番外編「白き獣のまどろみと厨房の記憶」
◆ブラン視点
硬い石の床から伝わってくるわずかな冷気が、鼻先の乾いた皮膚を心地よく刺激していた。
ブランは閉じていた瞳をゆっくりと開け、周囲の空気を深く吸い込む。
鼻腔を満たしたのは、森の湿った土の匂いでも、獲物の血の匂いでもない。
甘く煮崩れた根菜の香りと、肉の脂がパチパチとはぜる香ばしい匂い、そして微かな煙の香りだった。
そこは、城の地下にある巨大な厨房の片隅だ。
ブランにとって、かつては決して足を踏み入れることのない、人間の領域であった場所だ。
しかし今では、この温かく匂いに満ちた空間が、ブランにとって最も安心できる寝床の一つとなっていた。
琥珀色の瞳を巡らせると、巨大な竈の前に立つ小さな人影が見えた。
淡い色の衣服を身に纏い、細い腕を動かして木の板の上で何かを刻んでいる。
トントン、という小気味よい音が、一定のリズムで厨房の空気を震わせていた。
あの小さな人間は、シエルという名前の群れの仲間だった。
初めて出会った猛吹雪の夜、腹部の傷から流れる血の熱と一緒に、自分の命が消えかかっていた時のことを思い出す。
冷たい暗闇の中で、この小さな人間だけが、恐れもせずに近づいてきたのだ。
震える手で傷を塞ぎ、温かく甘い汁を飲ませてくれた。
その汁が喉を通った時の、身体の芯から生き返るような熱の感覚を、ブランは一生忘れることはないだろう。
それ以来、ブランはこの小さな人間のそばを離れることができなくなった。
彼の手から与えられる食べ物は、森で自ら狩る生肉とは全く違う、不思議な旨味と温かさを持っている。
それに、彼の手のひらが頭を撫でてくれる時の、あの柔らかく優しい感触がたまらなく好きだった。
ブランは短く息を吐き出し、前足を伸ばして立ち上がる。
首を振って毛並みを整えると、無音の足取りでシエルの背後へと近づいていった。
シエルの足首に自分の鼻先をそっと押し当てると、シエルは作業を止め、振り返って柔らかい笑みを浮かべた。
「おはよう、ブラン。よく眠れていたね」
言葉の細かい意味まではわからないが、その声の響きが自分を歓迎していることだけははっきりと理解できた。
シエルの手が伸びてきて、ブランの耳と耳の間をゆっくりと掻き撫でる。
ブランは目を細め、喉の奥からゴロゴロという低い音を鳴らしてその心地よさに身を委ねた。
その時、石の階段を下りてくる重たい足音が聞こえてきた。
ブランは耳をぴんと立て、階段の方角へと視線を向ける。
現れたのは、黒い衣服に身を包んだ、ひときわ大きな人間のオスだった。
ルシアンという名前のこの男は、群れの長であり、強大な力を持っていることをブランは本能で理解している。
森の中で何度か遠目に見かけたことがあったが、その時は近づくことすら憚られるほどの鋭い気を放っていた。
だが、この厨房にいる時のルシアンは、牙を抜かれたように穏やかな気配を纏っている。
ルシアンはシエルのそばに歩み寄ると、その細い肩を大きな手で包み込んだ。
「朝から無理をしていないか。冷えるから、もっと厚着をしなさい」
低く唸るような声だが、そこには明確な気遣いの色が混じっていた。
シエルは嬉しそうに目を細め、ルシアンの腕に自分の手を重ねる。
「大丈夫です。火のそばにいるので、とても温かいですよ」
二人の人間が互いに身を寄せ合い、顔を見合わせて微かに笑う。
その姿を見ていると、ブランの胸の奥にも不思議な温かさが広がっていくのを感じた。
この二人の人間は、群れの仲間というよりも、つがいの狼が互いを舐め合って毛繕いをするのと同じ、深い絆で結ばれているのだ。
ただ、人間の愛情表現というのは、どうにも不器用で回りくどいものだとブランは思っていた。
直接鼻先を擦り付けたり、首筋を軽く噛んだりすればすぐに伝わるものを、彼らはわざわざ言葉という音を出し、慎重に距離を測りながら触れ合っている。
特に大きな男の方は、小さな人間に触れる時、まるで薄い氷の上を歩くように動きが硬くなるのだ。
そのもどかしい様子を見るたび、ブランは内心で呆れたようにため息をつきたくなる。
シエルが鍋の蓋を開けると、一気に白い湯気が立ち上り、肉を煮込んだ強烈な匂いが厨房いっぱいに広がった。
ブランの鼻がひくひくと動き、口の中に大量の唾液が湧き出してくる。
シエルは木の器にスープを少しだけ注ぎ、少し冷ましてからブランの足元へと置いた。
「味見をしてくれる? ブラン」
ブランは待っていましたとばかりに器に顔を突っ込み、一心不乱にその温かい液体を舐め取った。
舌の火傷など気にも留めず、肉の旨味と野菜の甘みを喉の奥へと流し込む。
あっという間に器を空にしたと、ブランは満足そうに舌舐めずりをして顔を上げた。
シエルとルシアンが、そんなブランの姿を見て、揃って穏やかな笑い声を上げている。
ブランは再び竈のそばの暖かい床に丸くなり、大きなあくびを一つした。
外の森は相変わらず弱肉強食の厳しい世界だが、この城の地下には、安全で、美味しくて、心が温かくなる場所がある。
鍋がコトコトと煮える音と、二人の人間の穏やかな話し声を子守唄代わりに聞きながら。
白い獣は、再び幸せな微睡みの底へとゆっくりと沈んでいった。




