第1話 夜明けの出汁
夜明け前の静寂が、街をまだ深い藍色に染めている頃、美咲の一日は始まった。目覚ましが鳴るのは五時半。けれど鳴る前に目が覚めるのが、ここ三年ほどの習慣になっていた。
東京にいた頃は逆だった。目覚ましを止めるたびに、一日分の重さが胸の上に降りてくる気がした。今は、鳴る前の布団のなかで天井の木目を数え、それから起きる。誰に命じられたわけでもない朝だというだけで、体の動きは驚くほど軽い。
階段を降りると、冷えた木の匂いが足元から立ちのぼる。店の二階が住まいで、階下が店だった。通勤の時間がないことを、美咲は気に入っている。ここへ来たばかりの頃は、部屋を出ればもう仕事場だという暮らしが、逃げ場のなさのようにも思えた。三年が経った今は、ただ都合がいいというだけのことだ。
厨房の明かりをつけ、手を洗う。四月の水はまだ冷たく、指先から順に目が覚めていく。米を量り、研ぐ。最初の水はすぐに捨て、二度目からは手のひらで押すように洗う。白く濁った水が少しずつ澄んでいくのを見ているあいだ、頭のなかは空っぽになる。一日のなかで、いちばん静かな時間だった。
ラジオはつけない。つけていた時期もあったが、天気予報や誰かの笑い声が、まだ眠っている街の静けさに割り込んでくるのが、どうにも落ち着かなかった。代わりに、土間の隅に置いた古い柱時計の秒針だけを聞いている。この家を買ったとき、前の持ち主が置いていった時計で、ねじを巻かなければ止まってしまう。週に一度、止まらないようにねじを巻くのも、美咲の仕事のうちだった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、止まっているよりは、動いている音がある家のほうが、ここで暮らす人間にとって都合がよさそうな気がした。
三十六歳、彼女の世界はこの小さな定食屋「ひだまりどころ」の中にあった。古民家を改装したこの店は、もとは米屋だったと聞いている。大工に任せたのは屋根と水回りだけで、あとは休みのたびに、美咲が自分の手で傷んだ柱を磨き、傾いた建具を直し、土間のひび割れを埋めた。一年かかった。それはどこか、東京でずたずたになった自分の心を手当てする作業と似ていた。削っても削っても芯の残る太い梁を見上げるたびに、彼女は自分にもまだ折れずに残っているものがあると思えた。補強した基礎の上に立つと、少しだけ背筋が伸びる。柔らかな照明の下で客が箸を持つ光景は、長い時間をかけてようやく辿り着いた場所の、小さな証拠だった。
店の間取りは単純だった。入口を入って右手に、一枚板のカウンターが七席。左手は一段上がった小上がりで、座卓が二つ。突き当たりの窓辺には、午後になると光が落ちる。入口側の端が田中の指定席で、窓側の端は、なぜかいつも空いていた。常連の誰もが、そこだけは座らない。美咲が頼んだわけではない。いつからか、そういう席になっていた。
昆布を水から引き上げ、鰹節を入れる。火を弱め、アクを丁寧にすくう。出汁の香りが立ちのぼると、冷たい厨房に生活の温度が戻ってきた。
裏口のノブが二度、控えめに鳴ったのは六時十分だった。
配達に来た八百屋の篠原だった。美咲が戸を開けると、彼は濡れた新聞紙に包んだ小松菜を差し出した。
「昨日のより茎が細い。味噌汁に入れたらうまいよ」
「ありがとうございます。あとで請求書、確認しますね」
篠原は代金の話を後回しにしようとしたが、美咲は受け取った伝票をその場で確かめた。小松菜、長ねぎ、大根、生姜。数字をひとつずつ指でなぞる。篠原が「信用がないなあ」と笑うので、美咲も笑ってみせた。
「信用してるから、確認するんです」
「そういや、倅がな」
篠原は荷台から空の箱を下ろしながら言った。
「来月から、配達を手伝うって言い出した。図体ばっかり大きくて、段取りがさっぱりだ。迷惑かけたら、遠慮なく叱ってやってくれ」
「叱るなんて」
「あんたは、叱るときはちゃんと叱る人だ。それが分かってるから頼むんだ」
美咲は返事に困って、頭を下げた。叱るときはちゃんと叱る。自分がそんな人間として見られていることが、意外だった。
こういうところは昔から変わらない。曖昧にしたことが、誰かの機嫌ひとつで責める材料に変わる。東京の店では、それを嫌というほど教えられた。言った、言わない。頼んだ、頼まない。口約束が後になって誰かの都合で書き換えられていくのを、彼女は何度も見てきた。だからここでは、数字は必ずその場で、紙の上に残すことにしている。篠原にしてみれば、ただ几帳面な店主というだけの話だろう。彼はそんな事情を知らないまま「毎度」と手を振って、軽トラックの音とともに去っていった。
美咲はしばらく扉の前に立ち、それから帳面に数字を書き込んだ。
掃き掃除をするのは、七時前と決めている。竹箒で店の前の細い通りを掃き、残った水を軒先の植木鉢へ回す。向かいの豆腐屋はすでに湯気を立てていて、大豆を煮る甘い匂いが通りの端まで流れてくる。店主の奥さんが暖簾の内側から顔を出し、「おはよう」と言った。「おはようございます」と返す。たったそれだけのやりとりで、一日が正式に始まる。ここへ来て最初の冬、その「おはよう」にどれだけ救われたか、あの人は知らないだろう。誰も彼女の過去を詮索せず、ただ毎朝同じ声で、同じ言葉をかけてくれた。名前を聞かれるまでに三か月かかり、それがありがたかった。
