3 はじめての○○
「すまない! もう行かないと」
紅茶を優雅に飲んでいた王子様が、チラリと時計台に目を向けた途端に焦りだした。
現在12時55分。
うーん、1時に待ち合わせってとこかな。
……ってそれはヤバイじゃないですか!
「僕から誘っておきながら突然君を一人にしてしまうとは……あぁっ、なんて……、なんて僕は罪深いんだ!」
〈おれもいるんだが〉
「私たちのことは気にしなくて良いので早く──」
最後まで言い切る前に王子の手が私の頬に添えられた。
えっ。
いきなりのことにピタリと思考が停止した。
その一瞬のうちに、美しいご尊顔が近づいてきて……、
柔らかい何かが頬に、優しくあたる。
まさか、コレって……!
ちゅ、ってリップ音みたいなのが聞こえたけど、コレって……!
「……ふふ。じゃあね、子ウサギちゃん。この埋め合わせはまた今度、またどこかで!」
呆然としているうちに王子様は店員さんに挨拶をして店を出た。
テラス席で頬っぺたを押さえる石像(私)にパチンっとウインクを決め、キラキラを飛ばすと長い脚で颯爽と去って行ったのだった。
「……あ、あ、あ、あーーー!!!」
〈うるさい!〉
全身を襲ったむず痒さに、自分の体を抱きしめてテーブルに突っ伏した。
トラジロウに後頭部を強打されたけど、そんなん気にならないくらいに頭の中でポップコーンが猛烈にハジけている。
「……うぁァあおおん……」
王子様、頬っぺた、頬っぺたにチューですか。
あれですよね、挨拶なんですよね。
ほら、外国でもちゅっちゅってやってるあれですよね。
てか、唇がすんごく柔らかかったけど、どんなケアをしてるんだろう。
もっとリップクリーム塗ろ。
一息ついてからウェイトレスのお姉さんを呼んで、お会計をお願いしたのだけど……。
なんと、もうすでにお支払いが済んでいた。
ええ、王子様が私たちの分まで。
スマート!!! スマート!!!
ステキ……惚れちゃう……って、バカ!
私にはトラジロウがいるのよ!
ちりんちりんと可愛らしいドアベルに見送られて、再び賑わう街へ向かう。
目的の人物はすぐ見つかるだろう。
あんなに目立つ赤い髪で背が高い、超重量級筋肉系男子だ。
〈さてと〉
「気を取り直して」
〈レオンを探すぞ!〉
「はい!」
******
漁師も海鳥も太陽もみんな帰り支度を始め、見晴らしのいい空と雲は茜色に染まっている。
大きな海は空の光をきらきらと反射して、昼間とはまた違った雰囲気だ。
背中を押す強い風に吹かれてマフラーが大きくなびいた。
「トラァ!」
ひらひらと宙に浮く紺色の布に、トラジロウが狙いすましたトラパンチ!
見事一撃で仕留めた獲物を私の膝に押さえつけた。
フッと鼻を鳴らして、こっちを向いてドヤァ。
しかしすぐ我に返ったのか、恥ずかしそうに顔を逸らされた。
「………その顔やめろ」
「ふへ」
ネコ科の本能ってやつですか。
可愛いですね。
現在私達は港の階段に腰掛けている。
もうずっと街を歩き回って精神的にヘトヘトだ。
なんだか体が重くて動けない。
ケーキを食べて太ったとか、そういうのではなくてね。
ここからだと沈みゆく夕陽と海はもちろん、港に並んだ小舟がよく見える。
遠くの方には大きくて立派な帆船。
手がフックの船長が乗ってそうな船だ。
ふと、すぐ近くの小さな漁船が目に留まった。
漁師の親子が何やら作業をしている。
夕陽で世界が赤く染まり、そこにいる息子の姿が真っ赤な髪のアイツと被って見えた。
猫と一緒に海を眺めてサボる息子が父親に頭を殴られた。
イテッ! なにすんだ!
しっかり働け!
にしても殴ることねぇだろ! 痛ぇよ!
ほら帰るぞ。夕飯はママ特製のハンバーグだ。
え、マジで!? イヤッホー!!
