容疑者
二月十九日。Xデー当日。
夜が明けるのが遅く感じた。
午前五時に目が覚めて、それから布団の中でじっとしていた。天井の染みを見つめながら、今日のことを考えた。
佐藤大輝が死ぬ日。台本にそう書かれている日。
当然、死なせない。
六時になって起き上がり、顔を洗った。鏡に映った自分の顔は、思ったよりひどかった。目の下の隈が濃い。ここ三日ろくに寝ていない。
朝食にトーストを焼いて、コーヒーを淹れた。食パンは二枚。いつもは一枚で済ませるのに、今日は腹に入れておかないといけない気がした。長い一日になる。
食べながら、昨夜から考えていたことを整理する。
容疑者は二人。
織田圭吾。佐藤の上司。三十五歳。独身。佐藤と同じ会社の営業部に所属し、佐藤の直属の上司として一年半前に着任した。
矢島理沙。佐藤の元恋人。二十六歳。出版社で編集の仕事をしている。佐藤とは大学時代から付き合い、半年前に別れた。
遺書の内容から犯人像を推測する。
まず筆跡。遺書は佐藤の筆跡を模倣して書かれている。佐藤の筆跡を知っている人間でなければ不可能だ。織田は上司として佐藤の書類を見る機会がある。矢島は恋人として手紙やメモを交換したことがあるだろう。どちらも筆跡を知りうる立場にいる。
次に動機。
織田の動機として考えられるのは職場のトラブルだ。佐藤は織田の下で働き始めてから、ストレスが増えたと言っていた。ノルマの圧力、飲み会の強要、休日出勤の常態化。パワハラの一歩手前か、あるいは踏み越えているかもしれない。
だがパワハラが殺人の動機になるだろうか。
通常はならない。だが、パワハラの背景に別の事情があるとすれば話は変わる。たとえば、織田が会社の不正に関わっていて、佐藤がそれに気づいた場合。口封じとしての殺人なら動機としては十分だ。
佐藤に確認すべきことが増えた。
矢島の動機はより個人的なものだ。半年前に別れたということは、別れの傷がまだ癒えていない可能性がある。ストーカー化した元恋人が相手を殺す事件は珍しくない。
だが、遺書の内容は理知的で計画的だ。ストーカーの衝動的な犯行とは異なる。矢島が犯人だとすれば、感情的な動機に知的な計画力が加わったことになる。
しかし俺は矢島のことをほとんど知らない。会ったこともない。佐藤から聞いた断片的な情報しかない。
七時半。佐藤に電話した。
「起きてるか」
「寝れなかった。朝の三時くらいから天井を見てた」
「体調は」
「頭が重い。それ以外は大丈夫だ」
「今日の予定を確認する。仕事は」
「今日は日曜だから休みだ。家にいるつもりだった」
「家にいるな。外に出ろ」
「なんで」
「家にいれば密室を作りやすい。外にいればそれが難しくなる。できるだけ人の多い場所にいてくれ」
「わかったけど、どこに行けばいいんだ」
「俺のところに来い。荻窪で合流しよう」
「お前のアパートか」
「いや、駅前のファミレスにしよう。人目があるほうがいい」
佐藤は三十分後に三鷹を出ると言った。
電話を切り、俺は身支度を整えた。
遺書のコピーと、昨夜作ったメモを鞄に入れる。財布、スマートフォン、モバイルバッテリー。それと、念のためにポケットナイフ。護身用だ。
荻窪駅前のファミレスに着いたのは八時半だった。窓際の席に座り、ドリンクバーを頼んだ。
佐藤は九時過ぎに来た。
見るからに消耗していた。顔色が青白く、目が充血している。席に着くなり水を一杯飲み干した。
「河瀬。正直に聞く。俺は今日どうなる」
「何もならない。させない」
「でも、台本通りに来てるだろ。黒猫、練炭。二つとも的中した」
佐藤の声は小さかった。周囲のテーブルを気にしているようだ。日曜の朝のファミレスには家族連れが多い。子供の甲高い笑い声が響いている。
「的中したように見えるだけだ。あれは犯人が自分で仕掛けたものだ。予言じゃなくて、犯人のスケジュールだ」
「頭ではわかってる。でも体が言うことを聞かない。昨夜なんか、自分の部屋にいるのが怖かった。窓の外に誰かいるんじゃないかって、何度もカーテンの隙間を確認した」
