第8話「過去からの影と震える肩」
城の生活にも慣れ、シエルが日中に厨房へ姿を見せるようになってから、季節は最も深い冬の底へと沈み込んでいた。
外は連日のように猛烈な吹雪が吹き荒れ、分厚い石壁の向こう側から獣の咆哮のような風の音が絶え間なく聞こえてくる。
しかし、地下の厨房だけは例外だった。
巨大な竈の火は赤々と燃え盛り、鍋からは肉と根菜を煮込む濃厚な香りが立ち上っている。
シエルは使い込まれたナイフを握り、手際よく玉ねぎを薄く切り分けていた。
足元には純白の毛並みを持つ巨大な白狼のブランが心地よさそうに丸まり、時折シエルの足首に温かい鼻先を擦り付けてくる。
ルシアンからの無言の許可を得て以来、シエルは自分の食事だけでなく、ルシアンの夕食も担当するようになっていた。
華美な装飾を排し、素材の味を極限まで引き出した温かい料理は、公爵の冷え切った身体を癒すのに十分な力を持っていた。
日々の食事を通じて、二人の間に言葉は少なくとも、確かに通じ合う穏やかな空気が生まれつつあったのだ。
だが、そのささやかな平穏は、一片の紙切れによって無残にも引き裂かれることとなった。
◆ ◆ ◆
昼下がり、シエルが自室で衣類の繕い物をしていると、扉を叩く硬い音が室内に響いた。
入室を許可すると、無表情な使用人が銀の盆の上に一通の手紙を乗せて運んできた。
手紙の封蝋には、見間違えるはずもない、リュミエール伯爵家の百合を象った紋章が深く刻み込まれていた。
それを見た瞬間、シエルの指先から急速に体温が奪われ、周囲の空気が凍りついたように重くなる。
使用人が退室し、分厚い扉が閉ざされる音が、まるで地下牢の鍵をかけられた音のように脳内で反響した。
シエルは震える手を伸ばし、恐怖に抗いながら封蝋を割った。
中から現れた硬い羊皮紙には、義兄の鋭く冷たい筆跡がびっしりと並んでいた。
そこには、シエルを心配する言葉などただの一文字も記されていない。
オズワルド公爵家の財産状況を探り出し、伯爵家の事業に莫大な投資をさせるようルシアンを誘導しろという、卑劣で露骨な命令だった。
もし失敗すれば、出来損ないのΩであるシエルを王都に連れ戻し、さらに過酷な労働を強いる男娼の館へ売り飛ばすという脅迫が、丁寧な敬語の裏に明確に記されていた。
『嫌だ……戻りたくない……』
文字を追うごとに、シエルの視界の端から徐々に色が失われ、暗闇が侵食してくる。
王都の薄暗い厨房で、腐りかけた残飯を漁り、理不尽な暴力と罵声に耐え続けていた日々の記憶が、鮮烈な痛みを伴ってフラッシュバックした。
胃の腑が激しく収縮し、吐き気がこみ上げてくる。
羊皮紙を持つ手が力なく垂れ下がり、手紙が音もなく絨毯の上へ滑り落ちた。
シエルは両手で自分の頭を抱え込み、床に崩れ落ちるようにしてうずくまる。
どれほどこの北の地で温かい料理を作り、ルシアンの不器用な優しさに触れたとしても、自分は結局、実家の呪縛から逃れることのできない哀れな道具にすぎないのだ。
その絶望的な事実が、シエルの心を刃物のように容赦なくえぐり取っていく。
呼吸の仕方を忘れたように肺が空気を拒絶し、喉の奥からひゅうひゅうと擦れるような音だけが漏れ出ていた。
その時、廊下から重く規則正しい軍靴の足音が近づいてくるのが聞こえた。
足音はシエルの部屋の前で止まり、ノックの音もなく扉が勢いよく開け放たれる。
「シエル、先ほど王都からの使者が……」
部屋に入ってきたルシアンは、床にうずくまって激しく震えているシエルの姿を見るなり、言葉を途中で切った。
彼の鋭い視線が、床に落ちている紋章入りの手紙を捉える。
ルシアンは一切の躊躇なくシエルに駆け寄り、その場に片膝をついた。
そして、恐怖で身体を丸めるシエルの細い肩を、両腕で強く、しかし決して痛みを与えないように包み込んだ。
分厚い外套越しに伝わってくる、α特有の力強い体温と、冷たい冬の空気の匂い。
突然の接触にシエルは身を強張らせたが、ルシアンの腕は拘束ではなく、明確な保護の意思を持ってシエルを外敵から遮断していた。
「……手紙の内容は、見なくても想像がつく。あの貪欲な伯爵が考えそうなことだ」
ルシアンの声は、底冷えのするような怒りを孕んでいたが、それはシエルに向けられたものではなかった。
シエルを見下す者たちへの、静かで圧倒的な殺意だった。
「恐れることはない。君はもうオズワルドの人間だ。あの者たちに指一本触れさせはしない。私が、必ず君を守り抜く」
迷いのない、鋼のように強靭な誓いの言葉。
その言葉が耳に届いた瞬間、シエルの中で限界まで張り詰めていた感情の糸が音を立てて弾け飛んだ。
絶対的な庇護者の存在を認識したことで、心の奥底に封じ込めていた恐怖と安堵が一気に溢れ出す。
シエルはルシアンの分厚い胸板に額を押し付け、声を上げて泣き崩れた。
ルシアンはただ黙って、震えるシエルの背中を大きな掌で何度もゆっくりと撫で続けていた。




