具足箱
そう豪語した戸田忠次の作戦とは?
数日後。東三河の要衝・吉田城の門を生真面目な顔をした戸田重貞がくぐっていた。その背後には異様なほど大きな「具足箱」を重そうに担いだ従者が。
当然、今川から派遣された城主・小原鎮実の家臣たちは不審の目を向けた。
「おい重貞、何だその馬鹿げた大きさの箱は!」
呼び止められた重貞は、これ以上ないほど神妙な、今にも泣き出しそうな顔を作って頭を下げた。
「お恥ずかしい限りながら……。いつ松平家康といくさになるかわりませぬ。いつでも鎧をまとって戦えるよう、自らの具足箱を背負って登城いたしました。どうか、城内に置かせてくだされ!」
「ふん、相変わらず大袈裟な男よ。一応、中を見せよ。」
バカ正直な若武者の熱意に、今川方の家臣たちは鼻で笑いながら箱を開けさせた。当然、中に入っているのは重貞愛用の立派な甲冑である。怪しいところは何一つない。
これが、一日目のことであった。
重貞はそれから取り憑かれたように「頻繁に」吉田城へと足を運んだ。目的は小原鎮実や家臣たちとの「交流を深めること」である。
今日も今日とて、あの巨大な具足箱をゴトゴトと引きずって登城する。
「小原様!今日も松平の動向についてご相談が!」
「……重貞か。またその箱を持ってきたのか・」
「ハッ! 武士たるもの、一瞬たりとも油断はできませぬ!」
二日目も、三日目も、重貞は律儀に箱を開けて見せた。中身はいつも同じ甲冑。重貞が来るたびに、城内には「またあのカタブツが、クソ重いゴミ箱を引きずってきたぞ。」という空気が流れ始める。
やがて一週間も経つと、門番たちも重貞の姿を見ただけで露骨に面倒くさそうな顔をするようになった。
「小原様! 本日も。」
「あー、はいはい。もう箱の改めはよい。さっさと通れ。お前の覚悟はよぉく分かった。」
誰も不審に思わない、どころか「見るのも飽きた」という完全な麻痺状態。忠次の狙い通り、吉田城の警戒網は見事に形骸化したのである。
そして運命の夜。
いつものように具足箱を部屋に置かせてもらい、小原たちとひとしきり「家康調伏」の熱い議論を交わした重貞は、下城の許可を得た。
「では小原様、私はこれにて。……おい、具足箱を下げよ。」
「ハッ」
従者が持ち上げたその箱は、いつもより明らかに重く、心なしか中から「みしり……」と絹が擦れるような音がしていた。
そう、中に入っているのは甲冑ではない。事前に城内の奥まった場所で素早く中身を入れ替えた、重貞の「実の母」その人であった。
息子が命がけで運ぶ具足箱の中で、淑女は膝を抱え、じっと息を潜めている。
「お気をつけて、重貞殿。毎度毎度、その重い箱を持ち運ぶのも感心なことだ。」
「は、ハハッ。これぞ武士の嗜みにございますれば……! では、御免!」
冷や汗を滝のように流しながら、重貞は引きつった笑顔で一礼。門番たちも「おう、また明日な。」と軽い調子で見送った。
城門を出て、今川の監視の目が届かない闇に紛れた瞬間、重貞と忠次の手下たちは脱兎のごとく駆け出した。豊川の岸辺には、忠次が手配した一隻の快速舟が待っている。
「母上! ご無事ですか!」
「おほほ、狭かったけれど、良い乗り心地でしたよ。」
箱から救出された母を舟に乗せ、忠次は一気に櫂を漕ぎ出した。夜の豊川を滑るように進む舟の上で、忠次はにやりと笑う。
「よし、これで二連木に足枷はなくなったぞ!」
その数時間後。
吉田城内では、人質が消えたこと、そしてあの重貞が「空っぽの鎧」を城に置き去りにしていったことにようやく気づき、大パニックに陥っていた。
「おい! 戸田のババ様がおらぬぞ!」
「まさか、あの具足箱の中に……!?」
「騙された! あのカタブツめ、最初からこれが狙いか!」
深夜の吉田城に、怒号と間抜けな悲鳴が響き渡る。
陸路がダメなら、油断を誘って文字通り「箱詰め」にして奪い去る。戸田忠次の奇策は、吉田城を大混乱の渦に突き落としながら、見事に大成功を収めたのであった。