七時を過ぎると、窓の外が白んでくる。通りを新聞配達のバイクが過ぎ、少し遅れて、犬の散歩をする老人の足音が続く。この時間に外を通る人の顔を、彼女はほとんど覚えてしまった。名前も知らないまま、毎朝同じ時刻に目を合わせては会釈を交わす。それくらいの距離が、ちょうどよかった。
十時前、魚屋の若い衆が裏口に顔を出した。首にタオルを巻いた青年で、まだ二十代の半ばだ。発泡スチロールの箱から、背に青みの残る鯖を三枚、まな板に並べると、帰りがけにこう言った。
「夜は崩れるらしいっすね。雷も来るって。美咲さん、帰り、気をつけてくださいよ」
「うち、二階だから帰りも何もないの」
「あ、そうでした」
青年は照れたように頭をかき、軽トラックに戻っていった。美咲は濃く青い空を一度見上げて、それから鯖に塩を当てた。四月の空は気まぐれで、予報はよく外れる。そのときは、それだけのことだった。
厨房の壁には、客の目につかない場所にレールがかけてあり、注文の伝票を挟んでいく。ただし並べ方は、届いた順ではなかった。火の入る時間の長いものが先、短いものが後。煮魚は二十分、焼き魚は十二分、生姜焼きは五分、味噌汁はいちばん最後に温め直す。そう並べておくと、いまこの店でいちばん遅れそうな皿がどれか、顔を上げなくても分かる。誰かに教わったわけではない。東京の厨房で、怒号に追われながら覚えたやり方に、自分なりの手を加えたものだった。あの頃の経験を、この店でだけは役に立てることができる。それだけが、あの日々の唯一の収穫だと思っていた。
十一時、味見をする。味噌汁を小皿に取り、舌の上で転がしてから、味噌を足すか、足さないかを決める。高い技術が要る仕事ではない。毎日同じ味に近づけることだけが目的で、その「同じ」は、実は毎日少しずつ違う。気温、湿度、鰹節の出来、自分の舌の調子。昨日と同じ味だと客に思ってもらうために、今日は昨日と違うことをする。そのやり方を、東京の厨房では誰も教えてくれなかった。ここで三年やって、ようやく少し分かりかけている。
東京で作っていたのは、皿の上で誰かを驚かせる料理だった。ここで作っているのは、食べ終えたあとで、何を食べたか思い出せなくなるような料理だ。味ではなく、食べる前よりほんの少し息が深くなっていたことを、覚えていてもらえたらいい。そう思うようになったのは、いつの頃からだっただろう。
黒板に今日の献立を書く。白いチョークで、日替わり、小鉢、汁物。字は決して上手ではないが、読めればいいと割り切っている。書き終えた黒板を店の外の台に立てかけ、数歩下がって眺めた。文字の端が、少し右に上がっていた。直そうかと思い、結局、そのままにした。
黒板の字を褒めてくれたのは、咲さんだった。開店して半年ほど経った頃、昼休みに味噌汁を飲みながら、「この字、好きです」と言った。「右に上がるところが、元気そうで」。美咲は、下手な字を直さなくていい理由をもらった気がして、それ以来、直すのをやめた。直さないと決めると、書くことが少し楽になった。上手でなくても、読めて、続いていればいい。この店の黒板は、そういう字でいい。
十一時二十分、暖簾を出す。
しばらくして、白髪頭の男が引き戸の向こうに立った。田中だった。開店の十分前から、店の前を行ったり来たりしている。美咲が「まだですよ」と言うのも、田中が「分かってる、ちょっと通っただけだ」と答えるのも、もう儀式のようなものだった。
「美咲さん、いつもの」
入口に近いカウンターの隅の席、そこが田中の指定席だった。毎日きまって、さばの塩焼き定食を頼む。三年前に奥さんを亡くしてから、昼は必ずここで食べる。そう聞いたのは一度きりで、それ以来、美咲のほうから話題にしたことはない。ただ、何も言わなくても、さばは必ず脂ののった大きめの切り身を選ぶようにしていた。
指定席は、もともと美咲が決めたものではなかった。開店して間もない頃、田中が一度、勝手にその席に座った。次の日も、その次の日も同じ席に座った。三日目に、美咲は何も言わずに、その席のおしぼりだけ他より少し温かくしておいた。それ以来、そこは田中の席になった。誰かの居場所になるというのは、おそらくそういうことなのだと思う。
「はい、田中さん。今日のお魚、脂がのってて美味しいですよ」
「昨日もそう言ってたぞ」
「昨日も本当でしたから」
田中は鼻で笑い、おしぼりで手を拭いた。それから、少し間を置いて言った。
「最近、ちゃんと休んでるかい」
「休んでますよ。火曜はお店、閉めてますから」
「店を閉めるのと休むのは違うよ」
さばを焼く美咲の手が、ほんの一瞬だけ止まった。火曜は仕入れと仕込みと帳簿の日だ。市場へ出向き、買い出しを済ませ、溜まった請求書を整理し、翌週の献立を考える。休めるはずがない。しかし、誰かにそれを説明する気にもならなかった。
「田中さんのほうこそ、血圧どうですか」
話題を変えると、田中は大げさに肩を落としてみせた。
「医者がうるさくてな。味噌汁の塩分、減らしてくれって言われた」
「それは聞かなかったことにします」
「ありがたい」
暖簾を出して一息つき、美咲は店の戸口から空を見上げた。雲ひとつない、よく晴れた昼前だった。
この日の昼、小上がりの隅に座っていた見慣れない男が、夜の嵐とともにもう一度戸口に現れることを、美咲はまだ知らない。




