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歴史転換ヤマト  作者: だるっぱ
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二振りの剣と弥勒菩薩

 以前に、大阪の国宝展に行ってきた顛末をご紹介しました。あの時はラストを飾る縄文のビーナスに僕は魅了されたわけですが、目的はそれだけではありません。出品された国宝の中に、四天王寺が所蔵している二振りの剣、「七星剣」と「丙子椒林剣へいししょうりんけん」がありました。これら二振りの剣は反りのない直刀で片刃、どちらも長さが60㎝オーバーで日本刀と比べると小ぶりな剣になります。これらの剣は丁未の乱において、敗者である物部守屋の首を切ったとの伝承がありました。


 「丙子椒林剣」は、篆書体で「丙子椒林」の4文字が彫られています。「丙子椒林」の解釈には諸説あるそうですが、「丙子」は刀を作った年の干支、「椒林」は刀を作った工人の姓だろうと解釈されています。対して「七星剣」は銘文がなく、北斗七星雲文、また四神である青龍、白虎などが象嵌されていました。これら「七星剣」と「丙子椒林剣」は二口一双とされていますが、それ以上の情報がありません。


 民俗学者の谷川健一氏は、「丙子椒林剣」の丙子に注目しました。四天王寺管長だった出口常順の論説を紹介しています。丙子は干支の13番目。当時の年代と照らし合わせると、西暦676年、616年、556年が該当します。丁未の乱は西暦587年に起きたので、それ以前に製作されたと考えられます。日本書紀によれば、欽明天皇23年西暦562年8月の条に、大伴連狭手彦が高麗王の宮殿に攻め入って、王の所持品であるかぶと二領、黄金作りの刀二口などを捕獲し、更には捕虜の美女媛とその従女である吾田子を蘇我稲目に贈りました。


 余談ですが、以前に「蘇我馬子考」というテーマで、この高句麗の美女媛について言及したことがありました。稲目と美女媛との間に生まれたのが馬子だと考えています。馬子の姉に堅塩媛と小姉君がいましたが、僕の計算では、彼女たちは馬子とかなり歳が離れていました。姉だとしても、母親が違うと考えます。それに日本に美女媛がやってきたタイミングで馬子が生まれると、歴史年表と齟齬が生じない。また美女媛は媛の一字が添えられているので、高句麗の皇室関係者かもしれない。そうしたバックボーンが、馬子の精神に影響していたのではないでしょうか。


 話は戻りまして、正確なところは分かりませんが「七星剣」と「丙子椒林剣」が高句麗からやってきたと仮定します。片や「七星剣」には出自を表す銘文はありませんが、北斗七星が彫られていました。これは道教的な星辰崇拝を表現している様なのです。


 仏教公伝は、百済が半島への派兵を大和王権に求めるという政治的な意図でやってきましたが、別のルートからも仏教は日本にもたらされていました。百済からは南京を中心とする南朝仏教が、高句麗や新羅からは北朝仏教が伝わります。新羅で仏教が公認されたのは514年に即位した法興王の時代で、この新羅経由の仏教は特殊な変化を遂げていました。それが法興王の甥である真興王の時代に制定された、花郎ファラン制度になります。


 新羅第24代の真興王は深く仏教に帰依していて、美しい娘二人を「原花」として立て400人からなる修養団体を結成しました。ところが、嫉妬した原花の一人が他方を殺してしまうという事件が発生します。真興王はこの原花制度を廃止して、次に良家の品行の良い美貌の男子を選び出し修養する花郎制度を立ち上げました。花郎には、化粧をさせて美しく装わせた とあります。この花郎のリーダーになると国仙と尊ばれるようになり、朝廷に推挙されました。


 「三国遺事」によると、花郎国仙だったある青年は、七曜の精気を受けて生まれたので、背中に北斗七星の紋があったと言い伝えられていたり、「三国史記」では、その青年が宝剣をもって山の中で祈ると、その宝剣に天から光が垂れて七星の霊気が宝剣に入った伝説が残されています。この北斗七星の登場が非常に道教的でした。詳細は割愛しますが、この花郎が新羅の仏教においては、弥勒菩薩の化身だと考えられるようになっていくのです。


 大和王権と半島の関係性を見るとき、物部一族は百済と、蘇我一族や聖徳太子は新羅や高句麗との関係性が深い。聖徳太子を強烈にバックアップした秦河勝にしても新羅との縁が強い。その新羅を発祥とする花郎制度の象徴の様な「七星剣」が、聖徳太子のアイテムだったわけです。秦河勝をはじめとする聖徳太子を支えた人々が、太子を花郎国仙のようにまた弥勒菩薩のように見ていたとしても不思議ではない。


 仏教の本質は別として、飛鳥時代に仏教に縁した人々の最初のイメージは弥勒菩薩だったのではないでしょうか。秦河勝が聖徳太子から譲り受けた国宝の宝冠弥勒も、中宮寺の聖徳太子のお母さんを模したとされる菩薩半跏像も弥勒菩薩になります。弥勒菩薩は、成仏するために修行している菩薩の姿であり、この下界にやってきて人々を救うのは56億7千万年後だそうです。その頃には人類どころか地球も滅亡しているんじゃ……という疑問はさておき、「私たちを救ってくれる」というメッセージがこの菩薩には込められていました。これは現代の言葉に直すと「英雄」もしくは「ヒーロー」。当時の弥勒菩薩とは、そういったニュアンスだったのではないでしょうか。


 四天王寺の本尊は救世観世音菩薩ですが、これは法華経の信仰から広まった菩薩信仰で、日本のオリジナル。そのモデルは聖徳太子でした。僕の勝手な推測になりますが、その源流は弥勒菩薩信仰なんだと思います。ただ、多くの方に怒られそうですが、この弥勒菩薩信仰に仏教の思想は感じられません。仏教の本質は、弥勒菩薩に救ってもらうのではなく、自分が菩薩になり仏を目指していく信仰だからです。弥勒菩薩は、修行者の模範を示したに過ぎない。


 とにかく、「七星剣」と「丙子椒林剣」は、今後物語を紡いでいくうえで、非常に重要なアイテムだと感じました。また、新羅と弥勒菩薩の関係を知れてとても良かったです。今の僕は、様々な情報を頭の中に詰めれるだけ詰めています。詰めた傍から忘れていっている様な気もするのですが、ゆっくりと熟成されていると信じておくことにします。物語の完成はいつになるやら……。

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