第9話「甘い香りと理性の防壁」
涙が枯れるまで泣き続けたシエルの身体に、異変が起きたのはその直後だった。
極限の恐怖から解放され、ルシアンの強靭な腕の中で絶対的な安心感を得たことが引き金となったのだろう。
シエルの内側で、これまで経験したことのない異常な熱が唐突に生み出され、血液を沸騰させるように全身へと駆け巡り始めたのだ。
視界が熱を帯びた水面のようにぐにゃりと歪み、脳の芯が溶け出すような強い眩暈が襲いかかる。
自らの口から吐き出される息が、信じられないほど高温になっているのがわかった。
そして何より、部屋の空気が一変していた。
極寒の北の大地には絶対に存在しないはずの、熟れきった果実を煮詰めたような、むせ返るほど甘く濃厚な香りが、シエルの身体の奥底からとめどなく溢れ出していたのだ。
『これは……まさか、発情期……?』
シエルは自分の身体に何が起きているのかを理解し、残されたわずかな理性で血の気を引かせた。
Ωに周期的に訪れる発情期は、本来であればもっと緩やかに予兆が現れるはずのものだ。
しかし、長年の抑圧から解放され、運命の相手とも呼べる強大なαの庇護を本能が感知したことで、抑え込まれていた機能が爆発的に目覚めてしまったのに違いなかった。
シエルを抱きしめていたルシアンの身体が、岩のように硬直するのがわかった。
ルシアンの喉の奥から、無意識のうちに漏れ出た獣のような低い唸り声が響く。
強大なαにとって、至近距離で放たれる発情期のΩの香りは、理性を焼き尽くす猛毒に等しい。
ルシアンの呼吸が荒くなり、シエルの肩を掴む指の力がわずかに強くなる。
本能が、目の前にいる無防備なΩを組み敷き、己の刻印を刻み込むことを激しく要求しているのだ。
「ルシアン、さま……離れて……ください……」
シエルは熱で溶けそうな意識を必死につなぎ止めながら、震える両手でルシアンの分厚い胸板を押し返そうとした。
このままでは、ルシアンは理性を失い、ただ本能のままに自分を貪る野獣となってしまう。
恐怖よりも、ルシアンの誇り高い理性を自分の存在が壊してしまうことへの罪悪感が、シエルの胸を締め付けた。
だが、ルシアンはシエルの懇願を聞いて、逆にその腕の拘束を解き、大きく後ろへと跳びすさった。
激しい息遣いを繰り返し、額には大粒の汗を浮かべている。
金色の瞳孔は縦に細く収縮し、αとしての闘争本能が限界まで高まっていることを示していたが、ルシアンはギリギリのところで己の精神を支配し続けていた。
彼は拳から血が滲むほど強く手を握り込み、自らの本能に対して鉄の意志で手綱をかける。
「……すまない。私がそばにいると、君の熱を煽ってしまう」
ルシアンは搾り出すようなかすれた声でそう告げると、ふらつくシエルの身体を抱き上げ、寝室の奥にある巨大なベッドへと静かに横たえた。
シーツの冷たい感触が、火照りきったシエルの肌にわずかな安らぎを与える。
ルシアンはすぐさま部屋の窓を少しだけ開け、凍てつく冬の風を室内に招き入れた。
冷気が甘い香りを中和し、ルシアン自身の加熱する脳を冷やすための緊急処置だった。
その後、ルシアンは洗面台から冷水の入った鉢と清潔な布を持ち出し、ベッドの傍らに座り込んだ。
水で濡らし、固く絞った布が、シエルの熱を持った額と首筋にそっと当てられる。
αとしての獰猛な本能が渦巻いているはずなのに、シエルに触れるルシアンの手つきは、壊れ物を扱うようにどこまでも慎重で優しかった。
『どうして……こんなに、苦しいはずなのに』
熱に浮かされるシエルの視界の中で、必死に欲望を抑え込みながら看病を続けるルシアンの姿が揺れている。
自らを律し、相手を尊重しようとするその気高い魂の輝きに、シエルの内側で生物学的な本能とは別の、もっと深く純粋な愛情が確かな輪郭を持って形を成していく。
肉体を繋げることだけが番の証明ではない。
この苦痛と熱の渦中で、互いの魂が強く共鳴し合い、欠けていた半身を見つけ出したという確信が、目に見えない光の糸となって二人を強く結びつけていた。
ルシアンの冷たい手が、シエルの汗ばんだ前髪を優しく梳いていく。
その規則正しいリズムと掌から伝わる不器用な愛情に包まれながら、シエルは抗いがたい熱の波間にゆっくりと意識を沈めていった。




