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難攻不落の姫君  作者: 野津
一章 閉鎖空間
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01 『スズキ』

 それは、主人となった彼から最初に与えられたもの。

 ――この国の人たちとは違う黄色い肌、黒い眼、黒い髪の自分を識別するための記号。







「スズキ」

 小鳥のさえずりが響く清浄な朝のこと。

 別室からの呼び声に、むつは剥がしかけのシーツから手を放し、パタパタと小走りに声の主の許へと駆けた。

 スズキ――鈴木。

 それは確かに郷里くにではごく一般的な、耳に懐かしい苗字の一ではある。

 …が、しかし、むつが本来有するものではない。引き取られてすぐ、言葉が通じないうちに、名のないままでは不便だと、彼から勝手にそう名づけられただけである。

 あまりに安直だとは思うが、その時は訂正するだけの語彙力もなく、また今更本名を明かしたところで何がどう変わることもないと放置した結果、現在にいたるわけだ。



「スズキ。……あぁ、忙しいところを呼びつけてすまないな。せっかくきみがいるのだから、これしきのことでわざわざ他のメイドを呼ぶのは気が引けてな……悪いが今日も、クラバット【⋆1】がおかしくないか最終確認をしてくれないか」

 むつを呼びつけた人物は、まだ朝も早いのに、すでに頭髪も衣服も綺麗に整えていた。

 思えば、彼が身なりを崩したところを、むつはこれまで一度も見たことがなかった。

「――」

 金髪碧眼の偉丈夫が立ち姿も優雅に朝日の差しこむ窓辺にたたずむ光景は、まるで完成された絵のように美麗で、審美眼などまるでないむつも思わず言葉を忘れて見とれる。

 今まで眼にしてきた成人済みの数々の異人はみな、男女の別なく、総じてむつよりも背が高く体格もよかったが、今、眼の前にいる彼ほど均整の取れた美しい人間には、ついぞお目にかかったことがない。

「…」

 ぼうっとしていると、陶製の彫刻のような精緻な造りの顔貌が徐々に傾いてくる。

 彼のすっと高い鼻先が、ほのかに漂う柑橘の香りとともに触れるか否かの距離で静止し、みどりの宝玉がむつの射干玉の黒いまなこを覗きこんで、ゆるゆると細められた。

「スズキ?」

「――っ」

 玲瓏たる低い大人の男の声が、夢幻の世界に遊ぶむつの意識を現実に引き戻す。

「ぁ…。…も…ぅしわけ、ありません」

 はっとして、たどたどしく言ってから、ヒラヒラとした飾り布がふんだんにあしらわれた白い前掛けの前で、両手をきちんとそろえてから頭を下げた。



 ……この、『めいど服』とか言う、着物とはぜんぜん違う構造も着方もちんぷんかんぷんな衣装を配給されてすぐの頃。

 未知の場所と人とに委縮して、眼が合った彼から穏やかな調子で声をかけられても何も答えずただただきゅっと布地を握りしめて沈黙していたら、彼の後ろに控えていた自分と同じ衣装をまとった女性が怒り顔になって、きつい口調で叱りつけられた。

 何と言っているのかは理解できなかったが、一連の流れと、あの剣幕からして、むつの態度が奉公人の礼儀にかなっていなかったのだと何となく察せられた。

 彼は苦笑を浮かべて怒れる女性と二言三言言葉を交わし、まだまだ言い足りない様子の不満げな彼女をさがらせた後、苦笑いの表情はそのまま、「気にするな」とでも言うようにむつの頭を軽く撫でて、軽く首を振ってみせた。

 それは紛うことなき彼の優しさで、窓枠の上部から垂れ下がる薄い紗がパタパタと風にあおられるかすかな音にさえ過敏に反応するほど不安定だった精神にはことのほか沁みた。

 けれども甘えるわけにはいかなかった。

 図らずも置かれた奉公人の立場ではあったが、彼は凌辱するためだけに買われたものとばかり思いこんでいたこの身を元の真っ当な世界に引き戻してくれた上に、黄色い猿と嘲り罵られ、誰からも――特に、白い肌の異人たちから――彼らと同じ人間とすら認識されていなかった自分を、人並みの、まさしく一個の人間として扱い遇し、衣食住の保障まで確保してくれた大恩人なのだ。譬え彼自身が許しても、無礼となる言動はしたくなかった。