にゃー。
心の中で超適当にアテレコしながら、荷物を持って船から降りる二人と一匹の姿をぼーっと眺めた。はぁ……。
膝の上のトラジロウがぽつりと呟く。
〈もう、ダメかもな〉
「ごめん」
〈いや、いいんだ。今となってはどうしようもない〉
「うん……」
結局レオンは見つからなかった。
気配で探ろうにも、人が多すぎて無理だった。
スマホが使えないって本っ当に不便だ。
電話もメールもできないなんて不便だ。
何かと、本当に、不便すぎるぞ異世界!
はぁ……そんなこと言ったってどうしようもないんだけどね。
今思えばさっきの「すぐ見つかる」って、フラグでしかなかったよね。
〈斡旋所に行こう。貴族とやらの船に乗るためにな〉
「……ん。了解!」
切り替えなければ。
時間には限りがある。
いつまでも探してる訳にはいかないのだ。
次の目的地は【豊穣の森】。
地の大精霊グノーモス様にお会いするのだ。
そのためには海を渡る必要があるんだけど……。
ちょっとばかし、問題が発生してしまったのだ。
なんと隣の大陸へ向かう最短ルート上に怪物が現れたそうなのだ。
その名は〈クラーケン〉。
たくさんの物語に登場する恐怖の怪物だ。
巨大な身体で船に絡みついて破壊して、海に投げ出された人間を絞め殺してムシャムシャ。なんて恐ろしい。
私に残された時間はあと25日。
一箇所に使えるのは単純計算で8日。
迂回ルートだと一週間以上かかる。
その場合、予定を大幅にオーバー&魔力回路が大爆発の可能性が半端なく高い。
まぁ、普通なら絶望なこの状況。
あったのだ。たった一隻。
たった一隻だけ、1日で海を渡れる船が。
それは【海竜船】という船だ。
なんと海竜に引っ張ってもらって進むらしい。
めっちゃ速いし、なにより魔物が海竜を恐れて近寄ってこないんだと。
そんなファンタジックな船は、この街に来ている貴族が所有しているらしい。
そしてその貴族の【海竜船】には、主人を守る騎士がいる。
つまりはクラーケンに襲われず、強い人に守られながら安全に、目的地へ最短コースで行ける船なのだ。
うまくいけばその船に乗せてもらえるかも!
と思って、船の斡旋所に来てみたんだけど……。
「ダメだ」
「そ、そこをなんとか」
「ダメなもんはダメだ」
ただいま、担当の人と交渉中。
まぁお察しの通り、交渉とは言ってはいけないレベルだ。
右眼に眼帯を着けた担当のおじさんは私と目を合わせてくれない。
「お金なら、いくらでも払います」
「物分かりの悪い嬢ちゃんだな……。とっとと帰りな」
嬢ちゃんだって! 聞いた!?
そうトラジロウに言おうとして、彼は肩の上にいない事を思い出した。
彼は今、この建物の外で待機中なのである。
理由はこの、なんとも言えない独特な匂いだ。
一言、いや、二言で言わせてもらうと……、とても臭い。
この斡旋所、兼酒場にいるのは屈強な海の男たちばかり。
男の匂いやら、汗やらお酒やら何やらの匂いが混ざり合って、ものすごいことになっている。
雷の精霊さんはかなりデリケートな嗅覚をお持ちで、早々とダウンしてしまったのだ。
いや私だって平気じゃないけどね。
だいぶ鼻が慣れてきたんだよ。
人間ってすごいね。
手持ち無沙汰からかぱらぱらと適当に資料をめくる案内人のおじさんは、はぁ〜とため息を付いて葉巻に火をつけた。
うっ、新しい匂いが……。
「じゃあ、じゃあ、仕事をください。お手伝いさんとか、えっと……お手伝いさんとか」
「それは間に合ってる」
「何でも……、何でもやりますから!」
ダンッとカウンターに両手を付いて、おじさんを睨みつけた。
こんがり日焼けして、いかにも悪い事をやってそうな強面の眼帯おじさんだ。
いつもならビビってしまうけど、これだけは譲れない。
これが大人の余裕というやつなのか、ピクリとも動かず静かに葉巻を吸うおじさん。
腹立つ。すっごく腹立つ。
「……ハァ〜……」
「っ!? ゲッホ、ゴホ、ちょ、最低!」
おじさんの口から、おじさんの口から吐き出された!
葉巻の煙が、ブフォーと、私の顔に!
くっさ! くっさ!
肺ガンになったらどうしてくれるんだこのオヤジ!
しかも、口から!!!
