23 深淵の女神
私は慎重に中央の通路を進み、アミラ皇女の元へと近づく。
玉座は数段高く設けられており、私は一歩一歩、段を踏み上がっていった。
その後ろからイシュティナさんが続き、さらにその後ろにユリウスとルキアス殿下が控えていた。
「やっぱり……アミラ殿下だ。身体的特徴もだが、見てくれ、この腕輪。ザガル=アルダ帝国の皇族にのみ許された紋が刻まれている。あしらわれた宝石も地金の細工も、この方が第三皇女である証だ。複製など到底できるものではない……」
横から覗き込んできたイシュティナさんが、改めて力強く言った。
「わかりました。皇女殿下ということも踏まえて、丁重に行いますね。――では、とりあえず鑑定の術式で、現在の状態を魔力的に分析します。」
私は魔力や魔法の流れを手帳に自動記録させる術式を展開し、イシュティナさんを安心させてから、古代の遺物などに用いる鑑定用の魔法陣を起動した。
……普段は物体用だけど、これは人間よりもっとデリケートな対象にも対応できる、安全なタイプ。大丈夫ですから!
――展開して、驚愕した。
魔力構成が、まるで人間のそれではなかった。
どう表現したらいいのか……端的に言えば、魔力の源にぽっかりと底なしの穴が開いていて、その穴が途方もない深淵と繋がっている。
そこから際限なく魔力が湧き出し、中継・変換されて、この国全体に供給されているような構造だ。まるで一生涯使いきれないエネルギー源を、人間用に変換して配っている……まさに変換機。システムに組み込まれた巨大な魔力装置。
――機械の一部。いや、女神の祭殿システムの一部。
そして私は、さらに恐ろしい事実に気付く。
私が術式を展開して働きかけると、アミラ皇女の体内の魔力が反応する。
だが、それは私が直接干渉したからではないように思えた。むしろ別の「仕組み」が動いている。
「ユリウス、ちょっと何でもいいから、中くらいの魔法を使ってみてくれる?」
私が頼むと、ユリウスは怪訝そうに眉を寄せたが、すぐに応じてくれた。
「《ブリザード・ウォール》。」
背後に吹雪の障壁が立ち上がる。
その間、私は注意深く魔力の流れを観察し続けた。
――やはり、間違いない。
アミラ殿下の内部にマーキングしておいた魔力の流れが、不思議な経路をたどり、ユリウスの術環を経由して放出されているのが見えた。
いったいどんな術式かはまだ解析できない。
けれど確かに、アミラ皇女は単なる存在ではなく――何かの中枢装置になっている。
次に私は、彼女の「意識」を探ってみることにした。
他国の学者の中には「心は心臓に宿る」などと言う者もいるが、私たちの国の術式学では、心とは脳の中にあると知られている。
脳に走る魔力の信号が、人の意識を司っているのだ。
彼女の頭部を鑑識魔法でスキャンすると――驚くべき事実が明らかになった。
脳の活動が完全に停止していたのだ。
生命維持を司るはずの基礎機能すら、まるで全てのスイッチが切られているかのように沈黙している。
それなのに、なぜこれほどまでに「生きているように見える」のか――説明がつかない。
もっとも、脳死とはまた違った状態だった。
強制的に機能を停止させられてはいるが、もし解除されれば、いつでも元に戻せそうな――そんな制御された停止状態に思えた。
改めて、彼女の全身を慎重に鑑定し直していくと、更なる恐るべき構造が浮かび上がってきた。
彼女の肉体には、数え切れないほどの術式が幾重にも絡みついていた。
おそらく五十年前から、深淵の彼方に開かれた“穴”から魔力を汲み上げ、それを中継・変換し、国中へ供給し続ける――
ただ、それだけの役割のためだけに存在を縛られたシステム。
まるで、生きた変換機。
いや、それすらも超えた「祭殿の部品」にされている。
私はふと、自分の中に湧き上がる好奇心を自覚した。
――深淵は何なのだろう? いったい、どこへと繋がっているのだろう……?