 少しでも早くこの国の言葉を、生活様式を、礼儀作法を覚えて。

 …きっと一生かかっても、到底返せる恩ではないけれど。

 それでも、ここにいる間は、誠心誠意、ありったけの感謝の心をこめて、精いっぱい彼に仕えたい。

 彼がむつに一体何を望んで、女中に迎えたのかは判らない。

 ――判らない、けれど。

 でも、彼に救われたことはたがえようのない事実で、むつの中ではそれがすべてだった。他の何ものも、差し挟む余地のないほどに。

 詰まるところは、だ。最初こそ抵抗のあった『スズキ』という仮の名も、彼からそう呼ばれるたびに自分に馴染んで、今ではごく自然に己のものとして受け入れていた。

 スズキだろうがタカハシだろうが、自分のことなどどうとでも、彼の好きに呼んでくれればいい。彼から受けた恩を思えばそのぐらい、どうってことはなかった。むつの生国を――日本人を連想させる、単なる識別の記号に過ぎない呼び名だろうと、一向に構わない。

 自己の証明の最たる姓名に頓着しなくなるほど、むつは彼に深い恩義を感じていた。

 だからこそ甘えられない。

 それが、むつなりのけじめだった。



 この一件以降、むつは彼と対峙した時の他の奉公人のまねをして、まずは形だけでも――と、とりあえず手をそろえて応じるようにした。そうすれば、何事か要件を申しつけられる以前に、目くじらを立てて叱られるということはなくなった。

 ――それ以外のことでは、程度の大小も含めて、依然叱責はまないが。

 変わらないのは、揺るぎなくじっとむつを見つめる彼の、やわらかな眼差しだけだ。

「謝らなくともいい。…さ、頼む」

「は、い」

 おずおずと両手を伸ばし、きつ過ぎず、緩過ぎずを心がけながら、眼前に差し出された少しだけゆがんだ紐を、自分の技量でできる限り形よく結びなおす。

 元来、手先の器用なむつであるが、この作業は馴染みがなく勝手が判らない分、世辞にも得意であるとは言えない。だから、毎朝彼から命ぜられるたびに、他の使用人か女中にでも頼めばいいのに、と思う。彼らのほうが、むつの何倍も手馴れているに決まっている。

 ――お役目を、別の方に代えてください

 そう願い出ようにも、相手は雇用主。自分は彼の屋敷に雇われている一介の女中。

 こちらから話しかけることすら無礼にあたる相手に、意見などできようはずもない。

 結局、通常の倍近くの時間をかけて、むつは毎朝黙々と彼の首回りを飾る紐の仕上げに従事するのであった。



 なかなかうまくいかず、むうと眉根を寄せて朱色の紐と格闘すること数分。

 手を抜かず没頭した成果か、ようやくそれなりの形に仕上がって、むつはほっと息を吐いてそろりと手を離した。

「…終わり、ました」

「ん。ありがとう、スズキ」

 視線を上げれば、ずっとこちらを見つめていたのか、切れ長の碧眼が即座にむつの黒眸をとらえた。時間の超過を責める気色は微塵もなく、ただ凪のような慈しみのみを宿す。

 とはいえ、少し冷えた朝特有のキンと張りつめた空気は、降りそそぐ陽光とこの国特有のカラリと乾いた陽気に混ぜられて、もうずいぶんと温まっていた。

 朝という時間帯、しかもただでさえ忙しい身の上である彼に、自分の不始末のせいで余計な時間を費やさせてしまった。

 寛容な彼の態度が、かえってむつの落ちこみと彼への申し訳なさを助長させる。

「――すみません」

「…まったく、きみは。さっきから謝ってばかりだな――何を、謝ることがあるのと言うのか。きみにクラバットを結ぶよう頼んだのはわたしだ。余人よりも多少手間取ったからといって、気に病むことはない…なのに、そんな悲しそうな顔をされては、胸が痛む」

「若さま」

「それとも、そんな顔のままわたしを送り出すと?」

 近衛連隊の将校――むつの知識でいうところの直参旗本――という、お堅い役職の中でも極めつけの、筋金入りの『仕事の虫』の異名を冠する真面目な彼の眼が、その二つ名に似つかわしくないいたずらな感情をたたえて光る。暗に「笑え」と、そう言っていた。

 むつはたじろぎ、首をすくませて、幾度も逡巡を繰り返し。――やがて、ぎこちなく目尻の、頬の、口許の筋肉を動かして、笑顔らしきものを作った。

「行って、らっしゃいませ」

「…あぁ、行ってくる」

 果たして、うまく笑えていただろうか。

 今でこそ、こうして彼の屋敷に保護されてはいるが、望まぬ流離の憂き目にあった少なからぬ歳月のうちに笑うということを忘れて、さほどの時は経っていない。

 笑えているのか、いないのか。いまだ判断はつかなかったが、いかにも「よくできました」という満足げな表情でひとつうなずいた彼の様子を見て、ひとまずこれでよしとする。





 その日、むつの頭の中の課題帳に、『言語能力の向上』『礼儀作法の習得』と並んで、『笑顔』の項目が新たに書き加えられた。


【⋆1】ネクタイの一種。

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