第56話「影踏み」
春節を迎えた桃花郷では、夜を徹して盛大な祭りが続いていた。
霧恩寺の境内にも、遠くから銅鑼や太鼓の音が響いている。
色鮮やかな紙で彩られた水晶灯が軒先を照らし、浮かれた人々の声が凍てつく夜気を震わせていた。
そんな賑わいから一人離れて、玄慈老師は寺の戒壇へと降りていく。
「穆焔よ、もうすぐ白耀商会が来る。身体は十分に清めたかな?」
体力も精も搾り尽くし、十二分に弱らせた。
身柄の引き渡しの際に抵抗されないために、なくてはならない工程だ。
「……穆焔?」
しかし、焔からの返事はない。
玄慈老師は怪訝そうに眉を顰め、水晶灯を掲げた。
淡い光に照らし出されたのは、鎖を解かれた無人の柱。
乾いた排泄物と血だけが、床に広がっている。
「何っ!? どこへ行った……っ、外へ逃げたか!?」
玄慈老師は焔を探して、その場で暫し狼狽える。
水晶灯に照らされて伸びた老師自身の大きな影――
その影が戒壇を一周した時、背後に異様な気配が立った。
(……殺気!)
玄慈老師は鉄扇を構え、楽面の舞動作で身を翻す。
刃は音を立てて空を切り、鉄扇は柱に突き刺さった。
「誰もいないじゃとっ!? そんな筈は――」
その時、天井に掛かる玄慈老師の影が不自然に揺らめき、形を変える。
いつの間に現れたのか、赤黒い毛皮の異形が玄慈老師を見下ろしていた。
「な……誰だ貴様は……! まさか……お主は战斗羊か……!?」
「…………」
天を衝く二本の巨大な角に、獰植物のような鋭い鉤爪。
赤い瞳は闘志を湛え、静かに熱く揺らめいている。
二メートル、百キロ以上はあるであろう異形に対し、玄慈老師は恐怖で身を竦ませた。
背後に開いた出口に向かい、助けを呼ぼうと息を吸い込む。
その瞬間、異形は天井を強く蹴り、合わせた両掌を玄慈老師の口に深く突き入れた。
「――はぐぁっ!?」
太く鋭い十指が柔らかな喉を突き破り、項へと抜ける。
異形は両腕を高く掲げ、玄慈老師の身体をゆっくり持ち上げた。
「……あ゛、が……ぁ……っ!」
頬の肉が裂ける音と共に、異形の両腕を鮮血が伝う。
異形の左目が爛々と輝き、左の口角が僅かに上がる。
「くふっ、うふふっ、汚い血! 焔、こいつがうぬを泣かせた下衆か?」
異形の口から放たれたのは、無垢であどけない少女の声。
「うん……そうだよ姉さん。この人のことを覚えていない?」
その声を追いかけるように、異形は低く、穏やかに答える。
まるでひとつの身体にふたりの魂が存在しているかのような違和感に、玄慈老師は目を見開いた。
「ええ? ふふふっ……こんな老い耄れは知らないのだ」
「……あははっ、そうだよね。覚えてなくても仕方ないか」
「きゃははっ! そーれぇ、高いたかーいなのだー!」
「ふふっ、ふふふふっ、無邪気で可愛い……確かにそうだ……高い高い……!」
玄慈老師は破れた喉から、異形に向けて小さく呻いた。
「ヴぅ……ヴー……イェン……ッ……?」
楽しそうに囁き合う声はピタリと止まり、異形はゆっくり目を細める。
静寂の中で聞こえてくるのは、肘から滴る血液の音だけ。
「……汚い口が、姉さんの名を呼んでくれるな」
「ぁ……っ、はがあぁ……っ!?」
異形は徐に合わせた両掌を返すと、まるで扉を開くかのように左右にゆっくり押し広げていく。
「……怒面、地獄門」
呟きと共に、異形は両腕を勢いよく開く。
骨が砕ける音と共に、水音を立てて玄慈老師の頭が真っ二つに裂けた。
力を失った身体が、異形の足元に崩れ落ちる。
動かなくなるまで見つめながら、異形は穏やかに囁いた。
「……姉さん、お祭り見たくない?」
「おまつり?」
「今から行こうか。子供の頃みたいに一緒に歩いて」
「行くっ、お祭り見るの初めてなのだ!」
甘く、優しく、悲しいほどに噛み合わない姉弟の会話。
異形は肩を震わせて、クスクスと笑いながら戒壇を出る。
一方その頃、玄慈老師の傍仕えである静は、長い境内の廊下を急ぎ足で歩いていた。
「玄慈老師に伝えなければ。赤羊峰が蒼く眩く輝いていたと」
そしてふと、視界の端で黒い影が揺れたような気がする。