好奇心は猫をも殺す――とはよく言ったものだ。
どんな危険が待ち受けているかもわからないまま、私はそっと、鑑識の魔力の糸をアミラ皇女の深淵へと降ろしていく。
ああ、私の魔力量がこれほどまでに頼もしく思えたのは、生まれて初めてだったかもしれない。
――また転送構造……? どこへ? この座標は――
魔力の流れを逆流しながら、私の魔力も時空を滑ってゆく。
座標的には、ほぼ真下。地中深く。
私の中へ流れ込んでくる解析データが、次第に網膜の裏に像を結び始める。
暗い地下の巨大な広間――
その中心に、白く自ら輝くような存在がいた。
その光の質は、アミラ皇女にも共通していて……まるで二人が、同じ系統の“装置”として共鳴しているかのようだった。
ただ一つの玉座に身を預け、まるで眠るように微動だにせず座している――
美しい、一人のエルフの女の像が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
その美しさに、思わず息を呑んだ。
私の魔力が、微かに震えたのが自覚できた。
――そのわずかな振動が、届いてしまったのだ。
彼女の瞼がピクリと震え、口の端がわずかに動く。
そして――
彼女から、白く、細く、無数の糸が、ゆっくりと私の方へ這い寄ってくるのを感じた。
本能が、瞬時に危険を告げた。
『オマエガ……ツギノ……ゴハン?』
白い糸が私の魔力に絡みつき、貫き、捕え、私の本体の方へと這い上がってくるのが分かる。
魔力を媒介に、意識そのものに触れようとしている――!
――まずいっっっ!!
大急ぎで鑑識魔力を回収し、強制的に接続を切断する。
私は勢いよく目を見開いた。
すると、目の前に座していたアミラ皇女も、同時に目を開けていた。
見開かれた瞳、開きかけた口――
今にも叫び出すか、あるいは噛みつかんとするかのように、歯が剥き出しになっていた。
「ひぃっっ……!」
私は思わず後方に跳ね退った。
「アミラ殿下っ!!」
私と反対に、イシュティナさんは――アミラ皇女の意識が戻ったと思い込み、縋りつくように駆け寄った。
「イシュティナさんっっっ!」
私は思わず叫ぶ。だが、その瞬間だった。
アミラ皇女の全身に張り巡らされていた封印の術式が、次々と解除されていくのを感じた。
『アア……アあぁぁ……』
アミラ皇女はイシュティナさんの存在も意識せぬまま、喉元を掻きむしるように苦しみ出す。
白目を剥き、全身をガクガクと痙攣させながら、口から泡を吹いた。
慌てて簡易的に魔力の流れを解析する。
アミラ皇女の内部では、深淵からの力が暴れ、しかし同時に――彼女自身のわずかな意識が、その暴走を必死に抑え込もうとしていた。
――そうか……!
普段、アミラ皇女はただの変換装置として、深淵の存在から汲み上げた魔力を中継・分配していた。
けれど、いざ深淵の側が不安定に暴走し始めると、彼女自身の意識がそれをなだめ、抑え込む役割を担わされているのだ。
それは、まるで祭殿の安全弁のような機構だった。
そう考えれば、壁沿いの玉座に座していた屍たちの姿にも説明がつく。
うなだれた屍は、役目を全うして力尽きた者。
叫びや苦悶の形相のまま死した者たちは、深淵の暴走を必死に抑えようとして命を削り尽くしたのだろう。
――そして、私は気づいてしまった。
あの時、私が魔力の糸で辿った地下。
その広間の中央にあった玉座に座していた美しい女――
その顔が、ここにある石像と、寸分違わぬ姿だった。
その台座には銘文が刻まれていた。
《偉大なる指導者、森の守護者、女王――アレヴィシア》
――深淵の源。
あの存在は、まさか……エルフ女王アレヴィシア?
あの存在が……私たちに魔力を貸与する……女神?
ユリウスとルキアス殿下が、佩いていた剣にそっと手を掛ける。
アミラ皇女は、玉座の上でしばらく激しく痙攣し、身をよじらせ続けていた。
だが、やがて次第に動きが弱まり、凪いだような表情へと戻っていった。
その変化と同時に――
彼女の身体に張り巡らされていた何重もの封印の術式が、再び発動してゆくのを私は感じ取る。
自動的に彼女を沈め、外部からの干渉を遮断する、自己修復的な封印構造。
そして――
広間には、私たちが最初に踏み込んだ時と同じ静寂が戻っていた。
「イシュティナ、大丈夫か?……今のは、一体何だったんだ?」
ルキアス殿下が声をひそめて言う。
ユリウスも、心配そうに私とイシュティナさんの顔を交互に見つめる。
「殿下が……殿下が……」
イシュティナさんは床に膝をつき、うわごとのように繰り返していた。
その肩は微かに震えている。
「……アミラ皇女は、この祭殿システムの中枢そのものなのよ。」
私が思わず口走ると、ユリウスもルキアス殿下も、驚愕の表情でこちらを見つめた。
……あ、しまった。唐突すぎたかもしれない。
「ご、ごめん、えっとね!」
私は慌てて言葉をつなぐ。
「ほら、私たち王子と聖女って、術環を通じて“女神の恩寵”から魔力を補強されてるじゃない?
