種
あれから二人は、徐々に同級生に敬遠されるようになっていった。それでも当時の真梨は、現状に満足していた。千郷さえ側にいれば、彼女は幸せだったのだ。無論、それも邪魔が入らなければの話である。して、周囲に疎まれている彼女たちが、他者から悪意を向けられないはずもなかった。
その日、二人はいつものように中学校に登校した。そこで彼女たちが真っ先に目にしたのは、自分たちの机の天板だった。その表面には、油性ペンで様々な罵詈雑言を書き殴られている。
「学校来んな」
「死ね」
「キモイ」
「自殺しろ」
「なんで生きてるの?」
そんな言葉の数々を前にして、千郷は青ざめた。その身を震わせている彼女が抱いたものは、怒り、悲しみ、悔しさなど様々だ。
「どうして? あーしも、真梨も、何も悪いことしてないのに……」
その一言は、彼女の心情を物語っていた。その傍らで、真梨は唇を噛みしめながらうつむいている。ついに二人は、いじめの標的に選ばれてしまったのだ。しかしこのまま沈黙を貫いても、事態は何も片付かない。
「千郷。除光液、持ってる?」
そう訊ねた真梨は、真っ直ぐな眼差しだった。
「持ってるけど、なんで?」
「油性ペンのインクは、エタノールと除光液で落ちるから」
「そうなんだ。じゃあ、綺麗にできるかもね」
そう答えた千郷は、渇いたような愛想笑いを浮かべていた。ここ数日の出来事を経て、彼女の心は酷くすり減っている有り様だ。彼女はスクールバッグからマニキュアの除光液を取り出し、それを差し出した。除光液を受け取った真梨は、教室の隅に常備されているエタノールを取りに向かう。その様子を傍観していた生徒たちは、露悪的な笑みを浮かべていた。その視線に屈することなく、彼女は黙々と机を拭き始める。されどその顔つきは、底知れぬ怒りを秘めたものであった。
「真梨。あーしがやろっか?」
「……大丈夫。わりと簡単に落ちるはずだから」
「う、うん……」
両者の間に、重苦しい空気が立ち込める。この時、周囲は悪意ある言葉ばかり口にしていたが、その瞬間は二人にとって静寂のようだった。
「……真梨」
「なに?」
「あーし、平気だよ。あーしは大丈夫だから」
千郷はそう言ったが、それが虚勢であることは火を見るよりも明らかだった。言うまでもなく、それは親友をなだめるための発言に過ぎなかった。ところが、それは真梨の心を更に刺激する。
――この瞬間、真梨の脳内で、満身創痍の天使が磔にされた。
天使の流した血の涙は二つの人型を象り、堕天使と悪魔が誕生する。
「このまま、やられっぱなしってわけにもいかないよね。真梨だけじゃなくて、千郷だって被害者なんだから」
「そうだね、堕天使。何か考えはある?」
「当然だよ。真梨がその気になれば、誰も逆らえない。誰にも、真梨を傷つけることはできない。この報いは、必ず受けてもらうよ」
そう――マキャヴェリズムの種が芽を出し始めたのだ。すでに真梨の脳裏では、これからの立ち回りが計算されている。さりとて、今はまだ動き出す時ではない。
「千郷が欠席したら、私は動き出す」
そんな決意を胸にしつつ、彼女は机を拭き終える。誹謗中傷の言葉はかき消えたが、机の天板には黒ずんだインクの痕跡が残っている。
「……千郷」
「なに?」
「安心していいよ。私がなんとかして、アイツらを止めてみせるから」
その心に覚悟を宿し、真梨は宣言した。
その日の放課後、彼女は職員室を訪ねた。怪訝な顔をする教師に対し、彼女は言う。
「すみません、先生。家庭科室に忘れ物をしました。鍵を貸してください」
事情を知らない教師は、一切の躊躇なく彼女に鍵を貸した。その判断は、彼の最大の過ちである。
――真梨が家庭科室の鍵を借りたことは、後に凄惨な事件の布石となる。