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ひだまりの約束  作者: 久遠 睦


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第2話 窓辺のひだまり

正午を回ると、店の引き戸がからからと音を立て、常連客たちが吸い込まれるように入ってくる。あっという間にカウンターも小上がりも満席になった。

客の第一声で、その日の調子はだいたい分かる。「いつもの」が弾んでいる日、ため息まじりの日、何も言わずに座る日。美咲は誰の事情も聞かないまま、それに合わせて湯呑みの温度を変え、ご飯の盛りを少しだけ変える。たいしたことではない。けれど、そういう小さな手の動きの積み重ねが、この店の空気を作っているのだと、いつからか分かるようになっていた。

近所の工務店の二人連れは、小上がりに座るなり「いつもの」と声を揃えた。ランチの定番は日替わり定食で、今日は小あじの南蛮漬けと里芋の煮物、小松菜と油揚げの味噌汁。商店街の靴屋の主人は、いつもの席で新聞を広げながら、箸を持つ前に必ず言う。「今日は何がうまい」。美咲は「全部です」と答える。それでは答えになっていないと文句を言われるのも、毎日のことだった。

小上がりの隅には、見慣れない男がひとり座っていた。ダークグレーのスーツに、足元だけが不釣り合いに磨かれた革靴。出張の途中だろう、と美咲は見当をつけた。座布団の脇に置いた鞄から、光沢のある雑誌の表紙がほんの少し覗いている。男は日替わり定食を黙って食べ、味噌汁を飲み干すと、小さな声で「おいしかったです」と言った。それが妙にまっすぐな声で、美咲は思わず「ありがとうございます」と頭を下げた。駅までの道を尋ねられ、戸口まで出て説明した。男は丁寧に礼を言い、足早に去っていった。その背中を見送ったとき、彼女は小上がりの座布団のそばに何かが残されたことには、まだ気づいていなかった。

奥のカウンターには、近所の母親と三歳くらいの男の子が並んでいた。男の子専用の小さな茶碗は、美咲が骨董市で見つけた欠け茶碗を金継ぎしたものだ。男の子は毎回、箸を落とす。毎回、母親が「ごめんなさい」と謝る。毎回、美咲は新しい箸を持っていく。「箸は落とすものなんですよ」と言うと、母親は肩の力を抜いたように笑った。

レールに伝票が並んでいく。煮魚、焼き魚、日替わり、生姜焼き。美咲は火の前に立ったまま、左手で皿を、右手で菜箸を動かし、ほとんど振り返らずに注文を捌いた。カツ、カツ、カツ。まな板の上で小気味よい音を立てて野菜が刻まれる。鍋の蓋が持ち上がり、湯気が天井の梁に向かって昇っていく。そこに焦燥感はなかった。むしろ、体の奥に火が入ったような、心地よい張りがあった。

一度だけ、手が滑りかけた。小上がりの二人連れの生姜焼きが、レールの端で伝票ごと皺になっていた。気づいたのは、盆を持って振り向いたときだ。胸の奥がひやりと冷える。

「お待たせしてごめんなさい、すぐお出ししますね」

美咲は頭を下げ、豚肉をフライパンに滑らせた。五分。その五分のあいだ、背中に刺さる視線を想像してしまう。客は誰も怒っていなかった。工務店の若いほうが「急いでないんで」と手を振り、年配のほうが「焦げ目がついたくらいが好きなんだ」と笑った。それでも、焼き上がった皿を運ぶ手が、わずかに震えた。ミスは誰にでも起きる。そう頭では分かっている。ただ、あの厨房では、ミスひとつで人格ごと切り捨てられた。身体のほうだけが、まだそのことを覚えていた。

会計のとき、工務店の若いほうが、財布を探りながら唐突に言った。

「美咲さんって、結婚とかは考えないんすか」

年配のほうが「おい」と肘で小突く。若い男は慌てて、「いや、悪い意味じゃなくて。こんなにちゃんとした人なのに、もったいないなって」と言い足した。

美咲は、おつりを数える手を止めずに、にこりと笑った。

「ちゃんとしてるから、一人なんですよ」

「え、どういう」

「冗談です。次は、ご飯のおかわりもできますから」

うまく流せた、と思った。笑顔は、仕事の一部だ。戸が閉まったあと、美咲は釣り銭皿に残った十円玉を、しばらく見つめていた。一人でいることを、誰かに説明する必要はない。そう思っているのに、説明しないままでいることに、たまに疲れる。

「こんにちは、美咲さん。日替わり、お願いします」

入ってきたのは、市役所に勤める若い女性、咲さんだった。昼休みは五十分しかないと聞いている。いつもは小走りで来て、いちばん手前のカウンターに座り、食べ終わるとまた小走りで帰っていく。

「今日は小あじですよ。南蛮漬け」

「うれしい。……ここのお味噌汁を飲むと、午後の仕事も頑張れるんです」

そう言って咲さんは、ほっと息をついた。窓口で一日中、誰かの困りごとを聞いている人だ。昼にここで息を整えて帰っていく。それを知っているから、美咲は彼女の味噌汁だけは、少し熱めに仕上げることにしていた。

「窓口の人って、怒られるのが仕事みたいなところがあって」

咲さんは味噌汁の椀に口をつけたまま、小声で言った。

「でも、ここへ来ると、怒られた分だけ戻ってくる気がするんです」

「何が戻ってくるんでしょう」

「うーん。ちゃんとしてる自分、でしょうか」

美咲は返事をせず、小あじを一尾、余分に皿へのせた。咲さんは目を丸くして、それから黙って頭を下げた。言葉にされると照れくさい。けれど、それをただ受け取ってもらえることは、美咲にとって何よりの報酬だった。