あの魔力の源が――どうも、この真下にいる八百年前のエルフ女王アレヴィシア。彼女が“女神”として祭壇に封じられていて、そこから汲み上げられてるみたいで……」
必死に説明を試みるが――突飛すぎるせいか、二人とも依然としてついてこれていない顔をしている。
「つまり……どういうことなんだ?」
ルキアス殿下が困惑気味に問う。
「ああもう! 要するに! アミラ皇女は、その“汲み上げ装置”の中継地点になってるの! 封印の蓋の上で、流量を調整してる……みたいな!」
専門用語が出そうになるのを必死に噛み砕きながら、私は懸命に説明を続けていた。
――と、その時。
不意に、背後の空気がざわりと揺れた。
次の瞬間、広間の入り口の方から、ゆっくりとパチパチと手を叩く音が響いてきた。
「いやぁ、ご明察、ご明察。ここまで聡い聖女が召喚されるとはね……」
男の声だ。ゆったりと、しかし冷え冷えとした皮肉を含んでいる。
「私はてっきり、あなたたち王子と聖女の脳味噌なんぞ、砂糖菓子のように甘ったるい恋愛感情と、浅ましい性欲しか詰まっていないものだと思っていましたが……いやはや、見くびっていました。」
その声は、わずかな賞賛すら含みつつ、確かな侮蔑が滲んでいた。
「まさか、これほど早く、この祭殿の核心に理論的にも物理的にも迫ってしまうとは……」
薄暗い影の中から、靴音をカツカツと響かせながら現れたのは――
黒い長髪に、漆黒の法衣を纏った男だった。
「誰だっ!!」
反射的にルキアス殿下が声を張る。
だが男は、余裕たっぷりの嘲りを浮かべ、視線を返してくる。
「あなた方に、名乗る必要などありませんよ。
所詮、聖女を召喚するためだけの器官――王子。
そして、女神の贄として作り変えられる聖女。
その役割に過ぎぬあなた方には、ね。」
その声には、乾いた侮蔑と憐れみに似た冷笑が滲んでいた。
「魔力の異常を感じて転移してきてみれば、本当に……哀れですね。
アナスタシア・ノルヴェール。あなたが余計な好奇心を抱かなければ、女神も、その贄も、本来感じずに済んだ苦痛を味わうことになったのですよ。」
彼はゆっくりと、微笑みさえ浮かべながら、淡々と告げた。
「……ちゃんと反省してくださいね?」
すると、男は右手をゆるりと私たちへ突き出し、魔力を放った。
放たれた魔力は、目に見えるほど濃密だった。
赤黒い光の帯が渦を巻きながら、私たち四人を絡め取る。
「くっ――!」
「うぅっ……!」
「あっ……!」
「……ちっ!」
それぞれが短く呻くが、既に手遅れだった。
まるで目に見えない縄で縛られるように、全身が硬直して動けなくなる。
「せっかく核心に辿り着いたばかりなのに、残念ですね――これは、極秘事項でして。」
男は優雅に微笑みながら続けた。
「まさか、そこの聖女がイシュティナの主だったとは……まったく、運命とは皮肉なものです。
ええ、アミラ皇女は返せませんよ。ご覧の通り、大切なお役目の最中ですからね。」
その目が細く笑う。
「……そしてあなた方には――すべて忘れていただきましょう。」
男は一歩だけゆっくりと歩み寄る。
「イシュティナさん。あなたにはここに残っていただきます。憧れのアミラ皇女と、これからもずっとご一緒に。
本望でしょう?」
イシュティナさんが小さく呻いたが、言葉はもう出なかった。
――だんだんと意識が遠のいていく。
体は重く、まぶたが下りていく。開けていたいのに、抗えない。
まるで底なしの泥に引きずり込まれるように、思考がゆっくりと沈んでいった――
やがて、私は、何もわからなくなった。