花も恥じらう17歳の乙女に何てことを!!!
マフラーで顔を覆おうにも、それは腰に巻いてある。
このオヤジが私を女の子だと判断したのも、腰に巻いたマフラーがスカートみたいに見えたからだろう。
後ろを向いて大きく深呼吸する。
だが、肺に取り込まれた空気は独特な匂いのアレだ。
またも、咽せた。
「船長ぉ〜、もうそのくらいにしてやったらどぉ〜ですかぁ〜?」
「そおっすよぉ〜、俺たち聞いてて辛いっす〜」
「お嬢ちゃんこっちおいで〜」
酔っ払ったおじさん達が、二階の柵に凭れかかってこちらを見ていた。
陽気な笑顔で手を振られ、私もついついにんまり笑顔になって振り返す。
私に加勢してくれたもんね。
ここは煉瓦造りの大きな二階建ての建物だ。
吹き抜けになった見通しの良い内部は、魔法による灯で昼間のように明るい。
一階には斡旋カウンターと酒場。
二階には行ってないからどうなってるのか知らない。
というか、この眼帯おじさんは船長さんなのか。
「…………」
ふと、酔っ払い達の隣で同じように見下ろしてきていた、一人の男の子と目があった。
中学生くらいの男の子が私を見下ろすその眼は、冷たい。
そんな目で見られるようなこと、一切した覚えがない。
「まだ分かんねぇのか、お嬢ちゃん」
「えっ……」
初めて、コワモテの眼帯オヤジと目があった。
刃物のような鋭い眼差しにびくりと肩が竦んでしまう。
「ここの臭いでダメになるようじゃ乗せられねぇな、お嬢ちゃん」
「でも……!」
「いい加減にしろ!」
「ひッ!」
突然、怒鳴られた。
ガヤガヤとうるさかった酒場が一瞬で静まり返る。
「海は遊びじゃねぇんだ。帰りな」
すくみあがった私を見て、眼帯オヤジにそう言われた。
ここで引き下がるわけにはいかない。
「……じゃない……」
「あ"? 聞こえねぇよ」
「私だって遊びじゃない!」
だけど、こんなに頼んでもダメなら……──計画を変更すればいい。
全員に見せつけるように大きく深く、鼻で呼吸をする。
一瞬、臭いに負けそうになったけど、グッと堪えて我慢。
偉そうにこちらを見る眼帯オヤジの目をまっすぐ見据えた。
そして、ワザとらしく深く深くお辞儀をした。
「もういいです。ありがとうございました」
「おう、お嬢ちゃん。最初からそうしとけ」
酒場の注目を一身に浴びながら、くるりとターン。
声を掛けてくれた酔っ払いおじさん達のいる二階が、何やら煩かったけどそんなのは無視。
ただまっすぐ出口に向かって歩いた。
「トラちゃん、プランBに変更」
〈……了解〉
煉瓦造りの大きな建物の外に出ると、大扉の横で待っていたトラジロウが肩に飛び乗ってきた。
私の匂いをすんすんと嗅いで、ウゲェという顔をする。
マジか、そんなに臭いのか。
お風呂に入りたい。切実に。
体を擦り付けてくるふわふわ青毛玉を撫でて、匂いを嗅いで、お口直しだ。
「レオンいた?」
〈いや〉
「……そっか。んじゃ、準備しよっか」
〈急ごう〉
魔法の街灯が灯る、夜の港街へ向けて歩き出した。
そうして、プランBの実行に向けて準備がスタートしたのだった。
もともとは二人旅だったしね。
〈よし、今だ!〉
「楽勝ですね」
必要な食料とかを揃えたら、息を潜めて港を走る。
森で獲物を狙うがごとく、迅速でスピーディーに。
街灯やかがり火もあるけど、日本と比べたらものすごく暗い。
薄暗いならこっちのもんだ!
「あ、ここならイケそうじゃない? この木箱」
〈狭くないか?〉
「平気だって〜! 楽勝楽勝!」
何隻も船を横切って、忍び込んだのはあの船だ。
貴族様の【海竜船】。
これに乗るのがベストで、たった一つの手段だから。
「ちょ、狭、痛い、痛い痛いってば角刺さってる」
〈あ、すまん〉
何が何でも乗ってやる。
〈……ふぅ〜……〉
「……狭い……お尻と背中が痛い……あと首も……」
密航してでも!




