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大きな揺れで不意に体が浮き上がり、何か硬いものに尻を打ち付けた衝撃でゲインは目を覚ます。
周囲を見回した。幌がかけられた荷台の中で、ゲインを含めた四人がそれぞれ離れた位置に座っている。
年が近いと思われる若い男、隅で片膝を立てて本を読んでいる少年、不機嫌そうな髭面の中年男。外にはご苦労にも雨の中でわざわざ御者をやってくれている隊商側の人員もいる。
そこは左右を木々に囲まれた山深くの森の中で、やや幅広の通行路が一本だけ南北に長く伸びていた。雨の中、一頭引きの竜車十台がそこを一列縦隊で進んでいた。
カルマムルとサルタナの元国境付近。
今では前者の領地となっている山岳地帯では、暗い色をした雲が空を覆っていた。雷の音こそ聞こえないが、地面や木の葉に落ちる雨粒の音は強く、ひどくうるさい。ずぶ濡れを避けるために途中で幌を掛けたのだが、小窓があるとはいえ周囲の状況が窺えないというのはいささか落ち着かなかった。
休戦状態になってから三ヶ月ほど経ち、ようやく国交も回復したものの、人の行き来に関してはまだまだまばらな様子だった。手入れのされていない交通路は荒れている。この場所も戦場になったようで、車輪がときおり人や獣の骨を踏んでは荷台が音を立てて揺れていた。
国境沿いのサルタナ側の防衛隊とカルマムルの演習中の部隊が偶発的に衝突したことに端を発する紛争は二年ほど続いた。事件発生後、どちらの国の政府も非難声明を発し、十日後には最初の本格的な衝突が始まった。
両国の国民は迫り来る戦火に戸惑い、悲嘆の声を上げたが、それとは裏腹にそのほとんどが戦争の準備を無駄なく進めていた。非戦闘員は荷物を纏めて素早く非難し、訓練中だった軍人は召集されるまま戦地に赴いた。半島をほぼ二分する両国の小競り合いは、半ば定例行事と化したものだった。
また、設計思想による程度の差異はあれど、全ての信徒は神が設計して生み出した自らの端末であり、至尊の代理として争うことは、信徒にとっては持って生まれた宿命のようなものだった。
遥か昔はそうではなかった。神話の時代、彼方から飛来した神々は自らの足で地上を、海を、空を闊歩していた。各々思うがままに原生生物を駆逐し、支配する領域を拡大し、この星を蚕食していた。星髄を食らい、己の糧とし、さらに力を蓄えるため。
いずれの神も目的を同じくする。利害が重なれば当然、争いが発生した。
強大な力を持つ存在であればあるほどその戦いは熾烈を極めた。星の法則を捻じ曲げ、地形や気候を不可逆的に変動させるほどに。
しかし、それは多大な消耗を強いるものでもあった。勝利を手にしておきながら取るに足りぬはずの相手に寝首をかかれることもあれば、第三者の策謀でその状況に陥れられ、共倒れになることもあった。
とある神は考え、迂遠だが危険の少ない方法をとることにした。それが自らではなく代理による支配の拡大。
神は駒を造り、盤上に配置した。自己複製し、自律動作する星髄の収奪装置。脅威に対する緩衝材。外敵を排除するための剣を。そして長い年月をかけ、試行錯誤を行いながら改良していった。自らの手足として相応しい働きをするよう、姿形やその精神の有り様を二転三転させて。
どの神も気の遠くなるような年月を飽きることなくこのゲームに興じている。
「居眠りとは余裕だな、あんた」
幌を打つ雨の音をぼんやりと聞いていたゲインは、声のした方に顔を向ける。隣に座った、歳が近いと思われる男が、何故か挑むような視線でこちらを見ていた。
「こいつが楽すぎるのがいかん」ゲインは短槍で荷台を叩いた。
隊商の護衛として雇われ出発してから数日、特に何が起こるでもなく、道程は穏やかなものだった。歩きだとまた違った感想を抱いただろうが、竜車の荷台という特等席での旅だ。
「それに関しては同感だ。特にこの辺は地盤がゆるいせいで雨が降ると酷いことになる。徒歩だったらと思うとぞっとするね」
そう言われてゲインの脳裏に雨天の汚泥の中を行軍をさせられた記憶が蘇った。長靴の中まで入り込んだ泥水。歩く度に鳴るぐちゅぐちゅとした音と気持ち悪い感触。疲れてくるとそういった感想すら出なくなり、痛かったはずの足からは感覚が無くなる。ただただ一歩ずつ歩を進めることしか頭の中に残らない。その時の苦労と比べれば今の待遇は天と地だった。少しばかり尻が痛いが、その程度は不満のうちにも入らない。
