断れない。
頼られると無理をする。
真面目な人間ほど、周囲から「まだ大丈夫だ」と思われる。
「兄上」
「何だ?」
「嫌なら、逃げてもいいと思います」
アレクシスが目を丸くした。
ルシアン自身も、なぜそんな言葉を口にしたのか分からなかった。
前世の自分へ言っているのかもしれない。
「家より自分の方が大切です」
「それを父上の前で言うなよ」
アレクシスが吹き出す。
「今度は馬ではなく、父上に窓から投げられるぞ」
「兄上は助けてくれないのですか」
「一緒に投げられるのは御免だ」
「薄情ですね」
「次期公爵は、損得を考えなければならないんだ」
初めて、自然に笑えた。
異世界へ来てから、初めてだった。
この兄なら信頼できる。
少なくとも、今はそう思えた。
その瞬間。
胸の奥が強く脈打った。
「……っ」
視界が暗転する。
ベッドも、部屋も、兄の姿も消えた。
代わりに、雨の音が聞こえる。
知らない場所だった。
石造りの小さな部屋。
窓の外では激しい雨が降っている。
成長したアレクシスが、床に膝をついていた。
今より少し年を重ねている。
二十代半ばだろうか。
白い服が血に染まっている。
腕の中には、誰かが抱かれていた。
顔は見えない。
黒髪の少年。
身体は動いていない。
アレクシスは震えていた。
「ごめんな」
泣いている。
穏やかで、何事にも動じない兄が、子どものように泣いていた。
「ごめんな、ルシアン」
自分の名前だった。
「これしか……家を守る方法がなかった」
兄の手には、小さな銀色の瓶が握られていた。
瓶の口から、紫色の液体が一滴落ちる。
床へ触れた瞬間、煙が上がった。
毒。
直感的に分かった。
「俺が、もっと早く――」
映像が途切れた。
◇
「ルシアン?」
現実へ戻る。
アレクシスが心配そうに顔をのぞき込んでいた。
「どうした。顔色が悪いぞ」
「今のは……」
「今?」
部屋は変わっていない。
ミリアは少し離れた場所で薬を準備している。
時間も、ほとんど経過していないようだった。
夢ではない。
あまりにも鮮明だった。
雨の冷たさ。
血の匂い。
兄の声。
すべてが、今も身体に残っている。
そして、兄の頭上に黒い文字が浮かんでいた。
今度は、はっきりと読めた。
――人生で最も深い後悔。
文字がほどけるように消えていく。
父親の時に見えたものも、同じだったのだろうか。
選ばなかったことを、死ぬまで悔いる。
父親が最も後悔する出来事。
では、先ほどの映像は。
未来のアレクシスが、ルシアンへ毒を使ったことを後悔していた。
兄が、自分を殺す。
そういう意味なのか。
それとも、毒を使った相手は別人なのか。
顔は見えなかった。
黒髪の少年というだけだ。
しかし、兄は確かに「ルシアン」と呼んでいた。
「大丈夫です」
ルシアンは答える。
声が少し震えた。
信じたい。
優しい兄だ。
今も本気で心配してくれている。
だが、人間は変わる。
家を守るためなら、弟へ毒を使う人間になるのかもしれない。
あるいは、使わざるを得ない状況へ追い込まれるのかもしれない。
未来の一場面だけでは、何も分からない。
分からないからこそ、怖かった。
「本当に大丈夫か?」
兄が手を伸ばす。
ルシアンは反射的に身体を引いた。
アレクシスの手が、空中で止まる。
一瞬だけ、傷ついたような表情をした。
「……すみません」
「いや」
兄は手を下ろした。
「目を覚ましたばかりだ。疲れているのだろう」
誤解させた。
前世でも、よくあった。
傷つけるつもりはなかった。
だが、正直に理由を言えるはずもない。
あなたが未来で私に毒を使うところを見ました。
そんなことを言えば、頭の傷を心配されるか、狂人として扱われる。
「兄上」
「何だ?」
「明日も、来てくれますか」
アレクシスは少し驚いた後、笑った。
「もちろんだ」
その笑顔を見ても、先ほどの映像が頭から離れなかった。
兄は立ち上がる。
「今日は休め。明日の朝、また来る」
「はい」
扉の前まで歩いたアレクシスが、何かを思い出したように振り返る。
「そうだ。明日は、南方から届いた茶を持ってこよう」
「お茶?」
「珍しい花を乾燥させたものらしい。香りが良いと評判だ」
銀色の瓶。
紫色の液体。
毒。
映像が脳裏によみがえる。
「兄上」
ルシアンは呼び止めた。
「明日の朝、紅茶は飲まないでください」
アレクシスが首を傾げる。
「なぜだ?」
理由などない。
少なくとも、説明できる理由は。
未来で兄が使っていたのは毒だった。
明日の茶とは関係がないかもしれない。
ただの偶然かもしれない。
だが、胸騒ぎがした。
「私が……嫌いだからです」
「南方の茶を飲んだこともないだろう」
「今、嫌いになりました」
「随分と理不尽だな」
「弟のわがままです」
アレクシスはしばらくルシアンを見つめていた。
やがて、困ったように笑う。
「分かった。明日は飲まない」
「絶対にですよ」
「ああ。約束する」
兄は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
ルシアンは大きく息を吐いた。
「どうして紅茶を?」
ミリアが不思議そうに尋ねる。
「何となく」
「アレクシス様が楽しみにしておられたのに」
「嫌な予感がするんだ」
「予感、ですか」
ミリアは心配そうな顔をする。
頭を打った子どもが未来を予感したと言えば、当然の反応だろう。
「忘れて」
「承知しました」
そう答えたミリアは、明らかに忘れるつもりがなさそうだった。
薬を飲み終え、ミリアが退出する。
部屋に静寂が戻った。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めている。
先ほど見た未来と同じ雨。
ルシアンは自分の胸へ手を当てた。
一日に一度。
誰かの人生で最も深く後悔した瞬間が見える。
なぜか、そう理解していた。
誰かに説明されたわけではない。
頭の中に、最初から知識がある。
父を見た時、文字だけだったのは、能力が完全に発動しなかったからかもしれない。
兄を見た時には、未来の光景まで見えた。
この力は何なのか。
なぜ自分に与えられたのか。
あの未来は確定しているのか。
何も分からない。
ただ、一つだけはっきりしていた。
この家では、誰かが何かを隠している。
父も。
兄も。
おそらく、まだ会っていない次兄も。
そして、事故死した八歳のルシアンも。
「今度こそ、自分のために生きる」
誰もいない部屋で呟く。
前世のように、正しいだけの人間にはならない。
家族だからと無条件で信じない。
困っているからと、自分を犠牲にしない。
自分を殺すかもしれない兄からは距離を取る。
そう決めた。
それなのに。
翌朝、兄が飲むはずだった紅茶から毒が見つかった時。
ルシアンは誰よりも先に、アレクシスの部屋へ走っていた。
結局、人間は死んだ程度では変われない。
それを知るのは、もう少し後のことだった。