微かに漂う血の匂いを感じ、静は身を震わせ歩みを止める。
「…………!?」
腰から鉄扇を抜いて構えるが、どこを見ても誰もいない。
聞こえるのは、春節を祝う祭囃子だけ。
「……ふう、気のせいか」
静は鉄扇を振って閉じると、再び廊下を歩いていく。
その横で、中庭の木々が風もないのにザワザワと音を立てて揺れていた。
郷では春節を祝い、多くの人々が夜中まで祭りを楽しんでいる。
色とりどりの灯りの下を、笑顔で歩く子供たち。
その中を、巨大な異形がユラリ、ユラリと歩いていく。
人々の視線の合間を縫って、まるで子供の影踏みのように。
誰にも見られず、気付かれず、顔を朗らかに綻ばせて。
「見ろ、あの空を。星が輝いて綺麗なのだ」
「導の星だね。雲が晴れていてよく見える」
ふと、異形は立ち止まり足元を見る。
飴をしゃぶった幼い子供が異形をじっと見上げていた。
異形もまた子供を見下ろし、数秒、互いに見つめあう。
「焔、何してるのだ。早く行こう?」
「あ、うん……そうだね、姉さん」
異形は何事もなかったように顔を背け、郷の出口へ向かって再び歩き始める。
呆然と立ち尽くす子供に気付き、隣の母親が首を傾げた。
「ボーッとして、どうしたの? 早く寺へ行かないと、踊りが見られなくなっちゃうよ?」
「お母ちゃん……战斗羊がいた。夜伽話の战斗羊」
人々が行き交う雑踏に向けて、子供は異形の背を指さす。
遙か遠くで黒い巨体が、ユラリユラリと揺れていた。
「ねえーお母ちゃん、战斗羊もお祭りに来るんだねー」
「そうねぇ……お祭りの音が気になって、郷に遊びに来たのかもねぇ」
異形は祭りの中を抜け、郷の出口へと歩いていく。
背後では銅鑼や太鼓が鳴り、楽しげな祭囃子が遠ざかっていく。
異形は腹を抱え、ケラケラと肩を揺らして笑った。
「きゃははっ、面白いっ! まさに楽しい影踏みなのだ。誰も我らが見えていないぞっ!」
「死角を渡り歩いてるからね。さっきの子供にはバレちゃったけど……」
「して、焔、我らはこれから何処へ行くのだ。お家はとっくに通り過ぎたぞ?」
「うん……新しいお家へ引っ越そうね。姉さんはこれから、何処へ行きたい?」
郷から一歩外へ出た途端、凍てつく風が吹きすさぶ。
異形を覆う赤黒い装甲が、黒い粒子の霞となってサラサラと剥がれ落ちていく。
霞の中から現れたのは、逞しい巨躯の男と、その傍らに立つ小さな少女。
英雄の子である稀有な双子、穆焔と穆煙。
ふたりの全身には、ツタのような黒い痣が刻まれていた。
遡ること半日前。
戦いを終えた赤羊峰にて――
雲海が晴れ、その彼方から黄金に輝く朝日が昇る。
長く続いた夜が終わり、赤羊峰の頂上に静かな夜明けが訪れていた。
焔は深く息を吐き、重い瞼をゆっくりと開く。
身体に覆い被さる、小さな温もり。
幼い姿となった煙が、焔の肩口に舌を這わせていた。
「う……姉さん……何してるの……」
煙はピクリと肩を揺らし、何事もないように顔を上げる。
「おはよう、焔。さっさと起きろ」
真紅の瞳と雪のように白い肌――
そのあどけない口元は、焔の血で真っ赤に染まっていた。
「早く山門へ行かなければ、兄者たちの見送りができなくなるぞ?」
「……うぐっ……山門……なんの話をしているんだ……?」
焔は困惑しながらも、傷ついた身体を慎重に起こす。
そこでようやく、身体の違和感に気付いた。
「あれ……苦しくない……なんだか、普通に息ができる……」
あれほど深かった肩口の傷が、もう殆ど埋まっている。
浅い呼吸しかできなかった胸の痛みも、僅かに残るだけ。
「うぬの血は桃の味がする。甘くて、ぬるくて、おいちいのだ♪」
「…………」
感じた違和感は、それだけではない。
目の前で笑う煙にも、明らかな異変があった。
四肢の末端が黒く染まり、身体の至る箇所に痣がある。
身長も胸も以前より、少しだけ縮んだように見える。
「姉さん……その姿は……」
「んぅ? 何を言っておる。うぬも我と瓜二つだぞ」
「――え?」
焔は恐る恐る自身の身体へと視線を落とした。
煙と同じように身体のあちこちに黒い痣が走っている。
「これは……」