「ただまあ、この調子で降り続けられると、そのうち車輪もぬかるみに取られるだろうよ。外に出て荷台を押す覚悟をしといた方がいい」
「そいつは勘弁して欲しいな」
冬季から雨季に入ったとはいえ、今はまだ日中の陽が上っている時間帯ですら肌寒い。外を歩かされるのはともかく、できれば濡れるのは避けたかった。
「詳しいね。この辺の人かい?」ゲインが尋ねた。
「いいや。ただ、この隊商とはよく仕事をするんでね。そっちは軍人くずれ?」
「よく分かったな」
男がゲインの身に着けたものを指差した。
「そいつ、カルマムル軍の正規品だろう? 紋章部分が潰されてるから横流し品か盗品かとも思ったんだが、どうも着慣れてる感じがしたんでな」
男が先ほどから発している言葉が聞きなれない訛りをしていたため、サルタナ側の人間だと判断した。視線の意味にようやく気づく。
「知り合いでも殺されたか?」
「ああ、一番上の兄貴だ。こんなところでふらふらしてる俺と違って出来がよくて、実家を継ぐ予定だったんだ」
「そうかい」
「そっちは?」
「こっちも死んだり、死ななかったりだ」気に食わない上官も気の良い部下もいて、それぞれ生き残りも死にもした。
「もしかすると、兄貴はあんたに殺されたのかもな」
「そうかもしれない」
ゲインはあっさりと頷いた。会話が途切れる。空気が張り詰めていた。
「着いてからやれ、ガキども」
その様子を見ていた髭面が苛立たしげに吐き捨てる。
戦争はひとまず終わったが、休戦の協定が結ばれてから、まだどれほども経っていない。今も禍根はそこら中で燻り、唐突に燃え広がっては更なる灰と怨嗟を生み出し続けている。両国の歴史から見れば今度の戦争は期間としては短いものだったが、だからといって失われた命、流された血の価値が減じるわけでもなかった。
徴兵され、言われるがままに訓練を受けたゲインは、そこで身につけた手練手管を駆使して上から提示された問題を解決、あるいはそのように見せかけることをひたすら繰り返した。大部分の国民がそうであるように、カルマムルという国、社会の求めに応じる形で、徴兵の罰金を回避するというまったく個人的な事情から流されるままに戦争に参加した。
向いているか否かで言えば間違いなく前者だった。それでも、続ける気にはならなかった。
嫌なことを思い出したせいで喉が渇いた。景気づけにいいものを買っていたことを思い出し、腰の皮袋に手を伸ばした。栓を抜き、中身を一口飲む。蒸留酒が冷えた体を中からかっと熱くした。
「あんたもどうだい?」
隣の男に差し出す。相手は思い切り顔をしかめ、やや迷ってから、ひったくるように皮袋を奪い取った。中身を全て飲み干してやるとでもいうように皮袋の尻を持ち上げる。
その首から上が唐突に消し飛んだ。
首の断面から噴水のように赤い液体が噴きあがる。おびただしい量の血が狭い荷台中にまき散らされる。
一頭の獣が幌を突き破って竜車の荷台に顔を突き入れていた。低い唸り声を上げ、牙から血を滴らせながら長い円錐状の頭部をぐるりと巡らせる。次の獲物を探して。
ゲインは肩に担いでいた短槍をとっさに両手で持ち直し、背中に冷や汗が吹き出るのを感じながら真っ直ぐ突き出した。穂先は硬い毛と分厚い皮膚に覆われた首に突き刺さる。獣の口から悲鳴とも咆哮ともつかない轟音が発せられて鼓膜が痺れた。
男の血で足が滑らないように気をつけながら、上から押さえ込むように力を込めた。獣がのた打ち回り、荷台が大きく揺れる。槍の柄に捻りを加えて強靭な筋肉を抉るように掻き分けると、硬いもの──恐らくは骨──に当たった感触がした。
ぐるぐると蠢く血走った獣の目と視線が合う。ゲインは悪態をつくように睨み返し、足を踏ん張って穂先をさらにねじ込んだ。
気付けば竜車の足は止まっていた。
何度かの痙攣の後に獣が動かなくなる。
ゲインは全身から緊張を抜くために大きく息を吸って、吐いた。そこでようやく周囲の状況を確認する余裕ができる。突入してきた獣は一人で事足りると判断されたのか、最初に殺された男以外はそれぞれ外に飛び出していた。
男の死体を眺める。巻き添えで皮袋はずたずたになっていた。中の酒は全て漏れ出て、血と混ざり合って赤錆色の染みになっている。
ゲインは何度か自分の腹を殴って活を入れ、荷台から出た。