縄文と思想③主観的な日本語
前回は、「思想なるもの」というテーマで僕なりの見解をご紹介しました。今回は少し補足をします。人間が作り出すプログラムと人間の思想は良く似ていると、僕は所感を述べました。そのプログラムを「目的を成し遂げるための命令の集合体」と定義したわけですが、では人間の思想において目的とはいったい何でしょうか。それは価値だと考えます。ここで、人間の行動原理を僕なりに定義します。
――価値を手に入れる為に、人間は自分の行動を選択する。
価値を「欲望」と置き換えたほうが分かりやすいのですが、欲望だと対象範囲が広すぎる。哲学者カントは人間が求める至高の対象を「真理」「善」「美」の三つに分けて、それらを「価値」と定義しました。アインシュタインは真理を求めて相対性理論を導き出しましたし、物語のヒーローは人々を救い出すために善い行いをします。また、芸術家は心に感じた世界の美しさを表現しようと技術を磨きました。これら価値を求める意識と、お腹が空いてご飯を食べたい欲望も、どちらも人間が欲求しているという点では同じですが、価値は思想へと昇華しやすい。
僕が高校生の頃は、バブル絶頂期でした。日本全体に勢いがあり、土地の価格はうなぎ上り。夜の街ではお札が紙屑のように消費された時代でした。このバブル期のサラリーマンは、死に物狂いで働くことが美徳とされたのです。このような世界観の中で、日本中を沸かせたCMがありました。三共製薬の栄養ドリンク「リゲイン」です。当時、栄養ドリンクと言えば武田薬品工業が販売する「アリナミンV」が有名でした。このアリナミンVに対抗するために用意されたCMのキャッチフレーズが、当時の思想を代弁しました。
――24時間戦えますか。
このフレーズは、CMソング「勇気のしるし〜リゲインのテーマ〜」の中で歌われたのですが、ポップで明るい行進曲のようなリズムが功を奏して、オリコンシングルランキングではTOP10に入り、1989年の流行語大賞では銅賞を受賞しました。このフレーズの意味、分かりますよね。お金を稼ぐために24時間働けってことなんです。現代ではこんなブラックな企業はアウトですが、当時はそれが許されました。というか、働かない奴は非国民だ……的な思想が日本中に蔓延していたのです。日本中がこのフレーズに酔いしれました。
思想は、強く信じられることによってエネルギーが蓄えられます。このエネルギーが蓄積されて臨界点を越えると、熱病のように人々に感染するようです。感染の仕方も様々で、その思想的価値が尊ばれることもありますし、同調圧力のように強制的に信じ込まされることもありました。その感染スピードは、過去においては緩やかでしたが、現代は加速しています。バブル期はテレビの影響力が大きかったのですが、現在はインターネットの普及によってその感染力また感染スピードが桁違いに増しました。インフルエンサーという影響力を持つ発信者の登場がその証左です。
歴史を振り返ると、価値観は様々に変遷してきました。現在、僕たちが信じている価値観にしても数年先には書き換えられていくのは間違いない。その変化の様子は、以前に紹介した遺伝子に通じるものがあります。思想とは、無から生まれるものではなく変化していくもので、例えるなら川の流れのようなものだと考えます。もし思想のDNAを特定することができたなら、その変遷をハプログループで分けることだって出来るのではないでしょうか。
さて、縄文人の思想について述べていきたいのですが、手掛かりといえば遺跡で発掘されたものが思い浮かびます。竪穴式住居、土偶、翡翠、勾玉、矢じり、火炎土器、貝塚、黒曜石、これらの痕跡から縄文時代の思想をどのように掬い上げたらよいのでしょうか。例えば、有名な土偶で「縄文のビーナス」があります。縄文時代の土偶は女性を象ったものが多く発掘されているので、女神信仰的な思想があったのでは……と類推することができます。しかし、今回はそうした考察ではありません。目に見えない縄文時代の思想を浮かび上がらせるために、僕達が話している日本語の特徴から探ってみたい。
日本語には、未来時制がないことをご存知でしょうか。例えば、過去のことを表すとき、一般的には語尾に「た」を使います。例文をあげます。
――24時間戦った。
リゲインからの拝借になりますが、文脈からは不眠不休で仕事をしてきた様子が伺えます。きっとリゲインも飲んでいたのでしょう。
――24時間戦う。
このように表現すれば、これから戦い始める決意を感じますね。これは現在の時制になります。では、未来ならどうでしょう。
――明日、24時間戦う。
