1話
「おい蓮! さっさと荷物まとめろ。いつまで座ってんだ、この無能が」
カトウの苛立った声と同時に、脇腹に鋭い衝撃が走った。革靴の先で容赦なく蹴り飛ばされ、蓮は冷たい石床を転がる。
「……すみません、今すぐ」
震える手で、五人分の巨大な背負い袋を担ぎ直す。中身は予備の武器や食料、そしてカトウたちが贅沢をするために持ち込んだ酒瓶だ。総重量は五十キロを優に超える。
蓮は「荷物持ち」だ。戦闘スキルは皆無、魔力値も一般人以下。
この世界で、蓮のような無能が生きていく術は少ない。まともな職には就けず、その日のパンを買う金にも事欠く。唯一の希望は、命を削って魔石を持ち帰る「探索者」として稼ぐことだった。だが、ソロで戦う力などない蓮は、このBランクパーティ『光の夜明け』に、奴隷同然の条件で拾ってもらうしかなかったのだ。
(これさえ耐えれば……今月の報酬があれば、ようやく宿代が払える。温かいスープも飲める……。だから、今は耐えるんだ)
だが、道中、彼らは蓮を人間として扱わなかった。
険しい道では盾代わりに矢面に立たされ、夜営では一人だけ火に当たることも許されず、凍える地面で震える日々。食事さえ「お前は動かないから腹も減らないだろ」と、犬も食わないような残飯を地面に捨てられた。
「見てよ、蓮のあの顔。まるで泥を啜る犬ね」
治癒術師のマイがクスクスと笑う。かつて同じ村で育ち、「君ならきっと冒険者になれるよ」と励ましてくれた彼女の面影は、権力と金に染まりきり、どこにもない。
このパーティにとって、蓮はただの「動く倉庫」であり、日々の不満をぶつけるための「サンドバッグ」に過ぎなかった。
――そして、災厄は唐突に訪れた。
探索していたBランクダンジョン『嘆きの迷宮』の奥深く。想定外のトラップにより、彼らは無数の魔物の群れに囲まれた。
「チッ、数が多いな……。おい、誰か一人が囮になれ!」
カトウの目が、真っ先に蓮を捉えた。その瞳には、仲間を案じる色など欠片もなく、ただ「効率的に逃げるための生け贄」を探す獣の冷徹さがあった。
「蓮、お前だ。その荷物を置いて、あっちの通路に走れ」
「えっ……? でも、あっちにはボス級の気配が……行ったら確実に死にます!」
「黙れ! 拾ってもらった恩を返せって言ってんだよ! 稼ぎたいんだろ? なら死ぬ気で仕事しろ!」
カトウが蓮の胸ぐらを掴み、魔物の群れが迫る奈落の縁へと引きずり出す。
「大丈夫だ、お前が食われてる間に俺たちが逃げ切ったら、あとで助けに来てやるよ。……まあ、骨が残ってればの話だがな!」
カトウの剛腕が、無慈悲に蓮の細い体を突き飛ばした。
「あ、あああああああ!」
重力に引かれ、視界が高速で回転する。頭上からは、マイや仲間の男たちの、嘲笑と安堵の混じった声が聞こえてきた。
『悪く思うなよ蓮! お前みたいな無能でも、最後に俺たちの役に立てて光栄だろ?』
真っ逆さまに落ちる意識の中で、その言葉だけが、これまで受けてきた屈辱を凝縮した呪いのように耳にこびりついた。
――ドォォンッ!!
凄まじい衝撃。鼻を突くのは湿った土と、腐った肉の臭い。
佐藤蓮は、暗い大穴の底で仰向けに倒れていた。右足は妙な方向に曲がり、呼吸をするたびに折れた肋骨が肺を刺し、骨が軋む。
「あ……あ……」
頭上を見上げれば、遥か遠くに円形の光が見える。地上。
必死に生きるために、小銭を稼ぐために、プライドを捨てて尽くしてきた「英雄」たちが、今も自分を笑っている場所だ。
喉の奥から込み上げるのは、土が混じった血の味と、制御不能な嗚咽だ。
(痛い……寒い……。なんで俺なんだ。あいつらの靴を磨いて、飯の準備も、深夜の火の番も全部、一睡もせずにやってきた……。それなのに、死ぬ時はゴミみたいに捨てるのか?)
視界が涙と血で歪む。暗闇の奥から、無数の赤い目がこちらを覗いているのが分かった。
『嘆きの迷宮』の下層に棲む飢えた魔物たちが、降ってきた「新鮮な餌」を品定めするように鳴き声を上げる。
(死にたくない……。嫌だ。まだ何もしてない。腹一杯飯を食ったことも、誰かに人間として見られたことも一度もない……。このまま、あいつらのために死んで、肥料になって消えるのか?)
意識が遠のき、絶望が黒い泥のように心を満たしていく。だが、心臓が止まる寸前、その絶望の底から、今まで感じたことのないほど熱く、鋭い「殺意」が突き上げてきた。
「……ふざ、けるな……っ」
蓮は、震える折れた指で地面を掻き毟った。爪が剥がれ、生爪の間から泥が食い込む。その激痛が、逆に彼の死にかけていた意識を強引に覚醒させた。
「死んでたまるか……。あいつらが、俺の稼いだ金で美味い飯を食って、女を抱いて、英雄面して笑ってる間……俺がこんな暗い穴で腐って終わるなんて、あってたまるかッ!!」
――殺してやる。全員、俺が味わった絶望の何万倍にして、引きずり下ろしてやる。
その醜悪なまでの執念に応じるように、彼の魂が「音」を立てて変質した。
《個体名:佐藤蓮の生存本能が規定値を超過》
《隠しスキル:経験値強奪が発現しました》
《――「飢え」を満たしますか?》
「……ああ、全部食ってやるよ。魔物も、人間も、俺をゴミ扱いしたこの世界も全部だ!!」
暗闇から飛びかかってきた最初の影。巨大なネズミ、ラージラットが蓮の喉笛を狙う。
だが、それよりも速く。
蓮は、折れた腕で無理やり魔物を引き寄せ、その喉笛に「自らの歯」を突き立てた。
ゴクリ、と。
温かい血と共に、自分以外の生命の輝きが、ドロリと胃の奥へ流れ込んでくるのを感じた。
《初獲得:経験値を吸収しました》
《レベルアップを開始します》
暗闇の中、佐藤蓮の瞳に、禍々しいまでの紅い光が宿った。
簒奪者の物語は、この最底辺の泥の中から始まった。