客一人ひとりの顔を見て、言葉を交わし、温かい湯気の立つ料理を差し出す。彼女の素朴で実直な料理と、太陽のような笑顔に惹かれて、人々はこの場所に集まってくるのだと、常連たちは言った。美咲自身は、そんなふうには思っていない。笑顔は、いつの間にか覚えた仕事の一部だった。それでも、駅前の大通りから一本入った、決して立地が良いとは言えないこの店が繁盛しているのは、人々が空腹を満たすためだけでなく、心の安らぎを求めてわざわざ足を運んでくれるからなのだということは、分かっていた。

十二時四十分。いちばん混み合う時間が過ぎ、客の背中がひとつずつ減っていく。靴屋の主人が新聞を畳み、「ごちそうさん」と言って席を立つ。戸口で振り返り、店の中を見回した。

「ここも、ずいぶんいい店になったな」

「ありがとうございます」

「昔はな、米屋のばあさんが店先に椅子を出してた。通りかかった年寄りが、茶ぁ飲んで、休んでいく。何を買うでもなくな。わしらガキは、あれが羨ましくてよ」

「靴屋さんも、商店街にそういう場所を作ったじゃないですか」

「わしのは、靴の修理を待つ椅子だ」

靴屋は肩をすくめて笑い、暖簾をくぐった。

工務店の二人連れは、爪楊枝をくわえて出ていった。咲さんは、あれから五分で食べ終えて小走りに去った。残ったのは、最後まで腰を据えていた田中ひとりだ。

「美咲さん」

「はい」

「あんたの味噌汁はな、飲んだら、うちのやつのことを思い出さなくて済む日がある」

美咲は返す言葉を探した。田中は照れ隠しのように湯呑みを持ち上げ、「だからまあ、休めるときは休め」とだけ言い足した。

「……はい」

それだけ答えて、美咲は厨房に戻った。背中の後ろで、田中が財布を開く音がする。千円札をカウンターに置く気配があった。ありがとうございました、と振り向くと、すでに彼の姿は暖簾の向こうにあった。

午後二時、最後の客を送り出して暖簾を下ろす。店の中に静寂が戻る。

戸口に立って、一度だけ空を仰いだ。西の端に、薄く伸びた雲の筋が見える。魚屋の青年の言葉がふと浮かんだが、それは深く考えるほどのことではなかった。向かいの豆腐屋の釜から、白い湯気が細く上っていた。

昼の混雑が去ると、洗い場には茶碗や小鉢が山のように積み上がっていた。美咲は袖をまくり、黙々と一つずつ洗った。皿の裏に指を滑らせ、欠けがないか確かめる。自分の店を始めた年、彼女は一枚の皿を割っただけで息が詰まった。取り返しのつかない失敗をした気がしたのだ。今なら新しい皿を買えばいいと分かる。それでも割れた音を聞くたび、胸の奥で古い警報が鳴る。

店で使っている器は、ほとんどが近所の骨董屋や古道具市で集めた寄せ集めだ。揃いの皿は一組もない。縁の欠けたものは金継ぎをして、小鉢の底に金の線が入っているものもある。割れたら、直す。直せなければ、裏庭に埋める。そう決めてから、割れた音を聞いても息が詰まる時間は少しだけ短くなった。完全には消えない。ただ、消えないものと暮らすやり方を、少しずつ覚えている。

賄いの時間は、いつも遅くなる。残りの煮物と、ご飯と、味噌汁の底に残った分。小鉢に盛って、美咲はカウンターの端に座った。客には熱いものを熱いうちに出せるのに、自分の食事はいつも冷めている。それに気づいたのは、本当に久しぶりのことだった。気づいたからといって、何かを変えるわけではない。冷めた里芋を口に運び、黙って噛んだ。味は悪くなかった。

窓の外から、西日が差し込んでいた。

磨き上げた木の床に長い影が伸びて、空気中の塵がきらきらと光っている。窓辺の席の足元に、ちょうど座布団一枚ぶんほどの光のかたまりが落ちていた。午後のこの時間、この店で最もあたたかい場所だった。「ひだまりどころ」という屋号は、その光のかたまりから付けたものだ。改装中、一人で床を磨いていた日に、そこだけが妙に明るかった。ここで休めばいい、と体が先に思った。そういう場所を、誰かに差し出したいと思った。

この家に初めて入ったのは、四年前の晩秋だった。不動産屋の案内で鍵を開けると、埃の匂いと一緒に、冷たい空気が頬を撫でた。屋根は半分傷み、土間には枯れ葉が積もり、梁だけが黒く光っていた。「取り壊したほうが早いですよ」と不動産屋は言った。美咲は答えず、土間の真ん中に立った。誰も住んでいない家は、静かすぎて耳が痛いほどだった。その静けさを、怖いとは思わなかった。ここなら、と思った。ここなら、誰にも見られずに、もう一度、息を整えられる。

貯金のほとんどと、銀行が貸してくれるだけのお金を使った。師匠にも、東京の誰にも、行き先は告げなかった。

帳簿を開く前に、美咲は柱時計に目をやった。秒針は、変わらない拍で動いていた。

賄いを終えると、帳簿を開く。売上は毎月ほとんど同じ数字に落ち着いていた。大きく儲かりはしない。けれど赤字にもならない。家賃のない暮らしは、思った以上に心を軽くする。借りたお金の返済は、あと九年。その数字を指でなぞって確かめるとき、美咲は不思議と落ち着いた。ここでの暮らしは、計算ができる。計算できるものは、裏切らない。

窓際には、座布団一枚ぶんの西日が残っていた。美咲はカウンターからそれを眺め、冷めた湯呑みを両手で包んだ。誰にも急かされない午後だった。


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