「それが犯人の狙いだ。お前を追い詰めて、判断力を奪う。恐怖で動けなくする」
「成功してると思うよ」
佐藤は自嘲気味に笑った。
「佐藤、いくつか聞きたいことがある」
「何でも聞いてくれ」
「織田圭吾について。あいつの経歴を詳しく教えてくれ」
佐藤はコーヒーを一口飲み、少し考えた。
「織田さんは中途入社だ。前の会社は大手の広告代理店。そこを三年前に辞めて、うちに来た」
「辞めた理由は知ってるか」
「表向きはキャリアアップって言ってた。でも噂では、前の会社で問題を起こして居づらくなったって話もある」
「問題?」
「詳しくは知らない。経費の不正処理とか、そんな話を同僚が言ってたのを聞いたことがある。あくまで噂だけど」
経費の不正処理。それが事実で、佐藤がその証拠に近づいたとすれば、動機になりうる。
「佐藤の部署で、経理関係の書類を扱うことはあるか」
「営業だから、経費の精算書類は日常的に扱う。交通費とか接待費とか」
「織田の経費精算書を見たことは」
「見たことはある。部下が上司の書類を確認することはないけど、共有フォルダに入ってるから、見ようと思えば見える」
「最近、織田の経費で何か気になったことは」
佐藤が首を傾げた。
「そういえば、先月、織田さんの接待費が異常に多かった月があった。月に十万を超えてた。普通、うちの規模の会社で接待費が十万を超えることはない」
「それを誰かに言ったか」
「経理の人に雑談で言った。あれ多くないですかって。経理の人も首を傾げてた」
俺は唇を噛んだ。
「それを織田は知ってると思うか」
「わからない。でも、小さい会社だから噂はすぐ広まる。経理の人が確認で織田さんに聞きに行った可能性はある」
仮説が一つ形を取り始めた。
織田が経費の不正処理を行っている。佐藤がそれに気づき、経理に話した。経理が織田に確認した。織田は自分の不正がバレることを恐れた。
口封じの動機だ。
佐藤を殺し、自殺に見せかける。遺書を偽造し、練炭で密室を作る。不正の告発者がいなくなれば、問題はうやむやにできる。
合理的すぎるくらいの動機だ。
「次に矢島理沙について聞きたい」
佐藤の表情が少し曇った。
「元カノか」
「ああ。この前お前は『円満に別れた』と言っていたが、本当か? 別れた経緯をもう少し詳しく教えてくれ」
「大学四年の時から付き合って、就職してからも続いてた。でも半年前、俺から別れを切り出した」
「理由は」
「すれ違い。仕事が忙しくて、会う時間が減って。理沙は会いたがったけど、俺は仕事を優先した。喧嘩が増えて、もう無理だと思った」
「矢島はどう反応した。揉めなかったと言っていたが」
「……最初は泣いて縋ってきた。考え直してって。でも俺が折れなかったら、急に態度が変わった。わかった、って静かに言って、それきり連絡はない」
「それ以降、一度も?」
「一度だけ。三ヶ月前に、荷物を取りに来た。俺の家に置いてた私物を引き取りに。そのときは普通だった。落ち着いてて、笑顔も見せてた」
「俺が前にも指摘した、合鍵のスペアについてだ」
佐藤は少し不満そうな顔をした。
「だから、合鍵なんて作られてるわけがないって。LINE通りにポストに鍵は返ってきてたし」
「三ヶ月前に荷物を取りに来たとき、不審な点はなかったか? その時に鍵をコピーする隙は」
「ない。俺らずっと一緒にいて、荷物まとめてすぐ帰ったから」
「だが、別れる前ならいつでも作れたはずだ」
俺は真っ直ぐに佐藤の目を見た。
「佐藤。矢島はお前の部屋の合鍵を隠し持っている可能性がある。それはつまり、いつでもお前の部屋に入れるということだ」
「でも理沙が俺を殺すなんて——」
「可能性の話だ。合鍵があれば密室が作りやすい。犯人が合鍵を持っていれば、サムターンの糸のトリックすら不要になるかもしれない。鍵で施錠して出ればいいだけだ」
「でも赤い紐は——」
「フェイクの可能性もある。犯人がわざとトリックの証拠を遺書に仕込んで、本当の方法から目を逸らさせているのかもしれない」
佐藤は黙り込んだ。コーヒーカップを両手で包むように持ち、指先が白くなるほど力を込めている。