痣を指で押すと、黒い粒子が虫のように蠢く。
皮膚の下へ根を張るように広がる、不気味な痕。
その意味を考えるより先に、煙が焔の胸へ縋りついた。
焔の首筋に吸いつきながら甘える姿は、まるで幼い少女そのもの。
「だいすき、愛してる……もういちどニンゲンをしんじてみるよ……」
「…………」
煙が繰り返す言葉の意味を、焔はすべて理解できない。
焔は煙を胸に抱き、立ち上がって周囲を見回した。
「そういえば、岳は何処にいるんだろうか……」
焔は岳がいたであろう、赤羊峰の頂上へ目を向ける。
天を衝くように聳え立つ、蒼く輝く塔。
硝子片のような砂礫が散らばる中、一本の木が塔の根元に強く絡みついていた。
「なにか引っかかってるのだ」
塔の根元の木を指差して、煙がホニャホニャと可愛らしく呟く。
腕のように伸びた木の枝には、青衛護路衆の衣装の切れ端が絡んでいた。
「…………」
焔は何も言わず、その光景をただただ見つめる。
胸の奥から込み上げる、言い様もない感情に堪えながら。
ふと、まるで何かを拭うように、煙が焔の頬を撫でた。
焔は驚いて目を見開き、視線を眼下の煙に向ける。
「どうした、そんなに悲しい顔して。また何かに怖がって泣いてるのか?」
「泣いてる……そう……? そう見えるかな……」
「泣くな、泣くな焔よ。いじめられても我が一緒に、懲らしめに行ってやるからな」
微笑む煙の語り口は、十一歳の春の日のよう。
焔は地面に膝を付き、煙の身体を両腕で強く抱き締める。
いつまでも、いつまでも抱き締め続ける――
「……苦しい。苦しいぞ焔。少し力を弱めてくれ」
「――はっ!」
くぐもった煙の声を聞いて、焔は慌てて腕の力を弱めた。
背後から聞こえる祭囃子が、今夜の祭りの佳境を告げている。
「潰されるかと思っちゃった」
「あぁ……っ、ごめんね……! 朝のことを思い出してたんだ」
「山の頂上の蒼い塔か? キラキラ光って綺麗なのだ♪」
「…………」
焔は太い眉を顰め、堪えるように唇を噛む。
腕の中では煙がフウと息を吐き、不思議そうに焔を見上げている。
「まだ、何か悲しい?」
「んんー……分からない。こんな気持ちは初めてだから」
「ボーッとしてちゃ駄目なのだ。何処へ行くかを決めなくちゃ」
小さな煙に嗜められて、焔は再び歩き出した。
閉ざされた門を片手でこじ開け、郷の外へ一歩踏み出す。
それから暫く歩いたところで、見知った顔と鉢合わせた。
「……珍しいね。こんな場所でキベルネテスに会うなんてさ」
「希華姉さん……どうして、こんな所に?」
「迎えに来たよ、焔くん。まさか本当に战斗羊になるとは思わなかった」
その言葉で、すべてを察した。
――間違いない、こいつは敵だ。
焔は腰から鉄扇を抜き、武器を持たない希華へ向ける。
同時に、抱かれた煙の腹に亀裂が走った。
裂け目から溢れ出した黒い粒子が、ふたりの全身へと纏わりつく。
やがて黒い粒子の霞が晴れると、そこには赤黒い装甲を纏った巨大な異形が立っていた。
「……ふぅん。歪んだ因習に埋もれてしまった、真の英雄の姿がこれか」
希華は怯える様子もなく、興味深そうに焔と煙の身体を眺める。
「ふたりでひとつのキベルネテス……なるほど、魂の器は煙ちゃんの方だね?」
「キベルネテス……魂の器……? 希華姉さんが何を言っているのか分からない」
「战斗羊は共通言語で機戦羊。外の世界を勉強しないと、煙ちゃんを軍に取られちゃうよ?」
煙を軍に取られる――
その言葉に、焔は思わず黙り込む。
「僕は何もかも知らなすぎる。一体誰が敵なのか、誰が味方で頼ればいいのか」
「ならば白耀商会においで。人で在り続けたいなら、定期的な投薬が必要だ」
希華は战斗羊に背を向けて、伸びをしながら歩き出した。
「ほら、早くおいでよ。キミたちに寝床と仕事をあげる」
「仕事……僕と姉さんに白耀商会で働けと言うのか?」
「警戒してる? キミが思うより商会は、白くてとってもクリーンだよ」
こうして夜伽話の英雄は、郷を離れてチベットへ――
郷を守る存在を失った桃花郷は、雪解けと共に獰植物たちの襲撃に遭い、壊滅した。