今はやる気がなくて後回しにしているように聞こえますが、「明日」という副詞を添えることで未来を現わすことが出来ます。ただ、語尾は現在形と同じになります。英語であれば、助動詞「will」や「be going to」を使うことで、未来の時制を表現するのですが、日本語は未来を表現するための文法的時制がありません。また、過去を表現するときに語尾に「た」を使いましたが、この「た」は未来でも使えます。
――24時間戦ったなら、明後日の締め切りに間に合うだろう。
なんだか締め切りに追われた漫画家の悲壮感が伺えます。是非ともリゲインを飲んでほしい。ところで「た」の用法には、テンス、アスペクト、モダリティといった使い分けがありました。過去だけを現わすわけではありません。例えば、次のような例文です。
――リゲインを見つけた。
これは発見の「た」になります。ただ、今回のテーマとは関係がないので「た」の話は割愛させていただきます。これまでの例文から理解してほしいのは、日本語は時制に関してとても曖昧だということです。僕たちが当たり前に使っている、現在、過去、未来という時間の流れをあまり意識していなかった節があります。
では日本語は他の言語と比較して劣っているのかというと、それは違います。時制に関しては曖昧な日本語ですが、この世界に対する認識はとても敏感でした。例えば、青色には様々な表現があります。藍、緑、紺、水色、空色、青藍、紺碧、群青、瑠璃、紺青、深川鼠など、ネットで検索すると70種類は直ぐにピックアップ出来ます。これが英語なら「blue」の一単語だけ。また色だけでなく、雨や雲もその状態によって様々な名前が付けられていました。日本語の話ではありませんが、日本人が虫の声を聞き分けることが出来るのは有名な話です。つまり日本人は、この世界を認識するための解像度がずば抜けて高い。
また日本語と英語を比較した時、視点の違いも面白い。例文として川端康成の「雪国」の冒頭を日本語と英語で比較してみましょう。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。(原文)
The train came out of the long tunnel into the snow country.(英訳)
ここで質問です。それぞれの文章の主語は何でしょうか。原文は主語が省かれており、座席に座った主人公の視点で語られた情景描写になります。列車が暗いトンネルから抜け出した時、パッと白い雪景色が目に飛び込んだ時の驚きを感じることが出来ますね。また短い一文でありながら、列車が移動していく時間の経過まで感じることが出来ます。対して、英訳の主語は「The train」になります。トンネルから出てきた列車が雪国を走っていく情景をイメージすることが出来ます。俯瞰的でまるで西洋の風景画を見ているようです。主観的な日本語と、客観的な英語。これは小説を書くときの用法である、一人称と三人称の違いとよく似ています。
このように日本語は主語を省きがちな言語になります。例えば、僕は昨年から登山をすることが多くなりました。山を見た時、次のように言います。
――山が見える。
普通ですね。ところが文法的に間違いではありませんが、英語的な次の様な表現はしません。
――私は山を見る。
英語は、この世界を俯瞰的に客観的に捉えた表現をします。対して日本語はとても主観的。因果関係は分かりませんが、一神教が広まった西洋の言語は、語られる言葉そのものが神視点で語られがちです。対して八百万神の日本は、この世界の隅々にいる様々な神を見つけるかのように認識の解像度を上げていました。この違いは、とても興味深い。
縄文時代に話された言語と、現代の日本語は同じではありませんが、言語が持つ特徴は同じだと考えています。また、D遺伝子をもつ縄文人はホモサピエンスの歴史の中では、最初期のハプログループでした。20万年前に誕生したホモサピエンスは、7万年前にアフリカを飛び出します。この飛び出したグループこそがD遺伝子なのですが、その言語の特徴は日本語と同じように主観的だったと考えています。
人間はサルから進化しました。その特徴の違いは様々にあるわけですが、大きな違いの一つに「好奇心」を挙げたいと思います。言語を獲得した人類は、言語を使って思考するという特性を手に入れました。この思考は、好奇心をブーストします。興味がある。知りたい。そうした好奇心は行動の源泉になりました。人類がアフリカを飛び出した直接的な切っ掛けとは、この「好奇心」だったのではないでしょうか。その好奇心の対象は、もしかすると「太陽」だったかもしれません。だから、東に向かって移動を開始したのです。また、ヒマラヤの北方で生活するチベットのご先祖さまは、山の上に関心があったのかもしれません。どちらも想像の域を出ませんが、日本語がもつ主観的な特徴から、好奇心旺盛な縄文人をイメージしています。
次回は、なぜ時間認識が曖昧なのかについて、僕なりの考察をご紹介します。