「合鍵を使って出入りした場合、証拠は残らないのか」
「残りにくい。だが、ゼロではない。防犯カメラがあれば映る。近隣住民が見ていれば証言が取れる」
「うちのアパートに防犯カメラはない」
「近くのコンビニや商店にはあるかもしれない。アパートの前を通る道沿いには何がある」
「コンビニが一軒、二百メートルくらい先に。あとは個人の飲食店がいくつか」
「コンビニの防犯カメラは道路まで映る場合がある。後で確認しに行こう」
ファミレスのウェイトレスがコーヒーのおかわりを持ってきた。佐藤は礼を言って受け取り、砂糖を二つ入れた。手が微かに震えていた。
「河瀬。織田さんと理沙、どっちが怪しいと思う」
「現時点では織田だ。動機がより具体的で、経費の件が事実なら合理的な殺人計画と言える。だが、矢島を除外するのはまだ早い」
「理沙はそんなことしない」
「感情的な判断は今はやめろ。お前の命がかかってる」
佐藤は黙ってコーヒーを飲んだ。
午前十時。俺はもう一つの可能性に触れることにした。
「佐藤。もう一つ聞いていいか」
「なんだ」
「お前の周りで、他に恨みを買いそうな相手はいないか。仕事関係でも、プライベートでも」
「恨みって……俺、そんなに人と揉めるほうじゃないぞ」
「自分では気づいてないかもしれない。些細なことでも、誰かを怒らせた経験はないか」
佐藤が腕を組んで考え込んだ。
「強いて言えば、大学時代のゼミの先輩に一人、ちょっと変わった人がいた。卒業してからも年に一、二回連絡してきて、金を貸してくれって言う。最初は貸してたけど、返ってこないから断るようになったら、急に態度が変わった」
「最近連絡はあったか」
「いや、もう一年以上連絡はない。引っ越して番号も変えたから、多分俺の居場所は知らないと思う」
「その人の名前と顔は覚えてるか」
「名前は覚えてるけど、顔はもう曖昧だ。何年も会ってないし」
「一応覚えておく。現時点では織田と矢島に絞って考えるが、他の可能性も排除はしない」
昼になった。ファミレスでハンバーグの定食を頼んだ。佐藤はオムライスを頼んだが、半分も食べなかった。
「食え。体力がなくなったら判断力も落ちる」
「わかってる。でも入らない」
仕方ない。無理強いはしない。
食後、俺は今日の行動計画を佐藤に伝えた。
「今日一日、お前は俺と一緒にいろ。部屋には帰るな。夜は俺のアパートに泊まれ」
「それでいいのか」
「犯人の計画は佐藤の部屋で実行される前提だ。佐藤の部屋にいなければ計画は実行できない」
「でもいつまでも避け続けるわけにはいかない」
「今日一日持ちこたえればいい。Xデーを過ぎれば、犯人の計画は狂う。台本に書かれた日付で犯行が行われなければ、遺書と日時の整合性が取れなくなる」
「そうか。遺書には日付が書いてあるんだもんな」
「そうだ。二月十九日に死んだと記録されなければ、遺書は偽物だとばれる可能性が高くなる。犯人にとって今日がリミットだ」
佐藤が少しだけ表情を緩めた。
「今日を乗り切ればいいんだな」
「そうだ。今日を乗り切ればいい」
コーヒーのおかわりが来た。三杯目だった。カフェインが体に滲みる。
午後一時。ファミレスの窓から外を眺めていた。
商店街を行き交う人々の中に、不自然に立ち止まっている人影がないか確認する。尾行者がいるなら、佐藤の行動を追跡しているはずだ。
特に怪しい人物は見当たらない。
だが安心はできない。犯人がプロ並みの尾行技術を持っている必要はない。佐藤の行動パターンを把握していれば、荻窪に来ていることくらい推測できる。
三時過ぎ、俺はファミレスを出て佐藤のアパートの周辺を確認しに行くことにした。佐藤はファミレスに残した。
「ここにいろ。動くな。何かあったらすぐ電話しろ」
「わかった。気をつけてな」
中央線で三鷹に向かう。揺れる車内で、遺書のコピーを読み返した。
三日目の記述。
すべてが整い、静寂の幕が上がる。赤い糸が渡し守の船を岸辺に繋ぎ止め、永遠の旅路が始まる。
今日がその三日目だ。だが、台本通りにはさせない。




